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宇宙展について聞きたいことがあるから、と営業部長に呼ばれた時、真由は会議中だった。
だから、私は一人で営業部長の部屋に行った。
「営業部長がお呼びだと聞いたんですけど」
「ああ。営業部長がお呼びだと、言ったからな」
私を呼び出したのは、黛だった。
部屋のどこにも、部長の姿はない。
「部長はいらっしゃらないようですので、失礼しま——」
「槇田が宇宙展から外れたってな」
私は返事をせずに、百八十度向きを変えた。ドアノブに手を掛けた時、背後から手が伸びてきて、私の手を覆った。
「やっ——!」
もう片方の手が私の腰を抱く。
「放して!」
「婚約を解消しろ」
本当に、心から嫌悪する人間の声に、背筋がゾクリと凍る。
「宇宙展から外れるだけじゃ済まなくなるぞ」
「そんな脅しに——」
「口先だけの脅しかどうか、試してみるか?」
鼓膜に直接響く声に、全身鳥肌が立つ。
気持ち悪い——!
「あの写真が社外に出たら、槇田はこの会社にいられなくなるぞ」
「あの写真にそれほどの影響力があるとは思えないけど?」
動揺を見せたくなくて、精一杯平常心を装う。
背中から匂う煙草の香りに、吐き気すら覚える。
「コンサルタント会社の部長にとっては大したスキャンダルじゃなくても、次期大臣の息子としてはどうかな——?」
耳を疑った。
次期……大臣——?
心臓が倍速で動き出す。痛い。
「しかも相手は大病院の院長の娘だ」
『私の父親は病院を経営していて、雄大のご両親とも交流があったの』
春日野さんの言葉を思い出す。
『親が知れば私たちの意思なんて無視して結婚話が進んでしまうから、付き合っていることを他言しなかった』
でも、雄大さんのご両親がこれを見たら——。
「かたや、婚約者は訳ありの一族」
「訳ありだなんて——」
頑張ってみても、声が震える。
「立波リゾート次期社長の不審死と若すぎる娘たち」
手が、汗ばむ。
「——なんて見出し、興味をそそられるよなぁ?」
黛が知っているわけがない。
「転落死のどこが不審——」
「突き落とされたんだとしたら——?」
一瞬、鼓動も呼吸も忘れた。
まさ……か……。
「何……を……」
声を絞りだせたことに、驚く。
「お前が守りたいのは立波リゾートか? それとも、妹か——?」
たす……けて……。
「槇田と別れろ」
雄大さん——!!
「セックスの相手なら、俺がしてやるよ」
黛の手が腰から胸に這う。
「槇田とは別れろ」と、念を押す。
耳朶にヌルリと生温かい感触。
吐きそう——。
悔しいことに、黛の言葉に思考が停止し、逃げるという単純な行動がとても複雑に感じる。
いやらしい手つきで胸を揉み上げられ手も、動けなかった。
雄大さんが次期大臣の息子で、転落死が不審死で、桜が——。
黛の手がシャツのボタンを一つ、外したことに気付いた時、数センチ前のドアがノックされた。
「林部長、槇田です」
雄大さん——!
「よく考えろ」
パッと、黛が放れた。
「林部長!」
少し大きな声ではっきりとこの部屋の主の名を呼び、コンコンではなくドンドンとドアを叩く。
私は震える指で鍵を回した。同時に茶一色だった視界に、険しい表情の雄大さんが飛び込んできた。
「馨!」
「ゆう……だいさ——」
私の普通ではない表情と、シャツのボタンが外れていることに、すぐに気がついたようだった。
「何が——」
私の肩越しに黛の姿を見て、雄大さんの表情が一瞬で変わった。焦りから怒り、へ。
「黛!」
耳を劈くばかりの声に、身体が強張る。
「馨に何をした!」
ハッとした。
営業部の人たちが、何事かと顔を覗かせている。
「雄大さん!」
黛に殴りかかる勢いの雄大さんの腕を掴んだ。
「大丈夫だから」
力いっぱい彼の腕を引っ張り、部屋を出る。人目につかないよう、エレベーター横の非常階段に通じるドアに彼を押し込んだ。
「馨! 黛に何をされた」
雄大さんがはだけたシャツのボタンを掛けながら、言った。眉間に深い皺を寄せ、目つきは鋭い。
「何も……されてない」
今、本当のことを言っては大事になる。
「そんなわけ——」
「部屋を! ……出ようとした時に、肩を掴まれて……」
「本当か!?」
「本当」
納得出来ていないようではあるけれど、とりあえず眉間の皺は消えた。
雄大さんの大きな腕が私を抱き締める。
「お前が営業部長に呼ばれたって聞いて……焦った——。部長は今日、休みのはずだから」
それで、来てくれたんだ——。
私は彼の背中に腕を回し、ギュッと力を込めた。
雄大さんの早く、力強い鼓動が胸に響く。
「来てくれてありがとう」
「ああ……」
ほんの数秒、きつく抱き合って、雄大さんが私の顔をグイッと押し上げた。
「黛に何を言われた?」
『何も言われていない』が通用しないことはわかっている。
一瞬で考えを巡らせた。
「あの写真を社外にもバラ撒くって……」
嘘は言いたくない。けれど、全ては話せない。
「雄大さんと別れろって……」
「またか……」とため息交じりに呟く。
『また』って……?
以前、雄大さんと別れろと迫られた時のことを話しただろうかと考えた。
「で? お前は何て答えたんだ」
「あ……」
「あんな写真の為に、別れるって言ったわけじゃないだろうな」
「何も……」
「何も?」
再び、雄大さんの眉間に皺。
私が迷ったのだと、思ったらしい。
「お前——」
「ちょうど、雄大さんが来てくれたから」
事実。『別れろ』と言われて、私はそのことについて何も返事をしていない。
「そうか」
「雄大さん……」
私はもう一度雄大さんの胸にしがみついた。
黛の言っていたことが事実なのか、聞きたかった。
「馨、やっぱり——」
「巻き込んで、ごめんなさい」
「いい加減、それやめろよ」
背中に感じる彼の腕に力がこもる。
「もう、謝るな」
「……」
「返事」
「けど——」
「返事しないならここでヤるぞ」
雄大さんの手が背中を滑り、お尻を撫でる。
「何してんですか、部長」
「この状況で部長呼びすんだ」
「社内ですから」
首筋に唇の感触。軽く、次は強く。
「ちょ——! 痕、つけないで」
「返事」
雄大さんの息を感じて、背筋が伸びる。
「わかった……から」
「何が?」
「もう、謝らない!」
すっと身体が離れて、見上げると、雄大さんのはにかんだ微笑み。
「忘れるなよ」
ついばむような優しいキス。
「それから、一人で営業部には近づかないこと」
「……はい」
仕事なんだから無理があるのでは、と言おうと思ったが、やめた。たった今、雄大さんに助けられたばかりじゃ、言い訳にもならない。
雄大さんが、よし、と納得した表情で階段を上り始めた。私も後に続く。