何も思い出がない場所に行こうと思っていたのに結局はここに来てしまう自分の弱さに失笑した。
「…はは、」
何もかも失って、縋るものさえないと言うのに。
こんな思い出に追い縋って。
「……」
本当に好きだった。
誰よりも特別だと思える人だった。
なのに、それを自らの手で放したのは弱い俺だ。
あんなにもあの人以外は嫌だと言っていたくせに最後の最後でもういいやと逃げようとした。
そして、その弱さを見抜かれ、挙げ句捨てられた。
「自業自得だな。…っ、」
口を押さえて、出てこようとするものを飲み込む。
「ゔぅ…」
海辺の夜風は冷たい。
寒いとさえ感じる。
それは番を失った寒さとは違う。
「寒っ」
寒さに腕をさすり、その場に座り込む。
満ち潮によって打ち寄せる波は俺の座っているところまできていた。
「つめて」
服も濡れたが、もう関係のないことだ。
どのみち俺は死ぬしかない。
一生、成就することのない想い。
思い出してもらったとて、俺はいない。
「……」
番になって初めて来た場所。
記憶の中で色濃く残っている。
「………」
体育座りしている腕に顔を埋める。
「俺、…死にたくない…」
戻ることは、二度とできない。
壊れて粉々になった硝子細工を元の形に戻すことができないように。
貰った側は与えられない限りそれを手にすることはできない。
与える側は持っているものを新たにあげればいいだけだから。
俺が、もう誰とも番を作ることができないのと同時にクロノアさんは新しい番を作ることができるのだ。
もう、貰うことのできない硝子細工。
「でも、俺みたいなのより、可愛くて優しい小さな女の子がクロノアさんにはお似合いだ」
可愛らしい女の子の隣で優しい笑顔を向けるクロノアさん。
たったそれだけを想像するだけでも胸が裂かれるように痛む。
そうしてるうちに強烈な吐き気を催す。
「ぅ゛っ…!」
そのまま我慢できず花を吐き、波に攫われていく花弁をぼんやり見つめる。
水面に溶けるように流されていく花びら。
全てを許してくれる母なる海。
ここでなら、誰にも迷惑をかけない。
唯一、俺を許してくれる存在。
「………さて、」
立ち上がって歩き出す。
花弁たちが流されて行った方に向かって。
行く宛を探して乗り回していた愛車。
体は無意識にみんなとの、クロノアさんとの思い出の場所にばかり向かっていた。
そうして、最期に行き着いたのがここ。
「ほんと、よわいな…おれ…」
ボロボロと落ちているのは涙だろう。
海水のせいで余計にしょっぱい。
そういえば感情によって涙の塩分濃度って変わるんだっけか。
俺は悲しくて、悔しくて泣いてるのか。
「、ふ…っぅ…」
足取りはとても重い。
砂に足を取られているだけではなく、揺らいでいる気持ちが俺の足を止めていた。
膝辺りまで浸かったところで立ち止まる。
水温は冷たくて、今すぐにでもそこから出てしまいたかった。
「ひ、ぅ…ッ」
顔を押さえて溢れ出る涙を拭う。
目元は真っ赤に腫れて、潮風があたると痛かった。
「ぅ…ぁ、ぅう…っ」
嗚咽で息をするのも苦しい。
嘔吐感も込み上げ、このまま窒息してしまうのではないかと思った。
「、ッ…く、ぅ…あ…!」
泣きながら、止めていた足を一歩ずつ波に揺られながら進める。
「…ぺ、いんとッ…ごめん、っ」
頼らなくて。
「しにが、ッみさん…ごめんな、さいっ」
約束守れなくて。
「す、みません…ッ」
クロノアさん。
弱い俺で。
胸のあたりまで浸かったところで砂に足を取られる。
冷たさのせいで痩せた筋肉が引き攣り、体が沈んだ。
「!!」
溺れている。
助かる術は過去の自衛官の経験から知っている。
「(もう、いいんだ)」
俺はそれをしなかった。
ドラマやアニメ、何でもそうなのだが人間が溺れる時はあんな風に大きく動けない。
今の俺のように足を攣った状態などを起こすと静かに溺れるのだ。
よく川で遊んでいた子供がいつの間にかいなくなって、そのまま…という痛ましい事故などがある。
それは子供が音もなく静かに溺れ大人が気付かないからだ。
「(痛い、)」
海水が目に染みる。
「(息ができないのって、やっぱり苦しいな)」
花を詰まらせたときのように苦しい。
「(……最期に、クロノアさんの笑った顔見たかったな…)」
ぼやける視界。
月の光が差し込む薄暗い海の中。
閉じていく視界とごぽりと最後の息を吐いた瞬間、体を何かに持ち上げられた。
突然の引力に思いっきり海水を飲み込んだ。
「はぁ゛…っ、げほ、かはっ…」
ひゅーひゅーと喘鳴を起こす。
「が、は…っ」
肺に入った海水を吐き出すために激しく咳き込む。
目も痛くて全然開けられない。
「けほっ、は、っ…はぁ…ッ」
「何勝手に死のうとしてんだよ!」
「?、…!、⁈」
痛くて開けられなかった目を見開く。
海水が目に入って瞬きを何度もする。
「な、ん…っゔ」
そこには俺と同じくびしょ濡れになったクロノアさんがめちゃくちゃ怒った顔をして一緒に海面に浮いていた。
「くろ、のあさ?…げほっ!」
咳を一つして肺の方は落ち着いたようだった。
それを見たクロノアさんが俺の体を離さないように抱き寄せる。
