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図書館に入るとパーシャは二人から逃れるように、そそくさと寝室の方へと立ち去った。
ユカリたちは初めてパーシャと出会った植物関連の書棚に囲まれた机の所へ向かう。そこにアクティアの姿があった。ぼんやりとした面持ちで前にパーシャの読んでいた本を開いていた。
「え!? 皆さん戻っていらしたんですか?」
アクティアは目を丸くして本を閉じ、ユカリとベルニージュを交互に見る。
「申し訳ございません、殿下」とベルニージュが気まずそうに言う。「偉そうに言っておいて失敗してしまいました」
「そう、ですか。となると、このままでは先生を筆頭にテネロード軍が押し入り、パーシャ様を巡る争奪戦が始めるのですね」アクティアは首を巡らせる。「それでパーシャ様はどちらに?」
「寝室の方へ行ったみたいです」ユカリは答え、アクティアの身につけた前掛けを見つめる。そう言えば図書館を出る前に何かを作ると言っていた。「殿下はお料理を?」
「え?」と言ってアクティアは初めて見たみたいに前掛けを見下ろす。「ああ、いえ、お料理というよりは、何か飲み物を作ろうと考えていたのですわ。せっかく準備を済ませていたので」
「飲み物ですか」ベルニージュは呟く。「ああ、なるほど。確かにそうですね」
アクティアは幽かな笑みを浮かべて頷く。
「はい。喉の渇きは、パーシャ様の魔導書? の力とは無関係なようなので」
朝食時にパーシャが蜂蜜水を飲んでいたことをユカリは思い出した。それに、言われて初めて自分も喉が渇いていることに気づいた。
「殿下」とユカリは勇気を奮ってお願いする。「私もいただいても構いませんか?」
「それは、もう、是非お二人にも飲んでいただきたいですわ。ではパーシャ様を食堂に連れてきてくださいますか?」
「ああ、いえ、すみません」ユカリはちらりと半地下室の方に目線を送る。「パーシャ王女殿下を怒らせてしまったので、断られるかもしれません」
「そうですか。そうですよね。それなら、わたくしが持って行きますので寝室でお待ちになっててくださいな」
「お手を煩わせて申し訳ありません」
ユカリとベルニージュは半地下室の寝室へと移動する。寝室の扉は何の抵抗もなく開いた。パーシャ謹製の花飾りの香りに包まれる。
パーシャは寝台で毛布をかぶって猫のように丸まっていた。ユカリとベルニージュが部屋に入って来たことに気づかないふりをしていた。
ユカリは隣の寝台に座り、背中を向けるパーシャに微風のように優しく語り掛ける。
「殿下。ご理解ください。戦争を止めたいのです」
毛布の中から籠った声でパーシャは答える。「あなたがたはパーシャの中の魔導書を欲しているだけでは?」
ユカリは正直に答える。「だけではありません。戦争をやめて欲しい。ベルニージュさんのお母さんに手荒な真似をしてもらいたくない。それもまた嘘偽りない本心です。パーシャ様もアクティア様もそれは同じはずです」
パーシャは追ってくる月に怯える子供のように声を震わせる。
「それら全てが、パーシャの中の魔導書を持ち去ることで解決しますね。パーシャを必要とする者はいなくなり、戦争は止まる。ベルニージュさんの母君も労せず入国できる」
「その通りです」とユカリは迷いなく答える。「誰にとっても最善の解決だと思います」
「最善? パーシャにとっては違います」パーシャの言葉は断固としたものだった。「この力を得て、ようやくパーシャは、誰かに望まれるようになったのです。この力を失うということはパーシャの存在価値を奪うということです」
「そんなはずありません!」ユカリは声高に言い立てた自分に驚き、震えるパーシャの背中を見て落ち着きを取り戻す。「アクティア姫はずっとパーシャ姫を讃えているじゃないですか。悲しいことを言わないでください」
