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◇ ◇ ◇
会社の終業時間から、だいぶ経ったTAKARA本社ビルのオフィスは静寂に包まれていた。
だが、社長室には明かりが灯り、パソコンのキーボードを叩く音が、カタカタと小さく鳴っている。
その音を上書きするように、バンッと大きな音を立てドアが開く。
慶太は咄嗟にモニターから視線を上げる。不躾に入って来たのは萌咲だった。
「今、お邪魔してもよろしいかしら?」
萌咲にしては、ずいぶん棘がある言い方に慶太は訝しく感じ、なだめるように声を掛ける。
「こんな時間に|社長室《ここ》まで来るなんて、珍しいな。何か急ぎの用なのか?」
「慶ちゃんは、呑気にお仕事なのね」
藪から棒のケンカ腰に慶太は戸惑う。
「どうした? 何かあったのか?」
「どうしたもこうしたも無いわよ! 今日、秘書の中山さん居なかったでしょう」
萌咲は眉を吊り上げ怒り心頭の様子だ。
なぜ、萌咲の口から中山の名前が出てくるのか、慶太は検討がつかない。
「ああ、私用で有給を取っている」
「ハッ、本当に呑気ね。今日、中山さんは父の用事で沙羅さんに会いに行ったらしいわよ」
その言葉に慶太の血の気がサッと引く。
まさか沙羅に何かしたのだろうか……。
スマホを取り出し、沙羅の名前をタップする。コール音を聞いている間、慶太の鼓動はドクドクと早く脈動していた。
父・健一には、沙羅に何かしたならTAKARAを辞めると行ったはずだ。沙羅に確認すれば、はっきりする。
だが、スマホはコール音を繰り返すばかりで、沙羅の声を聞く事は、叶わなかった。
もう一度、電話を掛け直しても、沙羅は電話に出ない。
イライラとスマホを操作する慶太を見かねて、萌咲も沙羅へ電話を掛け始める。
たとえ、中山に何かを言われ慶太を着信拒否にしたとしても、わざわざ連絡をくれた沙羅は、自分の電話には出てくれるだろうと萌咲は思ったからだ。
それなのに、コール音がするだけで電話は繋がらない。萌咲は眉根を寄せて、悔し気にスマホの画面を見つめる。
「わたしの連絡にも出ないわ。この時間だと、お風呂にでも入っているのかも知れないから、あと、30分したらまた電話をしてみましょう」
もしかしたら、何かあったのでは?と萌咲の脳裏に浮かんだが、嫌な考えを振り払うように明るく言う。
「ところで、萌咲は、中山が沙羅の所に行った事をどうして知っているんだ?」
片眉をあげて訊ねる慶太に、萌咲はスマホの画面を見せる。
「沙羅さんから、メッセージが届いたのよ。この前、東京に行った時に沙羅さんとお茶をして仲良くなってね。慶ちゃんのこと真剣に想っているのが伝わってきたわ。だから、沙羅さんの力になれたらと思って、何かあったら連絡してってお願いしていたの」
「そうか、萌咲にも心配かけてすまない」
「わたしに素敵な婚約者が居るのは、慶ちゃんのおかげなんだから、おあいこよ。それより、これからどうするの?」
「……そうだな。父さんは、一ノ瀬の家に居るのか?」
こうなったら、秘書の中山を東京に向わせてまで沙羅に何をしたのか、父親である健一に問い質す必要がある。
「ええ、今頃、母と夕食でも取っているんじゃないかしら?」
「それじゃあ、一ノ瀬の家に行こうか。話の内容によっては、身の振り方を考えさせてもらう」
「そうね。お父様は、そういう人だと思っていたけど、今回の事は、さすがに人の気持ちを無視して、やりすぎたわね」
兼六園裏手にある住宅街で、慶太と萌咲はタクシーから降り立った。
一ノ瀬萌咲の母・咲子が暮らす、築13年の和モダンな家は、木製の縦桟の引き戸から家の明かりが漏れ、来る者をホッとさせる作りだ。
萌咲が、玄関をカラカラと開けた。
「ただいま。今日は慶ちゃんも一緒よ」
「おかえりなさい」と奥からパタパタと咲子が、顔をみせる。
女王然としていた慶太の母聡子とは対照的に、白い割烹着が似合う咲子は、穏やかな微笑みで慶太を出迎えた。
「いらっしゃい。夕ご飯はまだよね。簡単なもので良ければ、食べて行ってくださいね」
「いえ、お気持ちだけで……。今日は、父に話しがあって伺わせていただきました。父は?」
「リビングに居るわ。どうぞ」
咲子に促され、リビングに入ると、部屋着姿の健一は、掘りごたつでくつろいでいた。
慶太を見るなり、ニヤリと口角を上げる。
「なんだ、慶太がこの家に来るなんて、珍しいな。急ぎの話か?」
恐らく慶太が何のために来たのか、わかっているはずだ。それを素知らぬふりをする健一。
慶太は怒鳴りつけたい気持ちを抑え、冷静を装う。
「今日は、有給で休んだはずの私の秘書が、会長の使いで東京まで出かけたと聞きました。私の恋人に何をしたのでしょうか」
