蒸気の残り香の中で、遠くから誰かの呼ぶ声がした。
「――リリアンナ様!」
その声に振り向くと、群衆の間から家庭教師のクラリーチェ・ヴァレンティナ・モレッティが現れた。
深い葡萄色の外套に、長旅の名残を留めた淡い笑み。列車の別車両に乗っていて、食事の際などにビュッフェ車両などでしか顔を合せなかったが、そんな彼女がリリアンナのものより少しだけ大きな革鞄を手に歩み寄ってくる。
「クラリーチェ先生!」
リリアンナが駆け寄ると、クラリーチェは愛し気に彼女の手を取った。
少し離れたところで、ナディエルが自身の荷物を持ったまま深く会釈し、静かにその再会を見守っている。
隣ではセレン・アルディス・ノアールが控えめに視線を向け、穏やかな笑みを浮かべていた。
「長旅、お疲れさまでした。私はこのまま生家の方へ向かう予定にしておりますが、そう遠くはございません。落ち着きましたら顔を出しますので、お勉強など、あまりおろそかになさいませんよう」
「分かりました。先生がいらっしゃるのを心待ちにしています」
「行く前には連絡して参りますね。それでは、家の方から迎えが来ておりますので私はこれで――」
その言葉どおり、駅舎の外にはクラリーチェの実家――リヴィアーニ家の紋章旗を掲げた馬車が停まっていた。従者らが、クラリーチェの荷物と思しき旅箱を馬車へ積み込んでいるのが見える。
「それではランディリック様、ウィリアム様、リリアンナ様のことをよろしくお願いいたします」
クラリーチェはそっとリリアンナの頬に触れ、穏やかに微笑みながら、背後に立つ二人の男性を見遣った。
少しだけ離れて立つセレンにはどう接してよいか分からなかったのか、クラリーチェは一瞬だけ戸惑ったように目を細め、それから静かに会釈をした。
その様子を、ナディエルがわずかに首を傾げながら見つめている。
「では皆さん、またお会いしましょう。女神様のご加護を」
「先生も、どうかお元気で」
互いに軽く会釈して、クラリーチェは外套の裾を翻し、駅前広場の向こうへと歩いていった。
その背を見送るリリアンナの隣で、ランディリックが小さく息をつく。
「……行ってしまったね」
「ええ。でも私、先生の言いつけを守って王都にいる間もちゃんと勉強は続けるつもり。社交界デビューを終えたら私、公式に一人前だって認められるんでしょう? 領地経営も、自分で出来るようにならないといけないもの」
リリアンナがどこか寂し気に微笑むと、春の風がそんな彼女の髪を攫うように吹き抜けた。
ナディエルはそっとその手元に視線を落とし、「お嬢様ならきっと立派に」と小さく呟いたが、彼女の耳には届かなかった。
まるで近いうちに自立しなければ、とほのめかすみたいに告げられたリリアンナからの不意の言葉に、ランディリックは固まってしまう。……そんな未来を、ランディリック自身想像していなかったと言えば嘘になる。だが、こんな形で言われるとは思ってもいなかったのだ。
そんな彼に代わって、ウィリアムがにっこり微笑んだ。
「これは頼もしい。ウールウォード伯爵家も安泰だね」
それにランディリックが抗議の声を上げるのを封じたいみたいに、
「あっちに馬車を待たせてあるんだ。俺たちも行こうか」
言って、そそくさと二台並んでいる馬車の方へ向かって歩いて行ってしまった。
コメント
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リリー、ランディリックから離れられるの? ランディリックが許さない気がする。