「幼い頃のパーシャは、あの子の前ではずっと格好をつけていたんです。本当のパーシャは……」パーシャが毛布を脱ぎ、採光窓を仰ぐ。「魔導書を渡すつもりはありません。どうやって体の中から取り出すのか知らないですけど」
ベルニージュの無言の苛立ちがユカリにも伝わってくる。堪えるように目配せする。
その時、半地下室に籠る香りが、香でも焚いたかのように強くなる。パーシャは寝台を降り、振り返る。その視線は出入口の方へ向けられ、すぐに逸らされる。
「お待たせしました」と言ったのはアクティアだった。
不意に背後に立たれ、ベルニージュは仰け反る。音もなく扉を開けて現れたアクティアは木の盆に四つの陶器の杯を乗せている。
「パーシャ様。わたくし、果汁をいくつか混ぜて飲み物を作ったのです。これなら味わっていただけると思って」
そしてアクティアは何事もなかったかのように、一つ一つ杯を手渡していく。ベルニージュ、ユカリ。しかしパーシャは手を差し出さなかった。
ユカリは立ち上がって、パーシャの代わりに受け取り、責めるように言う。
「パーシャ姫。私のことをどう思ってもらっても結構ですが、アクティア姫の善意を無下にしないでください。最後まで格好つけたらどうなんですか?」
するとパーシャは飛び掛かるようにユカリの持つ杯を奪い取り、煽るように飲み干した。そして感嘆したようにため息をつく。
「アクティア姫」パーシャは真っすぐにアクティアを見つめる。「ごちそうさま。とても美味しかったです」
「え? は、はい。おそまつさま、です。パーシャ様」と困惑気味にアクティアは答える。
「もっとこう、味の感想はないんですか?」ユカリはからかうように微笑む。「ずっと何も食べず、水だけ飲んでいたのですよね? せっかく六年ぶりに味わったっていうのに」
ユカリも果汁を飲もうと杯に口をつけたが、その時、部屋の花の香りを強く感じたのか、くしゃみをしてしまう。
ユカリは気まずそうにはにかんで、もう一度口をつけようとするが、飾り付けの花がユカリの頭に落ちてくる。
「え? え? 何?」と慌てるユカリ。
「すみません」とパーシャが慌てて花飾りをのける。「きちんと結び付けてなかったみたいです」
ユカリは天井の花飾りを見上げ、もう一度寝台に座る。
三度、ユカリは杯の中身を飲もうとするが、突然、寝台の、正確には寝台代わりの椅子の足が折れる。ユカリはあえなく斜めの寝台に倒れ込む。幸い果汁は零さずに済むが、ユカリは憤る。
「もう! 何なんでしょうね? さっきから。飲めやしないったら」
「ユカリ」ベルニージュが呼びかける。魔法の知恵ある赤い瞳に不審の色を浮かべ、ユカリの杯を見つめていた。「セビシャスの生き永らえる魔導書をいま持ってるんだよね?」
「え? はい。それはもちろん。常に合切袋に入れてますけど」
「いまのは過剰な偶然だよ。偶然死にかけて、偶然助かったのかもしれない。つまり、死がユカリのそばにいる。とにかく、一旦、杯を置いて」
杯の中身を飲むと偶然死ぬ。その言葉の意味をユカリが理解したその時、青白い顔で思いつめた表情のアクティアと目が合った。辺りが凍り付くような緊張感が走り、ユカリの全身の筋肉が「動け」と言っている。
次の瞬間、アクティアが己の杯を一気に飲み干した。
「ベルニージュさん!」と叫んでユカリはアクティアに飛び掛かり、【息を吹き込む】。
ユカリの意識は失われ、その体をベルニージュが支える。
アクティアは跪いて己の指を喉奥に突っ込み、中身を出来る限り吐き出した。
遠くでベルニージュが叫んでいる。「パーシャ様! 毒です! 厨房に何かあるはず! たぶん毒草!」
誰かが駆けていく。誰かが叫んでいる。ユカリの意識もアクティアの意識も遠退いていく。