「…とにかく上がるよ」
俺を砂浜の方へ引こうとする体を突っぱねようとした。
「はな、してください!…死なせてく、ださいっ!」
「嫌だ。絶対に死なせない」
「あなたに嫌われたままなら死んだ方がいい!他のαにちょっとでも触らせた汚い俺なんて…!」
暴れてクロノアさんから逃げようとした。
「っ、トラゾー!」
「⁈」
名前を呼ばれた。
と思ったら口を塞がれた。
「んン…⁈」
「っ、」
「ふッ、ぅ…!」
深く呼吸を奪われるようなキスをされる。
「ふ、っは…ッ」
「はッ」
「あ、んた、いきなり…!」
わけが分からなくて目の前の人を睨みつけるしかできなかった。
「ひとまず上がろう。これ以上は俺がもたない」
「ぁ、ちょっと…!」
体を引かれながら半ば強引に砂浜の方に向かう。
「はぁ…っ」
服が海水を吸って重たくなった俺らはそのまま座り込んだ。
隣で息を整えるクロノアさんに問いかける。
「何しに来たんですか」
整った息を一つ吐いて俺を見るクロノアさん。
「ひとりになろうとするトラゾーを止めにきた」
「…ぺいんとたちに言われて来たんでしょう」
「俺の意思で来た」
間髪入れず返ってくる答え。
「……どうして」
「全部思い出したから」
「……は?」
四つん這いになってこっちに近寄るクロノアさんから逃げようとしたけど攣った足のせいで動けなかった。
簡単にその場に押し倒される。
「ぺいんとから全部聞いた。俺の病気を治す為にはトラゾーが死ななきゃいけないことも、俺を想って花を吐き続けていたことも」
「なっ…」
「そして、ぺいんとが先生から聞いていたことで、誰にも言ってなかった話。…運命の番同士は再び番になることができるって」
クロノアさんの柔らかい色をした髪から水が滴り落ちる。
「……俺はトラゾーに死ぬと同等のことをやってきた。きみをたくさん傷付けて、泣かせて、悲しませた。償いきれないくらいのことをした。いくら病気のせいだとしても、…いや、俺は病気のせいにして逃げようとしてたのかもしれない」
クロノアさんは苦笑いした。
「どういう…?」
「俺なんかでいいのかって怖かったんだ」
「そ、んなの…おれ、だって…」
番になったばっかりのとき、俺も怖くて逃げようとしたことがあった。
その時、クロノアさんは”俺の幸せをトラゾーが決めつけないで”と言っていた。
ゆっくり、一緒に幸せになっていこうと抱きしめられたこと。
鮮明に覚えている。
「きみは俺を今突っぱねる権利がある。怒ってくれたっていい、罵ってくれたっていい。……いいや、そんなのトラゾーが感じていたつらさや悲しさのことを考えたら生温いね。……あの時、俺言っただろ?きみを殺して俺も死ぬって」
滴る水は翡翠色から落ちていた。
「俺は、あなたを、怒ることも、罵ることも、殺すなんてこともできません…」
クロノアさんだって充分苦しんでいた。
この人も被害者だ。
「それは俺もだよ。あれは言葉の綾みたいなものさ。…こう見えて、俺って嫉妬深いから。独占欲だって強いし」
「猫ちゃんって、そうですもんね…」
するりと赤くなった目元を撫でられる。
「……ねぇ、一つだけ、我儘言ってもいい?」
「俺に、できることなら…」
「思い出した俺にご褒美くれないかい?」
「ご褒美…?」
頷いたクロノアさんはじっと俺を見つめる。
翡翠色にまた泣きそうな顔の俺が小さく映る。
「ずっと、俺だけのトラゾーでいて」
「え…」
「俺は、トラゾーだけの俺でいるから」
優しく笑うクロノアさんの翡翠にゆっくりと手を伸ばす。
俺と同じように赤くなったクロノアさんの目元を撫でる。
「…それ、俺にとっても、ご褒美になるんじゃ…?」
「まぁ、それは言えてるね」
撫でていた左手を取られて、薬指を噛まれる。
「ふぁ…⁈」
そのまま手を引っ張られて向かい合わせに座る。
「散々傷付けて、泣かせて、俺にそんな資格ないってのも分かってる。けど、俺はトラゾーじゃなきゃ嫌だ。こんな奇跡とも言えるようなチャンスを無駄にしたくない。俺はトラゾーを失いたくない…だから、これからも俺とずっと一緒いて、共に生きてほしい」
ぎゅっと抱きしめられて、項の近くにクロノアさんの吐息がかかる。
「っ、…ぅ…」
くすぐったさとは違う、それでも嫌な感じのしない感覚に肌が粟立つ。
一度、経験したことのある感覚。
「……トラゾー返事、くれない」
「…そんなの、ずっと前から決まってます…っ」
「うん、ありがとう。こんな俺のこと許してくれて、受け入れてくれて」
ふわりとクロノアさんの優しくてあたたかいフェロモンに包まれる。
「俺の、方こそ…、こんな俺のこと、思い出してくれて、…また俺を選んでくれて、ありがとうございます…っ」
俺とクロノアさんの距離がゼロになる。
痛みよりも嬉しいと感じた。
そう、それはもう一度、幸せだと思える痛みだった。
5月2日の誕生花
……幸福の再来
コメント
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誕生日とかの花言葉を活用するの天才すぎてもうありがたいです!ありがとうございます🧏🏽♀️