十月二十七日
腹が減った。そのせいだろうか、ありえない妄想に取り憑かれている。
父上は、家族は、私をこのまま飢え死にさせるおつもりではなかろうか。
作られた壁からぞりぞりと音がして以降、今日は明らかに、壁を叩いた音が重くなっている。あれはもしや、板の向こう側に左官が土を塗っていた音ではないか。
明かり取りの穴から吹き込んだ雨を舐め、わずかでも藻掻く。いや、今誰か来た。
声が聞こえなくなったと、声がする。やはり妄想だったか、助けが来たか。この三科家は集落の長。私は庶子と言えど、父上から無二の扱いをされてきた。口減らしをされるなどやはり妄想だったのか。
声をかけるも、掠れてしまって届いていない。待とう。明日にはきっと。
十月二十八日
やはり私は口減らしにされたのだ。
壁の前で、座敷わらしさま、座敷わらしさまと唱える声と木魚ばかりが聞こえる。
最初から私を閉じ込め、殺す気だったのだ。父上の謀略か。壁越しに聞こえる父上の声は、依然堂々と太く響き、私を殺す後悔も、悲しむ様子も伝えてこない。
母はどうしているのだろう。部屋の改修準備が始まる以前から、母の姿を見ていない。自ら毎日の厠掃除を申し出てまで、私と会う時間を作ってくれていた優しい母が、こんなにも長く屋敷を離れるなどということがあるだろうか。
母もどこかで、殺されたのだろうか。
あんなにも尽くした母を。こんなにも慕った私を。父上は、三科の家は、顧みることもなく、死んでくれと一言告げることもなく殺すことにしたのだ。せめて父上が一言詫びてくれれば、私は喜んで口減らしになったのに。
墨入れにある藻草も、もう墨が枯れる。
口惜しい。このような手段で、口惜しい。恨みます。恨まずおられようか。死にたくない。死にたくない。祟ってくれる。恨んでくれる。死にたくない。腹が減った。父上。父上。死にたくない。役に立ちます。父上。恨みます。腹が減った。父上。なんで
──掠れきった文字が書き殴られた次のページが、血文字のあの見開きだった。
「天明の十月の末……今で言えば、およそ十一月の末だ。天明の大飢饉の最初期は、驚くほどの暖冬だったと記録されてる。それもあって、飲まず食わずでも四日間生き延びられたんだろう。……羽織は、せめてもの手向けだったのかもしれない」
「お父さん、から?」
「大工からだ。父親は人として愛情を示してない。最初から座敷わらしとして祀るつもりで育てたんだろう。だから名前もないし、元服前──つまり子どもの内に、餓死させた」
気持ち悪くなってきた。
賢人さんに日記を読み上げてもらって、俺は座敷わらしに感情移入したんだと思う。
当然愛してくれてると信じていた父親から、死ぬ直前に裏切られた、十三才の子。
恨むって言いながら、腹が減ったって言いながら、それでもこの子は役に立つって父親に訴えてる。そんなこの子が、かわいそうで仕方ない。
「こんなことしたら、そりゃ祟られるよなぁ……」
思わず口に出してしまったけど、きっと優斗は俺を責めたりしない。もちろん、優斗の家族がこんな昔の恨みで死んだことは残念だと思う。ひどいと思う。
だけどようやく解放されて、恨みをぶつけようって時に肝心の父親がもういなかったら。
子孫にでもなんでも、思い知らせてやりたくなるかもしれない。
「奥座敷の一番奥にある二畳分のスペース。……この祭壇のある場所が、この子が閉じ込められた場所だったんだろう。武兄さんたちは、この子の最期を追体験したのかもしれない。──前に読んだろ? 発見時は壁一面、爪で引っかかれた痕があったって」
確かに武さんたちは死ぬ直前、祭壇を掻きむしって叫んでいた。
出して、なんでこんなことするんだ、腹が減った、ずっといい子だったのに、とか。
だったらこの子は、空腹で倒れて、体中の水分を垂れ流して、干からびていったのか。
たった二畳しかない場所で。
「葬儀のしきたりも、この子の最期が関係してそうだね。火葬の翌日まで物を食べてはいけないのも、かつて火葬までに障りがあったからかもしれない。水しか飲めないのは、小さな穴から雨水だけは飲めたからかも──」
「お墓、やっぱり元に戻そう」
ぼそりと優斗が言った。
しゃくりあげることもせず、ボロボロと泣きながら声を震わせる。
「元に戻して、ノートと一緒にありったけご飯も埋めよう。墓石に名前を刻むのはて無理だけど、この子の名前を決めて、油性ペンでもなんでもいいから書いてさ。でないとこんなの、あんまりだ。……十三才で、俺より年下なのにこんな死に方させられるなんて」
謝りきれるもんじゃないと、両手を合わせた優斗は崩れ落ちるように体を縮めた。
俺は妖怪のことも詳しいわけじゃないし、この子のことは今ほんの少し知っただけだ。だけど泣きながら謝ってくれる優斗を見て、恨みを忘れて許してくれたりしないだろうか。
もしかするとこの子の死体が発見されたとき、生き残った子たちも同じようにしたのかもしれない。だとしたら、少なくとも優斗は助かるかもしれないと思えた。
コメント
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どんどん伏線が回収されていってる! もたらされていた余りある金運も、絶望しながらも勤めを全うしようとする健気さを感じて泣けてきます…