コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
カシャン、と黛の手からナイフが落ちた。正確には、黛がナイフを投げつけた。
そして、一秒前までナイフを握っていた黛の手が、今は俺の胸倉を掴んでいる。
「黙れ! 母さんはそんな人間じゃない!!」
「だったら! どうしてお前はこんなことをしたんだよ!!」
唾がかかるほど近くにあるのが黛の顔なんて、勘弁してほしい。自首なんかさせようと、熱くなっている自分にもうんざりだ。
「俺はっ——! 俺はただ——……」
「父親に認められることで、母親が喜ぶと思ったのか」
俺にも覚えがある。
俺と父親の不仲に悲しむ母親のために、歩み寄ろうとしたこともあった。失敗に終わったが。
要するに、子供なんだ。
父親の気を引きたくて悪さをし、それがダメなら褒められるよう努力する。それでもダメなら、父親に必要とされるように手を尽くす。それが、どんなに汚い手でも。
「お前の母親は、お前に何を望んだんだろうな……?」
黛の母親は、五年前に亡くなっている。
その頃の黛が仕事に真摯に向き合っていたことは、救いだったのではないだろうか。
同時に、母親が生きていたら黛が歪んだ道へ迷い込むことはなかったのではないかとも思う。
「黛、お前は父親に捨てられたんじゃない。お前が父親を捨てたんだ」
雨が、黛の中の父親への未練を全て流し去ってくれたらいいと思う。
「お前に捨てられた父親は、暁不動産を失うんだ。いい気味だと笑えばいい」
黛は項垂れ、俺は奴の後頭部を見下ろして言った。
「親父は会社を潰したのは俺だと恨むだけだ」
「そうかな。今は恨んでも、会社を失って気づくんじゃないか。やり方はどうであれ、暁不動産のために行動を起こしたのはお前だけだったこと」
専務の長男は会社の危機に気づいてもいなかった。原因が自分にあることにも。だから、週刊誌が発売された二時間後には有り金持って飛行機に飛び乗った。父親を見捨てて。
次男も三男も、父親を心配して実家に戻った形跡はない。
実の子を捨てた男は、実の子に捨てられた——。
「罪を償って、血が繋がっているだけの他人を見返してやれ」
黛の手が俺の襟から滑り落ちた。
「……警察が……いるんだろう?」
空き家の塀の向こうから、高津が姿を見せた。奴もずぶ濡れだ。
黛が顔を上げた。その表情は、穏やか。
高津に向かって、ゆっくりと足を運ぶ。高津は警察バッジを、黛に見せた。
「黛賢也だ。……自首したい」
「わかった」
高津は事件の管轄である警察署に電話し、黛が自首してきたことと、現在地を伝えた。手錠は、掛けなかった。
「逃げ回っていたところをこの男に職質されて、俺は自首をした」
黛が言った。
「この場には俺と警察官の二人しかいなかった」
高津が、頷く。
俺は転がっていたナイフを拾い、刃を畳んだ。
「俺はここにはいなかった。こんな物騒なモンも、ここにはなかった」
俺はナイフをポケットにしまい、二人に背を向けた。
「槇田」
踏み出した一歩を、引っ込める。
「桜も同じだ」
「え?」
「あいつも、自分の居場所を探してる。馨に、認めてもらいたがってる」
桜は、馨に認めてもらいたがってる……?
「だが、桜自身、自分が馨を求めていることを認めていない」
「どういうことだ?」
「あいつはまだ、子供だ。失うまで、欲しいものの価値に気づけないほどに」
*****
「容疑者逮捕へのご協力、ありがとうございました」
高津が深々と頭を下げた。
「いえ、こちらこそありがとうございました」
俺も頭を下げた。
黛の逮捕から一夜明け、俺は再び高津の部屋に来ていた。
「黛は容疑を認め、事情聴取にも素直に応じています。自首扱いだし、初犯なので、保釈が認められる可能性はあると思います。保釈金が払えて、身元引受人がいれば、ですが」
渦中の父親が動くとは思えないな……。
「黛は馨と桜については話していません。槇田さんを狙ったのは、妬みからだと話しているようです。黛が言うには、梶田への指示も『槇田をしばらく動けないようにしろ』だったそうです。薬を買う金もなかった梶田は禁断症状で正常な判断が出来る状態ではなかった。まぁ、正常な判断が出来たなら、そもそもそんな指示は受けなかったでしょうけど。とにかく、梶田はどこを刺したらどうなるかなんて考えられるような精神状態じゃなかった」
「そうですか」
俺は、コーヒーを口に含んだ。
「黛の逮捕を、馨には?」
「今朝、伝えました」
今更ながら、高津が馨と連絡を取っていることにムカつく。
「帰国は?」
「早ければ明後日にも」
「桜は?」
「さぁ」
「聞いてないんですか?」
「聞いても答えないでしょうから。けど、馨の様子からしたら、仲直りしたようではないですね」
高津が、さも馨のことを一番理解しているのは自分だと言わんばかりの口調で話すのが、気に食わない。
「馨が帰国したら、会わせてください」
自分の女に会うのに、元彼に頼まなければいけない状況も、気に食わない。
「俺が判断することでも強要することでもないですから。馨があなたに会いたいと思えば連絡するんじゃないですか?」
この野郎……——!
