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五日後。
大通りからは死角になった路地。突き当りには傾きかけた空き家。
俺の目の前には、ナイフの刃先。
そして、ナイフを握る黛がいた。
「お前のせいで何もかも滅茶苦茶だ!」
頬はこけ、無精ひげは汚らしく、髪も乱れている。服もヨレヨレで、何日も着替えていないように見える。
ほんの数週間前までの黛とは雲泥の差。
最後に見た時と変わっていないのは、俺を見る憎悪の眼。今は、殺意も含んでいるが。
「梶田に殺されておけば良かったものを」
梶田とは、俺を刺した男。今は警察病院で薬物治療を受けている。
禁断症状に陥る度に、売人やら、その客やら、売買の連絡方法やらをべらべらと喋っているらしい。
「もう、薬に釣られて俺を殺してくれるトモダチはいないらしいな」
「俺の手で息の根を止めてやる。そうしなきゃ、気が済まねぇからな!」
トモダチだけじゃない。
家族も黛を見捨てた。
『暁不動産 倒産秒読み! 社長の隠し子には逮捕状!!』
二日前に発売された週刊誌の表紙を飾ったのは、暁不動産の現社長と黛の写真。
『立波リゾートの次期社長は亡き副社長の娘婿!?』
これは、昨日発売された姉さんが編集長を務める雑誌の見出し。
「お前のせいで、計画が滅茶苦茶だ!」
「計画自体が滅茶苦茶だったんだろう?」
「うるせぇ! マスコミなんかにタレこみやがって!!」
姉さんは以前から調べていた暁不動産についてのネタを、週刊誌部に譲った。半分。
半分は自分の雑誌に掲載した。
週刊誌では『社長の隠し子』についてスキャンダラスに、経済誌では『経営不振の原因はお家騒動にある』と書いた。
恐らく、会社を辞めた黛は父親を頼って身を潜めていたはずだ。だが、マスコミに狙われるようになり、見捨てられたのだろう。
事実、今朝のワイドショーでは、社長には隠し子など存在しないという趣旨の暁不動産の公式発表が伝えられた。
黛は、その存在自体を否定された。
これで、暁不動産が立波リゾートの手を借りることは不可能となった。
こんな記事が出てしまっては、手を差し伸べてくれる企業があるはずもなく、暁不動産は奇特な企業に吸収合併されるか、買収されるか、倒産するかの道しかなくなった。
現在、最も有力なのは立波リゾートによる買収。
姉さんの雑誌の次号で、立波リゾートによる暁不動産の買収計画が発表される予定だ。
『暁不動産崩壊! 数千人の社員の命運は立波リゾートに委ねられた!!』
これが、最後の一手《とどめ》だ。
「利用されてることも知らねぇで、手の込んだ真似しやがって!」
「お前と一緒にすんな」
「はっ! どうせお前もあの女の計画の駒でしかないんだよ。どんなに尽くしても、お前が立波もあの女も手に入れることは出来ないってのに、おめでたい野郎だぜ!!」
『負け惜しみでデタラメを吐いているだけ。もしくは、薬の妄想に憑りつかれているか。どちらにしても、一回り以上も年下の女を悪者にして自分の行動を正当化するなんて、下衆の極みだ』
一週間前の俺なら、そう思っただろう。
だが、今は黛の言葉の一つ一つが、望まない真実へと繋がっていく。
「言いたいことはそれだけか」
「いい気になってりゃいいさ」
「お前とは違うんだよ」
「どう違う? 姉か妹かの違いだけだ。利用されたことに変わりはねぇ」
黛のナイフを持つ手に力がこもり、刃先が震えている。
俺と黛の距離は三メートルほど。
二度も刺されるつもりはなかったが、後退る気もない。まして、背を向けるなど、あり得ない。
それに、まだ大事なことを聞き出せていない。
「下手打って桜に見捨てられたお前とは違う。俺は馨と結婚して、立波を手に入れる」
「馨が最後に選ぶのは桜だ。お前はどう逆立ちしたって、桜には勝てねぇんだよ!」
「桜《ガキ》に何が出来る? まぁ、何をしようが馨が選ぶのは俺だ」と、わざと挑発的な言い方をする。
「余裕こいてりゃいいさ。桜の怖さを知ったら、ガキだなんて言えなくなるぜ」
静かにそう言った黛の目に涙が浮かぶ。狂気の涙か恐怖の涙か。
「……桜の何がそんなに怖いんだ」
「…………」
「黛」
「会えばわかる」
「会えるのか? 俺はここでお前に殺されるんじゃないのかよ」
黛が、フンッと鼻で笑う。
「俺はクソだがバカじゃねぇ。これが罠だってことぐらい、わかってる」
「生い立ちはどうでも、それなりの大学をそれなりの成績で卒業して、そこそこの企業に就職してそこそこの出世が出来たんだ。バカには出来ないことだよな」
黛のしたことは許されないし、許せない。
だが、入社した頃の黛が上層部に期待されていたことを、俺は知っている。がむしゃらに頭を下げて営業成績を伸ばしていたことも知っている。
黛はどこで道を間違えた——?
