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夜の家は、昼間よりもずっと冷たく感じる。
天井の蛍光灯だけが白く照らすリビング。
父親はソファで酒を飲み、母親はキッチンで洗い物をしていた。
僕と滉斗は、ダイニングの隅で小さくなって座っていた。
元貴は自分の部屋で、図工の宿題をしている。
その小さな背中が、家のどこか遠い場所にいるように思えた。
父親がグラスをテーブルに叩きつけた。
その音だけで、空気がピリッと張り詰める。
「おい、涼架、こっちに来い」
僕は息を殺して立ち上がった。
滉斗も、僕の袖をそっと握る。
「何してたんだ」
「……勉強してた」
「嘘つくな」
父親の手が、僕の肩を掴んだ。
そのまま壁に押し付けられる。
ドンッ
背中に硬い壁の感触が広がる。
息が詰まる。
「ちゃんとやれって言ってるだろ」
「ごめんなさい」
父親の拳が、僕の腹にめり込む。
ドスッ
胃の奥がひっくり返る。
膝が崩れそうになるけど、絶対に倒れたくなかった。
滉斗が、僕の前に立った。
「兄ちゃんに触らないで」
父親は滉斗の胸ぐらを掴んだ。
「お前もだ、滉斗」
バキッ
乾いた音。
滉斗の顔が横に弾かれる。
僕は思わず父親の腕を掴んだ。
「やめて」
父親は僕を突き飛ばした。
床に倒れ込む。
そのとき、キッチンから母親の声が響いた。
「何してるの、あんたたち!」
母親が包丁を置いて、リビングに駆け寄ってきた。
助けてくれるのかと思った瞬間、
母親は僕たちを睨みつけた。
「また父さんを怒らせて。何度言ったらわかるの!」
母親は滉斗の腕を乱暴に掴み、
そのまま手の甲で頬を叩いた。
バシッ
滉斗の顔がまた弾かれる。
僕は母親の前に立った。
「やめてよ!」
母親は僕を睨みつけ、
「生意気言わないで!」
そのまま僕の頬も平手で叩いた。
バシッ
痛みよりも、心の奥が凍るようだった。
母親がこんなふうに手をあげるなんて、今までなかった。
父親はその様子を見て、
「お前ら、俺たちを馬鹿にしてるのか」
と、低い声で呟いた。
僕も滉斗も、何も言えなかった。
そのとき、元貴の部屋から小さな歌声が聞こえた。
「きらきらひかる……」
無邪気な声が、家の空気をほんの少しだけ和らげる。
母親はしばらく僕たちを睨みつけていたが、
やがて舌打ちしてキッチンに戻った。
父親も、ソファに戻って酒を飲み始めた。
僕と滉斗は、床に座り込んだまま動けなかった。
「大丈夫?」
滉斗は小さくうなずいた。
「平気」
でも、声が震えていた。
僕は滉斗の手を握った。
「ごめん、僕が……」
「兄ちゃんのせいじゃない」
二人で、しばらく黙っていた。
夜、布団に入っても眠れなかった。
天井のシミを見つめながら、
(どうして、こんな家になったんだろう)
そんなことばかり考えていた。
滉斗の寝息が、隣の布団から聞こえてくる。
でも、時々、寝返りを打つたびに小さくうめき声が漏れる。
きっと、痛みがまだ残っているんだろう。
僕はそっと布団から出て、洗面所の鏡を覗いた。
頬が赤く腫れている。
でも、これくらい平気だと思った。
(明日になれば、少しは引いてるはずだ)
翌朝、元貴が「おはよう!」と元気に部屋に飛び込んできた。
僕と滉斗は、昨日の傷をマスクや長袖で隠した。
朝食のとき、母親は無言で食器を並べ、
父親は新聞を睨みつけていた。
元貴はパンを小さくちぎって食べていた。
「お兄ちゃんたち、今日も一緒に学校行こう?」
「うん」
滉斗はマスクをして、頬の腫れを隠した。
僕も、昨日の傷を隠すように長袖を着た。
家を出ると、外の空気がやけに冷たかった。
でも、三人で並んで歩くと、ほんの少しだけ安心できた。
放課後、家に帰るのが怖かった。
でも、帰らないわけにはいかない。
玄関を開けると、母親が廊下に立っていた。
その目は、昨日よりも暗く沈んでいた。
「早く手を洗いなさい」
「はい」
僕と滉斗は、顔を見合わせてうなずいた。
夜、母親がまた怒り出した。
理由なんて、もうなかった。
ただ、僕たちの存在そのものが、
母親の怒りの標的になっているようだった。
滉斗が小さく震えながら言った。
「兄ちゃん、どうしたらいいのかな」
僕は滉斗の肩を抱いた。
「絶対に、元貴だけは守ろう」
滉斗はうなずいた。
でも、その目には涙が溜まっていた。
家の中の空気が、どんどん冷たくなっていく。
父親の暴力だけじゃない。
母親の怒りが、僕たちを追い詰めていく。
それでも、三人で手をつないで眠るときだけは、
ほんの少しだけ、心が温かくなった。