逃げ出したパーシャ姫の足音に耳を済ませつつアクティアは言う。「とにかく誤解を解きましょう。とても、混乱されているようですから」
「ちょっと待ってくださいね」
そう言ってベルニージュは机の上の芯切りを手に取り、火の爆ぜる音とグリシアン北方に伝わる朝に感謝する歌を混ぜ合わせた呪文を呟き、蝋燭の芯を切る。
すると、その蝋燭が強い光を放つと同時に図書館全体が明かりに包まれて、どこかからパーシャの怯える悲鳴が聞こえてきた。図書館のあちこちにある燭台の蝋燭が同時に灯されたのだった。
「まあ、便利な魔法ですわね」とアクティアが感嘆する。
ユカリは目の前に広がる光景に圧倒された。想像を遥かに超える巨大な空間に大量の書物が所蔵されていた。
どの壁も、柱も、階段の側面すらも本棚になっていて、所狭しと詰め込まれている。本が押し込められていないのは天井と床だけだ。また羊皮紙だけでなく、草漉紙の巻子本もあり、紙ではなく石板までもが存在する。それぞれの本棚ごとに分類の銘板が設えてあり、ここが書物のための建造物であることがよく分かる。入り口からすぐの吹き抜けの大広間の他にも、廊下や別棟までどこもかしこも本に埋め尽くされている。長らく清掃されていないのか床にも本棚にも埃が積もっているが。
それと同時にユカリがテネロード軍の陣営で話に聞いた通り、元々牢獄だったという伝説にも説得力のある構造になっていた。元々居房だったのであろう鉄格子の部屋がある。さすがに格子扉は取り外されているが、他にも小さな採光窓や分厚い石の壁はいかにも人の出入りを拒んでいる。
「ユカリさん。そちらへ行きました」
ユカリは声の聞こえた方を見上げると、桟敷のようになった上の階からアクティアが指をさしている。ユカリが図書館の本に気を取られている内に、ベルニージュとアクティアはパーシャを追いかけていた。ユカリはパーシャの行く先を予想して回り込み、出会い頭に【吐息を吹きかけた】。
意識を失うユカリの体をパーシャが受け止める。そこへベルニージュが駆け付ける。力の抜けたユカリと、その体を支えるパーシャを交互に見比べる。
「えっと、そっちがユカリだよね」
パーシャは頷いて答える。「はい。パーシャ姫に憑依しました」
「どうする? 殿下の体、縛り上げる?」
「さすがにそういうわけには」とパーシャは応じる。
相談の結果、パーシャと出会った場所の椅子に座らせ、もう逃げださないように周りを固めることにした。
全員が持ち場につく。ベルニージュとアクティアが椅子に座ったパーシャの左右に立ち、ユカリの体は向かいの椅子に突っ伏せるように座らせる。
「ひゃ」と言ってパーシャの意識が戻ってくると、身を守るようにか細い両腕を掲げる。「え? 眠ってた? なんで? 怖いです。やめてください」
「危害を加えたりは致しませんわ」アクティアが落ち着いた声で宥めるように言う。「つまり、痛いことはしません」
ユカリも目を覚まし、改めてパーシャの姿を見る。
露草色の瞳は自由を求めて彷徨っている。不満げな眉根は常に寄せられて、不安げな唇は少し開き、白い歯を覗かせる。その臆病で幼げな振る舞いを見ているだけで、こちらが圧倒的強者であるかのような錯覚を抱かせる。錫色のざんばら髪は前も後ろも無造作に切られ、結われてすらいない。
「それに、どこかへ無理やり連れて行ったりもしません」とユカリは付け加えた。
アクティア姫と違って、その振る舞いのせいか、緊張しなくて良いのは助かる、とユカリは思った。
まるで荒波に攫われることを恐れているかのようにパーシャは机の縁に掴まって、来たる脅威に備えていた。
「パーシャ様。先ほども申し上げましたが、私はハウシグ王国王女アクティアです。覚えておいでですか?」
パーシャはアクティアの方へ耳を傾けながらも目を向けることはしない。
「はい。覚えて、ますよ」パーシャは消え入りそうな声で答える。
その他人行儀な挨拶を受けてもアクティアは変わらず大らかな微笑みを浮かべている。
ユカリもそれに続いて挨拶する。「私はユカリと申します。訳あって旅をしています。どうぞお見知りおきください」
「どうも。パーシャです」とパーシャは答える。
「ワタシの名はベルニージュと申します」ベルニージュは変わらない態度で話す。「ワタシもまたユカリと共に旅をしております。パーシャ王女殿下」
「どうも。パーシャです」とパーシャは答える。
ユカリはパーシャが枕にしていた本を覗き見る。どうやら植物図鑑のようだった。詳細で精彩な桜草の図解が描かれている。その他の本に関しても多かれ少なかれ植物に関係しているようだった。
「お花、お好きなんですか?」とユカリは尋ねる。
たっぷりと時間をかけてパーシャは問いに答える。
「はい。そうです。最近は、そうです。人並みに、です」