「残念だよ。私怨に囚われずに自分の人生を歩めていたら、今頃俺と肩を並べていたかもしれない」
黛の目から、涙がこぼれた。
悪人の涙とは思えない、透き通った大粒の涙。
「どうして……お前が……」
わなわなと唇を震わせ、言葉を絞り出す。
「どうしてお前なんかに認められなきゃならない! 誰にも……親父にも……認められなかったのに……」
それが、黛の本音。
認知もしてくれなかった父親に、自分という息子の存在を認めてもらいたい一心。
哀れだ。
「桜は認めてくれたんじゃないのか? だから、婚約したんだろう?」
「お前らと同じだよ……。桜は立波リゾートを手に入れるための共犯者が欲しかった。俺はそのお眼鏡にかなっただけのことだ」
桜と黛も『共犯者』か……。
「桜はどうしてそこまで立波リゾートにこだわるんだ」
「さあな。だが、桜の金への執着は半端じゃない」
恋人《亨》のためか……。
安永に亨のことを調べてもらった。
母親が亡くなってからしばらくは親戚の家を転々としていたが、高校卒業と同時に独り暮らしを始めた。いくつかのアルバイトをしながら生活していたらしい。だが、四年ほど前の同時期にどの仕事もクビになっていた。それからは、ホストクラブで働いていたが、一年ほど前に辞めている。
その直後、出国した。桜が留学で出国したのと同じ日に。同じ飛行機で。
三か月後、就労ビザが失効する直前に、亨は現地の女性と結婚している。
永住権を手に入れるための、偽装結婚だろう。
そうまでして、桜と一緒にいたいのか——。
「馨と桜の不仲の理由を知っているか?」
「……さあ? 馨がいなきゃ桜が立波を手に入れられるからだろ」
黛も真相は知らない……か。
「だが、桜は言ってたぜ? 『お姉ちゃんが最後に選ぶのは私』だって」
「随分な自信だな」
「桜に弱みでも握られてるんだろ。『私を見捨てたら、お姉ちゃんの人生はお終いなの』とも言ってたからな」
馨の弱み……?
「お前さえ馨に近づかなきゃ、上手くいったんだ」
もう、黛のナイフを持つ手に、力は入っていなかった。
黛に、俺を刺す気などなくなっていた。
初めから、そんな気はなかったのかもしれない。罠だとわかって飛び込んできたのだから。
ポツ、と音がした気がした。
「俺が馨に近づいたのは、お前が馨に近づいたからだよ」
もう一度、今度は確かにポツッと音がした。
「お前に言い寄られてる馨を見て、俺が守ってやりたいと思ったんだ」
ポツポツ、と速度と音量を増して、雨が降り出した。瞬く間にアスファルトを色濃く変えていく。
「自業……自得か」と、黛が呟いた。
追い詰められた上に雨にまで降られて、黛はすっかり肩を落としていた。最早、奴の目には俺すら写っていなさそうだ。
「自首しろ」
「……それで?」
「は?」
「自首して、刑務所入って、出てきて、それから俺に何がある?」
雨足が強くなり、ザーッという水音が耳を塞ぐ。だから、黛の力ない声が、余計にか細く聞こえる。
「もう、俺には何もない……」
黛の頬を伝う雫が雨なのか涙なのかは、もうわからなくなっていた。
俺も、しばらく整えていない伸びた前髪から滴る雨が、いちいち目を刺激する。
「……親父を見返したいんじゃないのかよ」
「どうやって? 親父は俺が息子であることを否定した。家も別荘も出禁だとよ」
黛が、クククッと気味の悪い笑みを浮かべる。
「それに、暁不動産はすぐに人手に渡る。俺がムショから出て来る頃には、親父は死んでるかもな」
「だから?」
「……」
「お前は何を望んでいたんだ? 立波リゾートの社長になって、父親に認知でもしてもらいたかったのか? 暁不動産を救ったら、兄弟が尊敬してくれるとでも思ったのか? そんなくだらないもののために、ここまでやったのか!?」
「うるせぇ! お前に何がわかるんだよ!!」
まるで、一昔前の青春映画だ。
大の男が雨の中で、思いのたけを叫び合う。
今時、流行らない。
うるさい雨が、邪魔なんだ。
「お前の父親は、どうしてお前を認知しなかった?」
「……世間体だろ」
「なら、お前の母親はどうしてお前を産んだ? 養育費目当てか?」
「母さんはそんなもの貰ってない!」
「なら、自分を捨てた男に復讐したくて産んだのか!」