テラーノベル
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それは、どこにでもあるような、ひどく平凡な春の夜のことだった。
四月半ば。日中に漂っていた生暖かい湿り気が、夜の冷気によって適度に引き締められ、肺の奥へ夜の結晶を少しずつ堆積させていく。
私は踵のすり減った安物のサンダルを引っ掛け、澱んだ自室から逃れ出た。
部屋の空気は、私の呼気と、数日前に放置されたポテトチップスの袋から漏れ出た「死んだ油」の匂いが混ざり合い、生活の剥製のように積み上がっている。
そこから脱し、わずか十五分の散歩を享受するだけのつもりだった。
しかし、玄関のドアを開けた瞬間、奇妙な違和感に捕らわれた。
――世界が、私を待っている。
そんな滑稽で偏執的な自意識が、私の背を拒絶できない力で押し出した。
アスファルトを叩くサンダルの音は、単なる摩擦音ではなかった。
それは未知の舞台の開演を告げる銀色のベルのように響き、私を舞台袖へと誘い込む。
夜の闇は、現実の色彩をすべて漆黒のビロードに塗り替えていた。
道端の暗がりに、丸みを帯びた不自然な影が横切った気がしたが、今の私にはそれを追う余裕はなかった。
私は導かれるように、市街地開発の波に取り残された「標本」のような空き地へと向かっていた。
見上げれば、銀色の月が最上級のスポットライトとなって私の頭頂部を射抜く。
目の前には、見渡す限りの銀色のススキが波打っていた。
昼間はただの雑草に過ぎない穂先も、月光を浴びれば歌劇団の舞台装置のような、嘘くさいほどの高潔さを纏う。
風はない。虫の音もない。
この完璧な静寂は、無音ゆえに壮大な数学的音楽を奏でているようだった。
演劇が始まる直前の、あの窒息しそうな緊張感。
「もうすぐ、幕が上がるのだろうか」
いや、違う。もうとっくに幕は上がっていて、この銀色の標本箱には私一人しかいないのだ。
私は私自身の観客であり、主役であり、そして孤独なままの、ただの肉体の塊であった。
胸の奥から湧き上がる、結晶のように鋭利な衝動に耐えきれず、私は叫び声を上げた。
「嗚呼……! オスカル!」
なぜ、オスカルなのか。
三十余年の人生において『ベルサイユのばら』を嗜んだ記憶など曖昧だ。
それでも今、この銀色の世界に最もふさわしい音は、その名しかないと確信していた。
足裏から冷たい重みが吸い上げられ、血管を逆流する。
世界の重心が私に寄り、私は不自然なほど真っ直ぐに立っている。
自分という存在が、巨大な宇宙の歯車と噛み合ったような眩暈。
この舞台を完成させなければ、この夜から永遠に出られない。
気づくと、私は服を脱いでいた。
剥き出しの皮膚を夜気が祝福のように撫でる。
人間だけが身体を隠すという不自然さ。
私は白いブリーフ一枚となり、月光を正面から受けて立った。
「これが正解なのかい、オスカル?」
問いは虚空に吸い込まれ、三Lサイズのゴム紐が腰骨へ食い込む生々しい感触だけが、私の存在を現世に繋ぎ止めていた。
#お仕事
#秘密
コメント
1件
やっと読み終えた……いや、この一文で終わらせたくないぐらい、引き込まれました。夜の空気感、生活感と非現実が混ざり合う「標本箱」のような世界。冒頭から「舞台が始まっている」感覚が強くて、読んでいるこっちまで息を呑みました。特に「オスカル!」と叫ぶあの衝動——なぜその名前なのか、説明されないからこそ、逆にリアルで。最後の声、誰でしょう? 続きが気になります。