初めて、ほんの少しだけ、パーシャの口角が上がったことにユカリは気づいた。
「この様子だと現状も聞かされていないのでしょうね?」とベルニージュが確認するように問う。
訳が分からないという様子でパーシャはユカリに目を合わせたり合わせなかったりした。
「では、パーシャ様にはまずそこからご説明いたしますわ」とアクティアは宣言した。
そこから三人がかりでハウシグ王国とテネロード王国の現状を説明する。パーシャの返還を求めるテネロード王国に戦争を仕掛けられ、現在包囲されている、ということを。
「じゃあ、やっぱりパーシャを連れ戻しに来たんですね」と言ってパーシャは机の下に潜り込もうとする。
しかし両脇に控えた人物たちにしっかりとその両腋を抑えられ、逃げ出すことはできなかった。
「正直に言って、我々二人とアクティア姫の立場は違います」とベルニージュが断言する。「我々は旅の身なのでどちらの国にしがらみを作るつもりもなく、それゆえにどちらに与するつもりもありません。しかしアクティア姫は当然祖国の窮状を憂い、戦争の終結を願っておいでです」
ベルニージュはパーシャの反応を待ったが、パーシャは俯くばかりだった。
「それはそれとして強力な魔法使いがテネロード王国に力を貸そうとしています。その者はこの図書館の蔵書に興味があるだけなのですが、それだけのためにこの国に深い痛手を負わせかねない人物なのです。個人的な事情も込みで、我々はせめてそれだけでも食い止めることは出来ないか、とその人物の代わりに本を求めてこの大図書館に参りました」
再び反応を待つが、パーシャは石のように何も喋らない。少なくとも寝ているわけではない。
ベルニージュが言う。「殿下?」
「ひゃい!」とパーシャ姫は返事をする。
「そういう訳で再三になりますが、我々は殿下に危害を加えるつもりはありません。少しの間、この図書館で本を探すだけです。よろしいでしょうか?」
パーシャは震える声で答える。「それはどうぞ。お好きにどうぞ」
ベルニージュは小さなため息をついて立ち上がる。ユカリはベルニージュの目配せを受けたが、立ち上がる前にパーシャに尋ねる。
「殿下は記憶に関する本がこの図書館にあるのかどうか、ご存知ですか?」
「記憶ですか」パーシャは何かを探すように視線をさまよわせる。「書棚の場所くらいなら、分かるかもしれません」
ユカリとベルニージュとアクティアが見つめる中、蝋燭が揺らぎ、投げ掛ける明かりの色合いが変わる。
「あの、殿下」とユカリは少しだけ身を乗り出す。「よろしければ場所をご教示ください」
「あ。場所。すみません。たしか、六階の十八区画から二十区画の辺りだと思います、たぶん」
「パーシャ様」とすかさずアクティアが助け船を出す。「その場所までお二人をご案内してさしあげませんか? わたくしもこの図書館に来るのは随分と久しいことなのであまり自信がありませんわ」
「そ、そうですね。気が付くなくてすみません」パーシャは慌てふためく。
三人はパーシャの案内で六階へと向かう。いくつもの階段を昇り、鉄格子の並ぶ通廊を行く。道中、きょろきょろとあたりを窺うパーシャにユカリは尋ねる。
「どうかされましたか? 殿下」
「あの、いえ、こんなに明るいのは初めてなので」とパーシャは気恥ずかしそうに答える。「パーシャ一人ではこんなに灯をともすことはできないし、沢山の窓掛を開け閉めすることも出来ないので」
ユカリは少し驚いて尋ねる。「じゃあ、本当に殿下はずっとこの図書館に幽閉状態なのですか? たった一人で?」
「いえ、はい、いえ。一人ではないです。図書館の利用者は一部の学者さんだけですが、たまに来ます。幽閉状態はそうかもしれないですが、でも、どうかな。パーシャ自身がここから出て行きたくないので、それは別に幽閉じゃないかも」
そう言って、パーシャは俯き、前髪の向こうに瞳を隠してしまう。
「あの、えっと」とパーシャは何かを言おうと頑張る。「その、聞いても良いですか?」
「ええ、どうぞ」とユカリは答える。「私たち三人が答えられることなら何でも」
「なんで畑、燃やしちゃったんですか?」とパーシャが悲し気に呟いた。「あの、テネロードが燃やした理由が分からなくて」
「それは私たちにもはっきりとは意図が掴めていません」ベルニージュが答える。「いわゆる兵糧攻めなのではないか、と想像してはいたのですが」
「でも、北側も全部燃えてましたけど」とパーシャ姫は言った。
「どういう意味です?」とベルニージュが尋ねる。
「ああ、それはこういうことですわ」とアクティア姫が代わりに答える。「ハウシグ市の北側には桜草の花畑が広がっていたのです。もうこの季節ですと色とりどりの花が咲き乱れていたことでしょうに」
ユカリは首を傾げて言った。「つまり花畑までもが燃やされたということですか?」
「そういうことだね。ますます意図が分からない」とベルニージュは呟く。
