コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「……分かった。でも――」
結葉は渋々といった調子でうなずいてくれて。
でも、と言葉を続ける。
「でも、お願い。やっぱりアンダーマットレスは明日ちゃんと買ってきて? 私のせいで想ちゃんが寒いのはイヤ。もちろん、私のワガママだし、私が買うことにしてツケにしといてくれたんでいいから」
心配そうに眉根を寄せる結葉を見て、想は小さく吐息を落とす。
「……分かったよ」
結局、自分は結葉にはとことん甘くて敵わない。
そう思った。
***
「――で、結局どうしようか? 当初の質問にまだ答えてもらってないんだけど?」
吐息混じりに言った想から見つめられて、結葉は「え?」と小さくつぶやいた。
当初の質問って何だっけ?
そう思っていたら「俺の布団、どこに敷けばいい?」と想がバツが悪そうな顔をして聞いてくる。
「想ちゃんの布団……」
復唱するように想の言葉を繰り返してから、結葉はその言葉のパンチ力にじわじわと心を侵食される。
「あ、あのっ、えっと……」
普通に考えたら別室に、が正解だと思うし、結葉がマトモな精神状態なら何の迷いもなくそう答えていただろう。
だけど――。
想が自分の目が届かないところに行って……自分一人で寝ないといけないと思うとすごく不安になって。
「常識的に考えたら……別々にって言うのが正しいんだと思う……。でも」
そこまで言って、恐る恐る想の反応を窺うと、想は黙って結葉がその先を付け加えるのを待ってくれていて。
「でも……出来れば……想ちゃんがいるのを感じられる方が……怖くなくて助かり、ます」
既婚者の自分が、独身の――しかも異性である想に、同じ部屋で眠って欲しいなどと言うのは、とても不埒なことだと結葉にだって分かっている。
分かっているけれど、そう願わずにはいられなくて。
「……了解」
想だって、結葉の言葉に思わないことがないわけじゃないだろうに、何も言わずにうなずいてくれた。
「あ、あの――。想ちゃ、ホントに……いい、の?」
ソワソワしながら問いかけたら「いいも何も……お前がその方が落ち着くんだろ? だったらそれでいい」と想が頭をそっと撫でてくれる。
「けど。とりあえずその前に風呂だな、風呂」
想が気持ちを切り替えるように言って、「結葉、先に入ってこいよ。俺、その間に寝床整えとくから」とうながしてくる。
今日買った荷物の中には結葉用のシャンプーやコンディショナー、それから洗顔料の他に、パジャマも二着ほどあって。
結葉はコクッとうなずくと、部屋の片隅に袋詰めしたまま置いてある荷物を解きに向かった。
「あ、そう言えば結葉の服が整理できるようなもんも買って来とかねぇといけねぇな」
いつまでも袋の中から出し入れでは不便だ。
「ホント、俺って後手後手だよな。すまん」
はぁっと吐息を落としながら謝る想に、結葉はフルフルと首を横に振る。
生活に必要なものを一気に買うだなんて土台無理な話なのだから、あ、あれも要る、となったものはその都度少しずつ集めていけばいい。
「そんなことない。私、想ちゃんがいてくれなかったらきっと、路頭に迷ってたもん」
雪日の住環境改善のために、想が衣装ケースで作ってくれたケージ。
そのついでに買い揃えてくれた、ハムスター用のフードや床材やおもちゃ。
想がショッピングモールに連れて行ってくれたから、アレコレ揃えられた服や食器類や化粧品、それから細々とした日用品。
追加で買いに行ってくれた寝具一式。
芹が想に言ってくれて、夕飯前に手渡されたばかりの新しいスマートフォン。
今日一日で、想は結葉のために一体どれだけお金を使ったんだろう。
どう考えたって、申し訳ないと感じなくちゃいけないのはこっちなのに、と思ってしまった結葉だ。
想は前貸しみたいなものだから気にしなくていいと言ってくれたけれど、気になるものは気になるのだから仕方がない。
だけど、それを口にすれば、想が困った顔をして「そう言うことはもう言うな」って不機嫌になるのも分かっていたから。
だから結葉はそこに関してはもう言及すまい、と心に決めている。
そもそもどんなに引け目に感じたところで、自力でどうにも出来ない以上、現状、結葉は想に頼るしかないのだから。
(なるべく早くお仕事見つけなきゃ)
でも、そのためには偉央とのことを何とかしなくては話にならない。
結局はそこに戻ってきてしまうことを少しもどかしく思ってしまった結葉だ。
***
「あ、あのね。想ちゃん。迷惑ついでにもうひとつお願いしてもいい?」
パジャマを探してゴソゴソしていたら、袋の中から今日モールの試着室で今着ている服に着替える前に着ていた、コンシェルジュの制服が出てきた。
それを手に取りながら結葉が想を見つめて。
「ん?」
想がこっちを向いてくれたから、結葉は制服を見せながら「これ、クリーニングに出してきて欲しいの」と恐る恐る言ってみた。