「なに、たいした事じゃない。結納が近いお前のために身辺整理をしてやろうと思ってな」
慶太は、正面に座る健一を睨みつけ、話し出した。その声色は、低く怒りに満ちている。
「身辺整理? 冗談じゃない。立華商事のご令嬢とのお見合いの件は、断ると言ったはずだ。それにパーティーに出れば、彼女には何もしないと約束をしたからパーティーにも出席した。それなのに、結局お見合い相手のエスコートをさせられた。その上、中山を彼女の元に向かわせて、彼女に何をしたんだ」
健一は、歪めた口元を隠すように手を当て、肩眉を上げた。そして、あらかじめ用意していた台本を読むように語り始める。
「お前の恋人、中山の出した小切手を受け取らなかったそうだ。お金で気持ちを売り渡すような事はでき無いって言っていたらしい。なかなか健気な女だ。まあ、しかし、お前の女を見る目は確かだと証明された訳だ」
健一の言い草で、 身辺整理と称して沙羅に小切手をチラつかせ、別れろと脅したのだと、慶太は理解した。
いま直ぐに、眼の前に居る父親を殴り飛ばしたい衝動に駆られ、それを抑え込むように膝の上でグッと拳を握る。
「だから、最初から彼女はそんな人じゃないと言ったはずだ」
「ただ立華商事とご令嬢と比較したら、若さや家柄など足りな過ぎる。この際、彼女を愛人にして、一緒に居ればいいじゃないか」
自分の生き方を押し付けて来る健一に、慶太は苛立ち、ほとほと嫌気が差した。
「いい加減にしろ! これ以上、彼女を侮辱して俺の結婚に干渉するなら、TAKARAを辞める。これは、脅しじゃない本気だ」
実際のところ、健一がTAKARAのトップに帰り咲いたところで、旧体制を排除した今の社員達を牽引して行くほどの度量が無い。
慶太がTAKARAを辞職して困るのは、後継ぎの居なくなる健一の方だ。
慶太の本気を前によほど悔しいのか、健一は奥歯を噛みしめた。
だが、次の一手を思い付いたとばかりに、クッと口角を上げ話し出す。
「お前がTAKARAを辞めると言うなら、それも仕方ない。代わりに、萌咲の婚約は白紙にして、TAKARAの後継ぎになれる男と結婚させる」
ダイニングでお茶を飲みながら、ふたりの様子を見て居た萌咲も、この健一の発言には、さすがに黙っては居られなかった。
スクッと立ち上がり、健一に詰め寄る。
「ひどい ! わたしの結婚を盾にして慶ちゃんを従わせようとするなんて最低だわ! わたしは、お父様のお人形にはなりません。駆け落ちでも何でもして、好きな人と添い遂げます」
怒る萌咲に、「まあ、まあ」と子供の癇癪をなだめるような態度の健一は、近づいて来た咲子へどうにかしろと言わんばかりに顔を向けた。
その瞬間、バチンと咲子の平手が健一の頬を打つ。
普段穏やかな咲子の怒りの一撃に、場が凍り付いた。
その中で動き出したのは、やはり咲子だった。
背筋を伸ばし、お臍の下丹田と呼ばれるあたりに両手を重ね、真っ直ぐに健一を見据える。
「いい加減にして下さい。私が愛人の立場で、長年あなたと一緒に居たのは、あなたが萌咲を大事にしてくれて居ると思っていたからです。親なら自分の欲より子供の幸せを一番に思うもの。それなのに子供達を道具のように扱うなら、私はあなたとは縁を切ります。あなたは子供にも見放され、生き方を悔いながら独り寂しい老後を送ればいい」
最後には、呪詛にも思えるような言葉を吐き出すと、咲子は何事もなかったように踵を返し部屋から出ていった。
頬に赤い手形を付けた健一は、ヘナヘナと力が抜けたように座り込む。
慶太と萌咲は、咲子の怒りの大きさに、驚くばかりで、顔を見合わせていた。
そこへ、普段と変わらぬ穏やかな表情の咲子が戻ってきた。ただ、手にはボストンバックと背広の入ったガーメントバッグを下げている。
咲子は、ニッコリ微笑むと、おもむろにバッグを健一の前に差し出した。
「咲子……」
縋るような健一の声に、咲子は笑みを浮かべたまま応える。
「昔、あなたのご実家の旅館の存続が掛かっている状態で、政略結婚を選んだのは、仕方がないと涙をのみ別れました。その後偶然再会し、いけない事と思いながら関係を続けたのは、私の弱さです。そんな中、萌咲を授かり産む選択をした事に後悔はありません」
そこで、健一はホッと表情を緩ませる。咲子はそれに構わず話しを続けた。
「ただ、あなたとの関係を続けるのを悩んだ事は、計り知れないほどありました。愛人という立場は、世間様に後ろ指をさされ、精神的に楽ではなかった。だから、何度も別れようと思いました。それでも、あなたと一緒に居たのは、あなたが萌咲にとって良い父親だったからです」
「あ……」
