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足がもつれ、泥にまみれ
喉が焼けるように熱い。肺が悲鳴を上げているのに、私の足は止まらなかった。
夜の森は、かつて父を救うために初めてここを訪れた時よりもずっと濃密で
むせ返るような死の匂いに満ちていた。
木の枝がマントを切り裂き、茨が肌を切り刻むけれど、そんな痛みなどどうでもよかった。
「間に合って……お願い、ルークさん、間に合って……!」
祈るように呟きながら、最後の茂みを必死で掻き分けた。
その瞬間、私の視界に飛び込んできたのは
あまりにも残酷で、この世の終わりかと思わせる光景だった。
静寂と神秘に守られていたはずの禁忌の森が、赤々と燃え上がっている。
無数に揺らめく松明の火が、まるで飢えた蛇のように乾燥した木々を這い回り
パチパチとはぜる不気味な音を立てながら、夜の闇を暴力的に切り裂いていた。
そしてその中心
かつて私を温かく迎え入れ、安らぎを与えてくれたあの美しい石造りの館は
重武装した騎士たちと、欲に眼を眩ませた志願兵たちの黒い群衆に、完全に取り囲まれていた。
「化け物め、とっとと出てこい!貴様の汚らしい首と、王宮から盗んで隠し持った財宝をすべて差し出せ!」
「抵抗するなら森ごと焼き払え!逃げ場をなくして燻り出し、じわじわと焼き殺すんだ!」
バルサス叔父様の、耳を塞ぎたくなるほど卑劣な煽り声が、舞い上がる火の粉と共に夜空へ響き渡る。
館の窓は無残に割られ、美しい白亜の石壁にはどす黒い煤がこびりついている。
私が一週間、心を込めて磨き上げ
ルークさんが照れ臭そうに眺めていたあの床も
今は憎悪に満ちた軍靴に踏みにじられ、汚されているに違いない。
そう思うだけで、胸が引き裂かれそうになる。
「やめて……! お願い、誰もあの人を傷つけないで!やめてください……!!!」
私の叫びは、猛り狂う男たちの怒号と
森を飲み込む炎の轟音にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
その時だった
群衆の憎悪を一瞬にして凍りつかせるような、重々しい音が響いた。
館の正面にある重厚な観音開きの扉が
内側からゆっくりと、だが抵抗しようのない力で押し開かれたのだ。
逆光の炎を背に、ゆらりと現れたのは、巨大な狼の影。
ルークさんだ。
彼はかつてないほどの凄まじい威圧感を放ち
その琥珀色の瞳は、侵入者への底なしの怒りと
そして、すべてを受け入れたかのような深い「諦め」を湛えて揺れていた。
「……やはり、こうなったか。やはり人間とは、どこまでも愚かで、貪欲な存在だな」
彼の低い、地鳴りのような声が広場を支配し、騒然としていた男たちを沈黙させた。
「ルークさん……!!逃げて!!」
私は群衆をかき分け、彼のもとへ駆け寄ろうとした。
けれど、私の行く手を阻むように、冷たい鉄の槍が何本も突き出される。
「ベル! 近寄るな、その獣が牙を剥き、お前を喰らうぞ!」
叔父様の制止の声に、ルークさんの鋭い視線が
槍の隙間から私を捉えた。
その瞬間、彼の冷徹な瞳に、一瞬だけ
痛々しいほどの情愛が走ったのを私は見た。
けれど、彼はすぐにその光を消し去り、再び誰も寄せ付けない冷徹な仮面を被った。
「……愚かな人間どもよ。貴様らが望む財宝など、この館のどこにもない。あるのは、俺という呪われた獣の命だけだ」
ルークは一歩、また一歩と、燃え盛る炎に囲まれた広場の中央へと進み出た。
その姿は、まるで自ら祭壇へ上がる生贄のようだった。
「俺の命が欲しいのなら、くれてやる。……その代わり、条件がある。この娘には指一本触れるな。そして、俺の首を手に入れたら、今すぐこの森から立ち去れ」
「ルークさん、何を言っているの!?おかしなことを言っていないで逃げて!……あなたなら、こんな奴ら、全滅させることだってできるはずなのに……!」
私は涙を流しながら叫んだ。
彼は強い。
その気になれば、この程度の軍勢など一瞬で蹴散らせる。
けれど、ルークさんは静かに首を振った。
「……ベル。俺がここで暴れれば、お前の愛する父がいる村は戦火に包まれるだろう」
「そ、それでも……まだ他にも方法が!!」
「お前の父親も、お前自身も『魔物と通じた大逆罪人』として一生追われることになる……それでは、お前を救った意味がない」
彼は自らの大きな、鋭い爪を静かに収め、完全に無防備な姿で騎士たちの前に立った。
「……俺は、お前に出会って、初めて人間という存在を信じたいと思った。……お前が愛する世界を、俺が壊すわけにはいかないんだ。……お前の幸せこそが、俺の、最後の望みだ」
それは、あまりにも悲しく、あまりにも純粋で
そしてあまりにも重い、死を覚悟した愛の告白だった。
「さあ、来い。俺を殺し、貴様らの言う平和とやらをもたらすがいい」
ルークさんの最期の言葉に、叔父様が勝ち誇ったように剣を抜き放ち、ぎらりと月光に光らせた。
「よく言った、化け物め!潔く死ぬがいい!」
「総員、かかれ! あの汚らしい首を撥ねろ!」
「嫌っ!!やめて───!!!」
私は制止する槍を振り切り、彼のもとへ走り出した。
火の粉が舞い上がり、叔父様の剣がルークさんの首筋に向かって振り下ろされる。
ルークさんはただ、静かに目を閉じ
最期の瞬間を待っていた。
彼の覚悟。
それが、自分という存在を消し去ることで、私を守り抜くことだったなんて、信じたくない。