わざと俺を怒らせようと、言葉を選んでいることはわかっている。
十歳若ければとうに殴りかかっているだろうが、現在の俺には分別も忍耐もある。
「覚えていたら、伝えておきますよ」
「ありがとうございます」
俺はとびきりの営業スマイルで言った。
「いえ。こちらこそありがとうございました」と、高津もまた作り笑顔で言った。
「……?」
「あなたのお陰で、心置きなく馨を取り戻せる」
「どういう……意味ですか?」
「今回、あなたの『願い』を聞いたことで、俺と馨の間に過去のしがらみはなくなったんですよ」
確かに、俺は馨の代わりに『願い』を言った。だが、それは馨と高津の『絆』を断ち切りたかったから。それに、黛の逮捕に必要な役柄だった。
「馨はあなたと別れ、黛も排除した。もう、俺たちが別れなければならなかった理由はない」
「三年も前に別れたのに、未練タラタラかよ」
お行儀よくしていたのに、台無しだ。だが、黛が逮捕された今、お行儀よくし続ける理由もない。
「馨に利用されてるとわかっているんだろう?」
「お前も、黛から立波を守るために利用されたんだろ」
「いや? 俺が、利用したんだ。馨を手に入れるために」
馨が退職の際に高津の連絡先を残したのも、高津のマンションに荷物を入れたのも、俺へのアピールだろう。そうすれば、俺が怒って諦めると思って。
元彼《高津》が俺の逆鱗だと、知っているからな——。
だが、馨が俺との別れを決めたのは、俺のためだ。
黛から俺を守るため。
馨の気持ちが冷めたからじゃない。
それは、確信があった。
刺された後、病室で目が覚める直前、馨は俺のそばにいた。手術を終えて、両親が帰宅した後、姉さんが馨を病室に入れたのだ。
あの時、俺は何度も馨に『愛している』と言った。うわ言だったが、確かに言った。
そして、馨も言った。『私も、愛している』と。夢じゃない。確かに。
何よりも————。
「俺は馨と別れたつもりはない」
「婚約指輪も結納金も返されて、一緒に暮らしていたマンションからも出て行かれて、しかも行き先は元彼の家。諦めたらどうです?」
「馨が俺の目を見て、別れを告げたら諦めてあげますよ?」
「メール、させますよ」
「馨を俺に会わせるのが、怖いんだろ」
今度は、俺が挑発する番。
「言っただろ。俺が口出しすることじゃない。馨が——」
「俺があんたの立場なら、馨がこの部屋に足を踏み入れた瞬間に、閉じ込めて出さないな」
「余裕のない発想だな」
「一度馨に捨てられたあんたには、余裕があるのか?」
高津が歯を食いしばったのがわかった。
「あまり心配はしてないけど、一応言っておきますよ。こういう場面では定番でしょうから」
俺は立ちあがり、高津を見下ろして言った。
「馨を傷つけたら許さないからな——」
「カッコイイですね」と、小馬鹿にしたように笑う。
「約束しますよ。馨を傷つけるような真似は絶対にしない。ですが——」
そこまで言うと、高津も立ち上がり、俺の目の前に立った。
「気の迷いだろうが慰めだろうが、たとえあんたの代わりだろうが、馨が一瞬でも俺を求めたら、その時は迷わず俺のものにする」
馨は、気の迷いで男に身体を許す女じゃない……はずだ。疲れや寂しさをセックスで癒そうなんて考える女でもない……はずだ。
馨は、俺を忘れるために、元彼を代わりにするような女じゃない。
…………と信じたい。
「——それも、あまり心配はしてませんよ」
俺は、ありったけの虚勢を張って、高津のマンションを後にした。
嘘でも、『まったく心配していない』と言えなかったことが、情けなかった。