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寂しげな顔色の朝が東の空から現れるが、トンドの都への祝福とするにはあまりも強い吹雪を連れてきた。
工房馬車の最も広い部屋にて、ユカリたちは端の方で櫃に座り、ユビスは暖炉の前に陣取り、焚書官たちは部屋全体に散らばっているが全員立って、待ちに待った報告に耳を傾ける。
王都に偵察へと向かっていた焚書官たちが無事に戻ってきて、王都の有様を出来る限りつぶさに、しかし感情を込めることなく語り聞かせていた。サンヴィアに輝く美麗にして澄明なる氷の都と謳われた王都トンドはクオルの襲撃を受け、魔物が跋扈する魔の都となり、しかしその美しさは変わりないという。それほどクオルの戦は一方的に行われ、魔物たちは殺戮を好んだが破壊に興味はないらしく、無目的的にうろついているだけなのだそうだ。
また全ての魔物は王都の内部、防壁の向こうにおり、昼も夜も変わらず徘徊を続け、尋常の生物と違って休息というものを知らないらしい。
そしてその魔物の数は、レモニカが初めて目撃した時よりも、港町アクトートを襲撃してきた時よりも遥かに多い。
「あくまで我々が確認した範囲で、ですが」と偵察に向かった焚書官の一人が前置きする。「その魔物どもの大多数が二本の足で歩いていました」
怖ろしい報告を聞いた全員が、しかし恐れることなくこの戦いに参加する意思を表明した。
ただしユカリたちの戦いと焚書官たちの戦いは重なるところが多いものの、同じ戦いではない。
ユカリたちの目的は魔導書を魔法道具と言い換えつつも全て焚書官たちと共有する。あくまで魔導書の完成が目的であり、その前に立ちはだかるクオルを排除するか、魔導書の完成によって弱体化したクオルを排除するかは状況次第だ。
焚書官たちの目的はクオルの討伐もしくは捕縛だ。魔法道具の完成でのクオルの弱体化には期待していない。ユカリたちはその過小評価を不安視し、本当は魔法道具などではなく魔導書であることをサイスに告白するかどうか迷ったが、そもそもこの協力関係すら危ぶまれるので諦めることにした。
第一目的は一致しなかったが、もしもトンド王国の生き残りがいれば優先して保護し、避難させることはお互いに同意する。魔物の扱いに関しては少しばかり意見が食い違ったが、融合されてしまった人々を助ける方法を模索するのは、ユカリたちと焚書官たちの目的を達成した後ということになった。
「確かにクオルも化け物じみた姿となりましたが、魔物とはまるで違いますわ」ユカリの隣で焚書官の姿で櫃に座るレモニカは焚書官たちの眼差しを一身に受けて、情報を提供する。「形は人間のままでした。ただし骨が光っているのです。ええ、体の中の骨が強い輝きを放っていました。太陽の光が幼子の手のひらを透けるように外へと漏れ出ているのです。血や肉のためでしょうか、仄かに赤みがかっていましたわ。その輝きにどういう意味があるのか、魔法に疎いわたくしには分かり兼ねます」
「戦い、と称していいのか分かりません。クオルはただただ歌っていました。わらべ歌のような柔らかで単純な調べですわ。すると周りのものが変身し、融合するのです。何がどのように作用しているのかなど知る由もありません。もちろん、その歌詞を覚えている限りお伝えしますが」
「ええ、わたくし、魔法道具を……クオルに盗まれたあの衣を呪ったのですわ。呪われたものがただただ欲しくなる呪いなのですが、呪われたものの位置が分かる力もあるのです。ええ、間違いなく、あの衣は岬の突端、王宮の内部にあります。クオルもまたそこで待ち受けているというわけですわね」
元々皆が知っているクオルについてと、港町アクトートで搔き集めた情報と、偵察から戻ってきた焚書官たちの報告と、レモニカの報告を頼りに、ユカリたちは作戦を編み出そうと意見を交わす。極力魔物との戦いを回避し、全員で王宮へ至るための策を練る。
「そういえばメヴュラツィエの獣以外であの闇を見た者はいる?」とベルニージュはその場の全員に問いかける。「つまりアクトートに現れた魔物たちの中に同じような闇を発現した個体がいたかどうか」
「誰もいないようだな」とサイスは部屋を見渡して確認し、ベルニージュに尋ねる。「よければあの闇について私見を聞かせてくれるか? 先代の首席焚書官がルキーナと似たような姿になっていた。彼はそれが魔導書による被害だと語っていた。それ以上詳しくは教えてくれなかったが」
「魔導書? それは確か? 初めて聞いたよ」とベルニージュはサイスに言った。
その言葉の棘が自身に向けられていることにユカリは気づく。ユカリ自身もサイスの先代であるチェスタの上半分が失われた頭を見た。そして確かにそれは魔導書による被害だと語っていた。ユカリはすっかり忘れていた。
「先代の話を信じるならば、だ。僕も誰も頭部が失われる瞬間を直接見たわけじゃない。いつそうなったのかすら教えてはくれなかったからな。分かっていることといえば、目を失っても見ることができ、頭が無くなっても考えることができていたということくらいさ」
ユカリの心臓の鼓動が速くなる。つまりあの茜色の円套、魔導書の衣はあの謎の闇を生み出す力を持っている可能性があるということだ。だとすれば元型文字を生み出すために迸る光もまたそのことと関係しているのかもしれない。
さらに先の想像を巡らせているだろうベルニージュの方に少し目を向けるが、いつもと変わらない様子だ。