想は「お安い御用だ」とニッと笑ってくれて。
「朝イチで出しといたら帰りには取りに行けると思う」
と付け加えてくれる。
「いいの?」
一日のうちにあちこち寄ってもらうのを心苦しく感じてしまった結葉だ。
おずおずと問いかけたら、想は「職場までの通り道にあるから問題ねぇよ」と言ってくれて。
そこでハッと気づいたみたいに「俺が仕事行ってる間……」と言葉に詰まる。
想は咄嗟に言葉を濁してくれたけれど、結葉は想が言わんとするところがすぐに分かった。
と言うより、自分自身そこをどう乗り越えようと心の片隅で思っていたから。
***
「あんな、お前を不安にさせたくなくて黙ってたんだけど――」
不意に想が声の調子を変えたから、結葉が怯えたようにキュッと身体を縮こまらせたのが分かった。
実際、こんな風に声音を変えて話し始めるつもりじゃなかった想だ。
自分の緊張が声に乗ってしまったことを今ほど後悔したことはない。
明らかに萎縮してしまった結葉を見て、申し訳ない気持ちになって。
小さく深呼吸をすると、今度は極力穏やかに聞こえるように言葉を紡いだ。
「実は今日の昼間にな、お前の旦那から電話があったんだ」
だけど伝えた言葉が声音を凌駕するのに十分すぎるほど衝撃的な内容だったからだろう。
想の言葉に、結葉がヒュッと息を吸い込んで顔面蒼白になって。
それでも小さな声で
「偉央……さん、から……」
と絞り出すように想の言葉を復唱した。
きっと、その後に「何て?」と続けたいんだろうに、それすらハッキリと声に出せないくらい結葉が動揺しているのを感じた想だ。
今更だろ?と思いながらも、想は小刻みに震える結葉の小さな手をギュッと握らずにはいられなかった。
「大丈夫だ、結葉。お前の旦那な、お前を連れ戻す気はないらしい」
結葉の背中をゆるゆると撫でながらそう言ったら、結葉が息を呑んだのが分かった。
***
想が結葉に衝撃の告白をしていた丁度その頃――。
タワーマンションの一室で、偉央は一人、まんじりともせず暗闇に溶け込むように静寂をまとって座っていた。
偉央にとっては結葉がこの家を出て行って初めての夜だ。
偉央は冷蔵庫のモーター音と、自分の吐息ぐらいしか聴こえてこないひっそりと静まり返った部屋の中、電気も付けずにスツールに腰掛けていた。
昼休みに帰宅した時、結葉が部屋からいなくなっていることに気が付いて、山波想と話して。
電話口、想から明確に結葉を匿っていると聞かされたわけではなかった偉央だったけれど、相手の口ぶりから結葉が想を頼っていることは明白だと思った。
それと同時、想が、結葉が家出をするに至った経緯――偉央が結葉にした非人道的な数々の仕打ち――を知っていることも確信したのだ。
だからこそ、偉央は意を決して想に言ったのだ。
『――でしたら話は早い』
と。
***
開けっぱなしのカーテンから淡い月光が部屋の中に差し込んでいる。
満月が近いのか、それは結構な明るさだった。
月明かりとは別に、部屋のあちこちでテレビの主電源を表す赤いランプや、DVDデッキの時計表示、ウォーターサーバーが稼働していることを示す電源ランプなどなど、様々な家電の待機ランプが仄かな明かりを周囲にもたらしていて、照明を付けていなくても案外部屋にある物の造形などが薄らと見えていた。
キッチンカウンター前のスツールに腰掛けた偉央の手元、結葉を繋いでいた足枷と鎖が無機質な光を放っている。
「……結葉」
返事などないと分かっていてもつい愛しい妻の名を呼んでしまう偉央だ。
ギュッと足枷を握り締めると、それじゃなくてもエアコンの効いていない室内で冷え切った偉央の体温を、鉄の輪っかが更に奪ってしまう。
偉央は、そこから全ての熱が流出してしまうような錯覚を覚えた。
それならそれでいい、と思ってしまうのは自暴自棄になっているんだろうか。
「……きっとこれで良かったんだよね?」
誰にともなくつぶやいた偉央の低音ボイスが、仄白い月光に滲むように溶ける。
あのまま結葉と共にいたら、自分は恐らく結葉を殺めてしまっていた。
偉央は、愛する結葉を傷付けたいわけでも――ましてや殺したいわけでもない。
ただ、健やかに自分のそばで笑っていて欲しかったのだ。
だけど結葉を殺してしまう以外に、自分が安心できる術はないとも思う自分がいて。
気が付くと、いつも結葉に酷いことをして怯えさせ、身体的にも肉体的にも苦痛を強いてしまっていた。
ふと冷静になったとき、偉央はいつも後悔の念に駆られるのと同時、今のままではダメだという焦燥感に苛まれ続けていた。
自分の中の〝魔〟から結葉を守るには、結葉を、自分の手が届かないところに逃すしかない。
分かっているのに、偉央はずっとそれが出来ないでいた。
(結葉、僕をひとりにしないで?)
と思う自分と、
(結葉、僕のそばから一刻も早く逃げて!)
と、真逆なことを願う自分とが、心の中でずっとせめぎ合っていた。