とうとう人間の精神に関する蔵書が集められた部屋へたどりつく。そして記憶に関する書棚へ移動する。千冊を軽く超える本があった。
ユカリは書棚を眺めながら言う。「記憶に関するものだけでも沢山あるんですね。どの本ですか? ベルニージュさん」
ベルニージュは低い声で答える。「あるだけ全部持って帰るつもりだったよ」
「私もそう思ってました。まさかこんなにあるなんて。どうしましょうか? とても秘密裏に持ち出せる量ではないですね」
ユカリは一冊の本を手に取り、適当な頁を開く。そこには人間の頭を開いた図解が描かれていて、ユカリは小さく短い悲鳴をあげて本を閉じ、書棚に戻した。
「本に頼んで、歩いて出て行ってもらえないかな?」とベルニージュは本気とも冗談ともつかない語調で言った。
「本は歩けないです」とユカリはきっぱり否定する。
「歩けないし、それに喋れないよね」
「それはそうですけど」
「少なくとも」と言ってベルニージュはパーシャに目を向ける。「パーシャ姫を連れ帰ればテネロードは故国に帰るし、ただの旅行者となった母は力を振るうことなく街に入れる。戦争も終わる、かもしれない。いや、どうかな。今度はハウシグがテネロードに攻め込むって可能性もなくはない。とはいえテネロードがハウシグを攻めるのと、ハウシグがテネロードを攻めるのでは話が違うからね」
怯えて身を引くパーシャの腰をアクティアが引き寄せる。
「ベルニージュさんは冗談で仰っているんですよ。決してパーシャ様のご意思に反して、無理に連れ帰る方々ではありません」
「それはどうでしょうね?」と言ってベルニージュはにやりと笑みを浮かべる。「ワタシは勝利のためなら何でもやりますよ」
気絶しそうなほどに怯えているように見えるパーシャをアクティアが慰める。
「あれも冗談ですわよ。真に受けてはいけません」
「ベルニージュさんもやめてください」とユカリは注意する。「少なくとも殿下が望まない限りはどこにも連れて行きはしませんからね」
「本当に?」とベルニージュは素っ気なく尋ねた。
「本当です」とユカリは意気込んで答えた。
「そしてパーシャ王女殿下は故郷へ帰るつもりはないばかりか、この図書館を出るつもりもない、と」
責めるようなベルニージュの言葉と視線から逃れるようにパーシャは目をそらす。
「わたくし、思い違いをしておりました。反省しなければ」とアクティアは独り言のように呟いた。「てっきりパーシャ様が祖国にお帰りになれば、戦争は終わるものと。しかし違うのですね。理由はよく分かりませんが、ハウシグ王国はこれほどにパーシャ様の帰還を拒むのですもの。当然無理に連れ帰れば追ってきますわよね。わたくしは、ハウシグ王国の王女として戦争の終結を願うばかりですが、ことはそう単純ではないのですわね」
「そうですね」とユカリも同意する。「だからこそベルニージュさんのお母さんを止めることを優先すべきかもしれません。戦争は止められなくても、それだけである程度被害を軽減できるわけですし」
「話が戻っちゃったね」とベルニージュが言って、ユカリははたと気づく。
「すみません。ベルニージュさんのお母さんが止められないとすれば、せめて少しでも引き延ばせたら良いんですけど。もしかしたらその間に何か策が思いつくかも」
「そうだよ!」ベルニージュは嬉しそうに手を叩く。「心苦しいけど、この本を燃やせばいいじゃない。そしたらもう母上はこの国への興味を失うはず」
焚書だ、とユカリは心の中で呟く。その呟きそのものが身を焦がすような炎として心の中に燃え広がる。
「それは……最終手段です!」とユカリは言いつける。「そもそも燃やしたと言っても自分の目で見るまでは信じなさそうじゃないですか。ベルニージュさんのお母さんって」
「おお、ユカリも我が偉大なる母のことが分かって来たみたいだね」とベルニージュは皮肉を言う。
「別に嬉しくないです」
アクティアが少し不思議そうな面持ちで口を開く。「ベルニージュさんは記憶を取り戻したいのではないのですか?」
いつの間にかパーシャの方からアクティアに寄り添っていることにユカリは気づいた。眠そうだ。
「その通りですけど、母を止められるなら安いものです」とベルニージュは答える。「この中にその方法があるかどうかも怪しいものですけど」
「そうですよ!」と今度はユカリが閃く。「とりあえず、何ていう本を必要としているのか聞きに戻りましょう。少なくて済むかもしれません。私が鳥を送ります」
「鳥ったってもう夜だよ?」とベルニージュ。
「庭園の、薬草園のそばの木に巣箱があります」初めてパーシャの方から言葉を発した。「青雀が巣を作っていたと思います」
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