「そう」ベルニージュは関心がないかのように頷く。「推測で良いなら。たとえば単に魔導書による強力な幻覚を見せられていたのかもしれない。ルキーナはどう考えたのかな。あの行動からすると、失われた体は別のどこかにあって、見えない力で繋がっていると考えたのかも」
赤ん坊のそばにいたいがため、だろうか。ユカリはルキーナの気持ちを想像するが、ユカリの想像力は暗闇の中で力なく手足をばたつかせて萎んで消える。
「まあ、いいだろう」サイスは小さなため息をつく。「ともかくメヴュラツィエの獣以外で謎の闇を見た者はいない。だが、同じ物をまたクオルが作るかもしれない。警戒は怠らないようにすべきだな。さて、聞いた通り、魔物たちが寝静まることはなく、鼠のように闇の奥とて見通せるらしい。そして僕たち人間はそうではない。であれば僕たちは闇に頼るべきではないだろう」
そういう訳で、偵察から戻ってきた焚書官たちの疲れを癒した後、昼間の内に王都トンドへ潜入すると決まった。
人間はユカリとレモニカだけが工房馬車に残り、他は全員王都へと向かった。ユビスは鼻を鳴らしながら、吹雪の止まない馬車の外で待っている。
「上手くいくといいのですが」とレモニカは不安の言葉を口にするが、その表情は焚書官の鉄仮面で見えない。
「まあ、駄目だったら、その時はその時だよ」とユカリは言って、蓋を開いた櫃の中身を見下ろす。中には一匹の鼠がいる。「ではよろしくお願いしますね。ゲッパさん」
「うむ。レモニカの頼みとあらばお安い御用だ」ゲッパはふんぞり返って、きいきいと鳴く。「どうかクオルの奴めに復讐を果たし、予らの同胞の魂を癒してやってくれ」
ユカリはゲッパと話しながら、レモニカにも通訳する。
「どうか、お元気で、陛下」レモニカは祈るように手を組んでゲッパに別れを告げた。
「うむ。レモニカも達者でな。そして予らにも奴めに一泡吹かせる役割をくれてありがとう」
ユカリは櫃の蓋を閉めて、ゲッパを閉じ込める。確認するように周りに集った鼠たちに言う。
「事が終わればこの櫃を破壊して、とにかく逃げて逃げて逃げてね」
鼠たちはきいきいと鳴いて応える。
ユカリは櫃の蓋に向き直り、その縁に触れてなぞる。唇は小さくも複雑な呪文が乗っていて、ユカリの触れた蓋の縁に刻まれていく。北へ行く渡り鳥を呼び止める声で、死出の旅に持たせる手紙の結びの語を唱え、長らく開かれることのなかった書を読む際の魔除けの句を諳んじる。全てを刻み終えるとユカリは櫃の蓋を外す。すると蓋のない、開かれることのない櫃ができた。ルキーナに教えてもらった、ユカリと義父ルドガンを燃え盛る家に閉じ込めた魔術だ。まさか自分が活用する日が来るとは思いも寄らなかった。
鼠たちに別れを告げて、ユカリとレモニカは櫃の蓋を持って、吹雪荒ぶ外へと出る。しばらくして工房馬車は動き出し、吹雪に立ち向かうように西に向けて走り出した。
ユカリは慎重に、蓋を開いてしまわないように地面に置くと、ユビスに合図する。ユビスは嘶き、その硬い蹄を振り下ろし、蓋を開くことなく破壊した。こちらでできる準備は全て終えた。後はゲッパが上手くやってくれることを祈るばかりだ。
レモニカとともにユビスに跨り、王都へと急ぐ。追い風だが吹雪だ。雨ほどではないが毛が濡れて十全な力を発揮できてはいないが、それでもユビスの足は並みの馬を凌駕している。
「ユビス。大丈夫? 体は重くない? 滑らないように気を付けてね」とユカリは尋ねる
「誰に物を申しておる小娘め」ユビスは白い息を大量に噴き出して答える。「我が足が雪や氷に取られるものか」
しばらくしてユカリたちは王都の外、最も壁門に近い控え壁の陰でその時を待ち受けるベルニージュたちと合流する。言葉を交わさずとも、今のところ万事順調に進んでいることは分かった。
しばらくしてトンドの王宮から吹雪に掻き消されることなく眩い光が放たれている。ユカリたちが振り返ると、工房馬車の走り去った西でも同じ光が迸っていた。
”開かずの箱にしたためる”の詩句の通りにして、【浄化】、清められた匣、完結、祝福された場所、行き着くべき根源、円、始まり、などとグリシアン大陸各地で様々に呼ばれる一つの禁忌文字の元型が、鼠の長ゲッパの手によって、より正確にはその高貴な前歯によって完成したのだ。
そして黒の防壁の壁門から沢山の魔物が溢れ出す。一つとして同じ形の魔物は存在しないようだ。ほとんどは壁門をくぐって雪原を走って行き、一部は這う虫のように防壁を乗り越え、いくつかは空を羽ばたいて西へと飛び去る。
ユカリたちの狙い通り、港町アクトートの時と同じように魔物の軍勢は光の輝いた方向へ導かれるように去っていく。しかし禍々しい魔物たちが工房馬車に追いつくことはなかった。魔物は工房馬車の姿を見つけたその時に引き返すことになる。光が放たれた時を同じくしてユカリたちが壁門をくぐり、しばらく後に王都に残っていた魔物に発見されてしまったからだ。工房馬車を追っていた魔物は遠くまで伝わる彼らだけに分かる言葉を受け取り、獲物を前にして、しかしどのような感情を抱くこともなく王都へと引き返すことになる。
こうして後の世に走る幽霊屋敷と恐れられる、クオルの工房馬車、あるいはレモニカの工房馬車、もしくはさまよう鼠の巣は人のみの手によって記される歴史から姿を消した。
壁門から溢れる魔物が収まるのを確認し、一団は王都へと侵入する。