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「夢なんて、語ったら笑われる。だったら──先に笑わせてから、語ればいい」
東京・浅草、午後三時。
観光客の喧騒が遠くに響く裏通りに、その古びた雑居ビルはある。
壁の看板は、風に吹かれたように少し傾いていた。
《宇津久芸能養成所・浅草第二スタジオ》
二ヶ月前の春。
桜がアスファルトを薄桃色に染める朝、一人の少女がこの門を叩いた。
リュックの中身は、表紙に油性ペンで『ネタ帳』と書かれた、真新しいノートが一冊。
それと、母が持たせた『応援』という名の、少し甘すぎる稲荷寿司。
「……いける」
深呼吸ひとつ。肺に溜まった不安をすべて吐き出し、彼女は重い扉を押し開けた。
芸名、寿司子。
東京の端、О田区から一時間かけて通う十八歳。
化粧っ気はなく、愛想笑いもしない。
けれど、彼女の脳内水槽では、常に『寿司』と『笑い』が回っている。
マグロ、サーモン、いくら、穴子。
そして、誰も見たことがない角度からの『ボケ』。
寿司子のネタは、寿司一本。
しかも、救いようがないほどに、思想が強い。
──六月。梅雨入り前の湿った空気が教室に満ちていた。
今日は週に一度の『創作ネタ披露日』だ。
厳しい眼差しを向ける講師と、ライバルである同期たちが座る前へ、寿司子が無表情で歩み出る。
ぺこり。
「どうも。趣味はネタ作り、特技はネタ滑り。あなたの寿司ネタ、寿司子です」
静止。コンマ五秒の間。
「突然ですが、私は寿司をご本尊とする宗教団体『オスシ神秘教』の教祖です」
教室の温度が、すっと数度下がった。
「……信徒は現在、私ひとり」
「戒律。ガリを残す者、地獄行き。醤油の二度づけ、即破門」
「シャリは魂。ネタは救い。ちなみに、お布施は時価となっております」
寿司子はリュックから、パックに入った細巻きを厳かに取り出した。
「本日は特別に、ご本尊・海苔巻様を顕現させました。……皆のもの、崇めよ」
海苔巻きを掲げる。しかし、誰も崇めない。沈黙が痛い。
「……それでは、いただきます」
もぐ。
もぐ。
ごくん。
「──供養、完了。これで世界は救われました。合掌」
ぺこり。
「以上です」
──静寂。
講師が、耐えかねたように額を押さえた。
「……終わりか?」
「はい。信仰の自由は憲法で保障されています」
「いや芸人だよな!? 宗教家になりたいのか?」
「いいえ、寿司芸人です」
笑い、ゼロ。
教室の空気は戸惑いで溢れていた。
そのとき。
後方で、小さな震え声が漏れる。
「……ふっ、くく……なにそれ……ヤバ……」
肩を震わせている少女が一人いた。
───
披露後。
寿司子は教室の隅で、一人ネタ帳を開いていた。
他人の視線が痛い。
今は『笑わせてる』のではない、たぶん『笑われてる』。
「何あれ」
「怖いわ」
「シュールすぎ」
「客選ぶにも程がある」
ネタ後に聞こえてくる感想は、いつも同じだ。
分かっている。
自分の笑いは、まだ誰にも届いていない。
けれど、彼女はページの端に、筆圧を込めて書き殴った。
『絶対ウケるまで、やめない』
──パキッ。
シャーペンの芯が折れた。
替え芯を入れる指先が、ほんの少しだけ震えている。
向いていないのかもしれない。
でも、ここで辞めたら、私は何者にもなれない。
そのとき。
頭上から、突き抜けるような明るい声が降ってきた。
「なあ!」
寿司子がびくりと肩を揺らす。
そこにいたのは、金髪のショートカット。
大きな瞳と、笑うと覗く八重歯が印象的な少女だった。
「さっきの宗教ネタ!」
寿司子は身構えた。また「意味がわからない」と切り捨てられるのを待った。
しかし、少女は目を輝かせ、早口でまくし立てた。
「ツッコミどころ多すぎて、逆に気持ちよかったわ! なんで自分でお供えもん食べんねん! 自分で救われてどうすんや!」
「……え」
「最高やわ。あんた、ええイカレっぷり持ってるなあ!」
ケラケラと笑うその声は、重苦しい教室の空気を一瞬で塗り替えていく。
「あ、うち、稲瀬リコ。О阪・八尾出身や。あんたは?」
「……寿司子」
「知っとるわ! 教室で一番ヤバい、寿司しか話さん『寿司ボッチ』やろ?」
「……寿司以外も喋れます」
「へぇ。今、なんか言うてみて」
「…………巻物」
「ぶわははははっ!それも寿司やないか!」
リコが膝を叩いて笑う。
寿司子は呆気に取られた。
この人は、土足で。けれど温かい温度で、私の世界に踏み込んできた。
リコが床にしゃがみ込み、寿司子と目線を合わせた。
その瞳は、ふざけてなどいなかった。
「なあ。うちとコンビ、組まへん?」
寿司子は、一秒だけ考えた。
折れたシャーペンの芯を見つめ、それからリコの真っ直ぐな目を見る。
「……わたし、高いよ」
「契約金か?なんぼや」
「缶コーヒー。ジョージアの微糖」
「安っ! ほんで注文細かいな!」
教室に、今日初めての「本物の笑い」が起きた。
寿司子はまだ知らない。
この太陽のような関西娘と、十年後も同じ舞台に立っていることを。
ネタ帳一冊。
夢は、まだゴールすら見えない。
コンビ名だって、決まっていない。
けれど──
浅草の古びたビルの片隅で、確かに今、大きな花を咲かせる小さな蕾が生まれた。
──続く
コメント
2件
旧第一話〜第三話をまとめて、文章とイラストをリメイクしました。 タイトル頭に『R』が付いているのがリメイク版です。
♡50達成ありがとうございます🙇