と何かを言いかけた健一だったが、言葉が見つからず視線を泳がせる。
「私にとっての幸せは、萌咲が幸せに笑ってくれる事なんです。その萌咲の幸せを奪う父親なら一緒に居るわけにはいきません。この家から出て行って下さい」
「え……?」
咲子に叩かれただけでなく、家から出て行けとまで、言われると思っていなかった健一は、思考が追いつかない。
|理由《わけ》あって別れた数年後、再会を果たした時、咲子は別れた後も自分を想い続けてくれていたと知った。
心の拠り所を求めるように、咲子との関係を続けてしまったのは、間違いなく、健一自身のエゴだ。
本来、真面目な性格の咲子は、不貞を良しとするタイプではなかった。
冷えた家庭の不満や仕事の辛さをぼやき、咲子の優しさに付け入ったのだ。
萌咲を授かり、より関係が深くなった頃、咲子との再婚を考え、妻の聡子に離婚を切り出した事があった。
けれど、聡子は頑として離婚を受け入れず、咲子は愛人のまま年を重ねた。
大きくなったTAKARAグループの妻の座をプライドをかけて死ぬまで守り続けた聡子。
その影となった咲子は、萌咲の成長を生きがいに健一に尽くしてきた。
何があっても咲子は自分から離れないと、健一はどこかで安心していた。だが、咲子にも心があり、守りたいものがある。
その一線を踏み越えたなら、夫婦でもないふたりの絆は容易く断ち切れてしまうのだと、健一はやっと思い当たった。
「すまない。俺が悪かった」
一度、口から出た言葉は取り消せない。それでも、言わずには居られない健一だった。
健一の謝罪を聞いた咲子は、細く息を吐いた。
「今日のところは、荷物を持って出て行ってください。いま謝られても、その謝罪が本心から反省してのものなのか、その場限りの上っ面なのか判断が付きません。本心かどうか私が判断するのは、これからのあなたの行いを見てからにします」
毅然とした咲子の態度に健一は、ぐうの音も出ない。
尊大な健一が咲子の手のひらで踊らされているのを見た慶太は、戸籍上夫婦ではないふたりの間に横たわる長い月日を想うと、複雑な気分にさせられる。
ただ、健一にとって、咲子は必要不可欠な存在であるのに対し、咲子は健一が居なくとも、背筋を伸ばし、自分らしく歩き続けて行くのだろうと思った。
「咲子さん、父は本宅に連れて帰ります。今日はありがとうございました」
「いえ、慶太さんのお話しに割り込んでしまって、申し訳なかったわ。でも、萌咲の結婚まで持ち出されては、私も我慢ならなくて……」
「ビシッと言って頂けて胸のすく思いでした。それに、萌咲に幸せな結婚をしてもらいたいのは、俺も一緒です」
ふたりの会話に萌咲も加わる。
「慶ちゃんもね。沙羅さんと幸せになってね」
慶太は、にこっと笑い、萌咲の頭をクシャリと撫でた。
「萌咲に余計な心配させて悪かったな」
「わたしは平気。それよりも沙羅さんに早く連絡して、安心させてあげてね」
すると、慶太のスマホが振動を伝えてくる。
沙羅が着信履歴を見て折り返して来たのかと思い、画面を確認すると田辺俊司との表示だ。
なんだろう?と思いながらタップする。
「はい、高良の携帯です」
「慶太さん、田辺です。今、藤井さんから連絡が入ったんですが、佐藤さんが吐血して救急で運ばれたって……」
沙羅の病状については、吐血して都内の東山病院に運ばれたということしかわからなかった。
そうなのだ、藤井から田辺への伝聞を慶太は聞いたに過ぎないのだ。
沙羅に連絡がつかない以上、状態を知るすべを持たない慶太は苛立ちで髪をかきあげる。
直ぐにでも、東京へ行こうと時計を見みると、新幹線も飛行機も最終便は終っている時間だ。
「自宅に戻って車で……」
と、呟いたところで萌咲に腕を掴まれた。
「慶ちゃん、落ち着いて。今から東京に車を飛ばしても、着くのは明け方でしょう。その時間じゃ、病院に行っても入れないと思う。朝イチの新幹線で行くのが確実よ」
その言葉にうなずき、慶太は焦る気持ちを抑え込む。いま優先するのは、東京に行くために態勢を整える事だ。
「父さん、彼女が倒れたと連絡が入ったので、明日は東京に行きます。リモートでこなせる業務はしますが、それ以外の事はお願いします」
横に居る萌咲が慶太に加勢する。
「きっと、嫌がらせをされたのがショックで沙羅さんは倒れたのよ。お父様のせいなんだから、慶ちゃんが東京に行っても文句は言えないはずよ!」
ふたりの少し後ろにいる咲子は、たおやかな笑みを浮かべ健一を見つめていた。その姿は、まるで健一の一挙手一投足を採点しているようだ。
四面楚歌な状態に健一が返せる言葉は、ひとつしか無い。
「ああ、わかった。後の仕事は引き受ける。彼女には、すまなかったと伝えてくれ」