「あー、ジュリくん。今日もよろしくね」
シャンパンを掲げた女性が話しかけてくる。樹はほほ笑みをつくり、席に向かった。
組織を脱してから仕事をどうしようかと迷っていたが、友達が薦めてくれたホストクラブ業界に入ることにした。特異な業界を渡り歩くことになってしまったが、どういう風の吹き回しやらかなり売れているらしい。
ネームプレートには「JURI」と書いている。本名っぽく聞こえないからいいだろう、と先輩が言った。
案外楽しく、女性もお酒も堪能できるから彼なりには満足していた。
「ねえ、アフター行かない?」
担当している客が隣で言う。彼女は一線を越えるようなことはしないから、安心できる。
「もちろんです」
誘われたのは銀座のバーだった。
「ジュリくんは何飲む?」
「いつものでいいですよ」
バーテンダーに向けてそう言う。自分でも、こういう慣れた感じを出すのは板についてきたな、と思った。
「あっ、もしかしてピアス変えた?」
彼女の手が左耳に触れる。この間新調したばかりだ。
「ええ。どうですか?」
「いいね、スーツにも似合ってる」
「ありがとうございます」
接客用にスーツは変えたが、色はやはり黒にした。好きだし、この真っ黒が似合うと客にも好評なのだ。
そして以前の職業病と言うべきか、敬語が抜けない。ターゲットにタメ口は怪しまれるからだ。
ことりと目の前にグラスが置かれる。静かにグラスを持ち上げ、彼女と会釈をしてから口に運んだ。爽やかなジンの香りが広がる。
と、ドアが開いて人が入ってくる気配があった。あまり意識せずにそちらを見ると、そのままの姿勢で樹は固まった。
現れたのはスーツ姿の2人組。やや顔が赤らんでいるから、飲み直しにでも来たのだろうか。
しかしその1人が目にとまった。
「慎太郎……」
声にもならないような小さな声で言った。相手は何も気づいていない。奥のテーブル席に座った。
「ジュリくん?」
呼ぶ声にハッとした。
「あ、すいません」
「どうかした?」
「いえ、ちょっとボーッとしちゃって」
すでに彼女は2杯目のワインを飲んでいる。樹も同じものを頼んだ。
でも、それからも慎太郎に似た人が気になって会話が頭に入ってこなかった。
いつもなら美味しいワインの味も、なぜか薄く感じた。
「すごい綺麗なバーですね」
慎太郎が先輩に向かって言うと、得意げな声が返ってきた。
「だろう? いつか来させてやりたかったからさ」
2人は同じ広告代理店の社員だ。人と関わることが好きな慎太郎は、営業マンに向いているのかもな、と我ながら思っている。
先輩は長くその会社にいて、このバーはクライアントとよく来る場所なのだそう。
先輩は顔を近づけ、「ほら、今日はあんなイケメンと美女も来てる」
カウンターに座る客を見ると、「うん?」
薄暗くて見えづらいが、男性の姿に何やら違和感を覚えた。いや、違和感ではない。一種の懐かしさ、とも言うべきか。
女性の陰で見え隠れする端正な横顔。耳に揺れる小さな金色のピアス。そして何より、純黒のスーツ。
樹でしかない。
だがジャケットの形が以前とは違っている。
そして何より、女性に向けている顔が見知らぬ男性のものだった。
「何だ、森本。そんなに美女が気になるか」
先輩は訝しげだ。
慌てて向き直り、「違います。ただ、昔の友人に似てるなって…」
小声で言った。
「彼女がか?」
「いえ、男性が」
先輩も目を凝らして見る。
「あー…わかった、あれはホステスと客だ」
「えっ」
まさかと思った。というより、男性がもし樹なら断然ホストだろう、と考えた。
しかし約束は守らないといけない。いくら本人に確認したくても、相手はもしかしたら仕事中なのかもしれないのだ。
まさかこんなところで会えるわけないよな、と思い店内に流れるジャズを聴きながらカクテルに浸った。
続く
コメント
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続き楽しみにしています!!!