テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
26
「ふざけてんですか近藤さん!!アイツは……総悟はまだ18歳ですよ!?」
怒鳴り声が、静まり返った局長室を震わせた。
障子の向こうでは、夕暮れの風に揺れた木々が、かさり、かさりと乾いた音を立てていた。いつもなら、隊士たちの騒がしい声や、廊下を走り回る足音が絶えないこの屯所も、今日に限っては妙に静かだった。誰もが知っているのだ。今、この部屋で何が話し合われているのか。誰の命が、どこへ差し出されようとしているのか。
机の上に広げられた作戦書には、いくつもの赤い線が引かれていた。
敵の本陣。
周囲を囲む山道。
増援を阻止するための封鎖地点。
そして、そのすべての中心に記された、ひとつの名前。
──沖田総悟。
何度見ても、その文字が変わることはなかった。
「……トシ」
近藤さんが、困ったように俺の名を呼ぶ。
いつもなら、その声を聞くだけで少しは頭が冷えるはずだった。どんなに理不尽なことでも、どんなに腹の立つことでも、近藤さんがそうして俺を諭すように名前を呼べば、俺は一度くらいは言葉を飲み込めた。
だが、今だけは駄目だった。
「何がトシだ。説明してくださいよ。なんで総悟なんですか。なんで、よりによってアイツなんですか。」
机に置いた拳が、ぎり、と音を立てるほど強く握られる。
「敵の本陣を内側から潰す。成功すりゃあ、こっちの被害が減る。それは分かってますよ。俺だって馬鹿じゃねえんだ、作戦の意味くらい分かってる。だがな……!」
喉の奥が焼けるように熱かった。
「だったら俺が行けばいいでしょうが!! 俺が先陣を切る。俺が敵の本陣に突っ込む。副長が死地に行くってんなら、誰も文句は言わねえだろうが!!」
「お前がいなくなれば、残された隊士たちを誰が指揮する」
「代わりなんていくらでもいるでしょう!!」
「トシ」
「俺が行くっつってんだよ!!」
叫んだ瞬間、自分の声がひどく情けなく聞こえた。
俺は知っている。
近藤さんが、何も考えずにこんな命令を下す人間ではないことを。
隊士の命を軽んじるような人間ではないことを。
それでも、認めたくなかった。
この作戦が最も合理的であることを。
沖田総悟という人間が、この任務を遂行するのに最も適していることを。
そして何より、俺自身が、その結論に辿り着いてしまっていることを。
「……総悟の剣の腕なら、成功率が最も高い」
近藤さんは、静かに言った。
「敵の警備を突破して指揮系統を崩せるのは、あいつしかいない。あいつが敵を引きつけている間に、ほかの部隊を撤退させる。そうすれば、犠牲を最小限に抑えられる」
「……っ」
「総悟自身も、それを分かっている。だから志願したんだ」
耳の奥で、何かが嫌な音を立てた。
志願。
その二文字が、頭の中で何度も繰り返される。
志願した。
あいつが。
俺に何の相談もせず。
俺がどんな顔をするのか、分かっていたはずなのに。
いや、分かっていたからこそ、言わなかったのかもしれない。
あいつは、そういう男だった。
自分が何を選べば周囲が納得するのか、誰よりもよく分かっている。自分がどれだけ危険な場所に立とうとも、その選択が合理的であれば、誰も強く反対できないことも。
そして、誰かが自分を引き留めようとすれば、平気な顔で笑ってみせる。
──土方さんが心配するようなことじゃありやせん。
そんな言葉を、いくらでも吐ける男だった。
「……あの野郎」
奥歯を噛み締める。
「本当に、ふざけやがって……」
声が掠れた。
怒りのせいだと思いたかった。
だが、違う。
俺は、怖かったのだ。
明日、あいつが帰ってこないことが。
いつもなら当たり前に耳に入る生意気な声が、屯所のどこを探しても聞こえなくなることが。
廊下の角を曲がった先で、眠たそうな顔をして欠伸をしているあいつに出くわすことが、二度となくなることが。
そんな未来が、現実になるかもしれないことが。
──俺は、副長だ。
心の中で、何度も自分に言い聞かせる。
真選組の副長、土方十四郎。
隊士の命を預かり、戦場で判断を下し、誰かを生かすために誰かを危険に晒さなければならない男。
俺の判断ひとつで、何十人もの人間が生きるか死ぬかを決める。
たった一人の命を惜しんで、大勢を危険に晒すわけにはいかない。
分かっている。
分かっているからこそ、俺は何も言えなくなった。
俺が総悟を止めれば、別の誰かが死ぬ。
俺が総悟を庇えば、総悟が守ろうとした隊士たちが犠牲になるかもしれない。
俺が恋人を選べば、俺は副長として守るべきものを裏切ることになる。
それでも。
それでも俺は。
あいつひとりを、選びたかった。
そんなことを考えた自分が、ひどく醜い人間に思えた。
「……分かりました」
しばらくして、俺はそう言った。
自分でも驚くほど、静かな声だった。
近藤さんが顔を上げる。
「トシ……」
「作戦の指揮は俺が執ります。各隊の配置を見直す。撤退経路を増やして、敵の増援を食い止める。負傷者を回収する部隊も別に編成します」
作戦書に手を伸ばし、必要な箇所に印をつける。
赤い線の上に、さらに線を引く。
ひとつでも多くの可能性を残すために。
ひとつでも多く、あいつが帰ってこられる道を作るために。
「……副長として、最善を尽くします」
それが、俺にできる精いっぱいだった。
近藤さんは何も言わなかった。
俺も、それ以上は何も言わなかった。
ただ、窓の外で夕日が沈んでいくのを、ぼんやりと眺めていた。
赤く染まった空が、ひどく不吉な色に見えた。
*
総悟を見つけたのは、その日の夜だった。
屯所の縁側。
月明かりの下、あいつは片膝を立てて座り、ぼんやりと庭を眺めていた。
羽織の裾が、夜風に揺れている。
いつもなら、誰かに見られていることに気づけば、すぐにこちらを振り返って、にやにやと嫌味のひとつでも飛ばしてくる男だ。
だが、そのときのあいつは、俺が近づいても振り返らなかった。
「……何してやがる」
「月見でさァ」
「月なんざ毎日出てんだろ」
「今日の月は、明日には見られねえかもしれねえんで」
軽い口調だった。
あまりにも、いつもどおりの。
だからこそ、俺は足を止めた。
あいつが何を考えているのか、分かってしまった気がしたからだ。
「……聞いたぜ」
「何をですかィ?」
「とぼけんな。明日の作戦だ」
「ああ、そっちですかィ」
総悟はようやく俺を見上げた。
月明かりが、その赤い瞳を淡く照らしていた。
「いやあ、俺も出世したもんですねィ。副長がわざわざ心配して様子を見に来てくださるなんて」
「ふざけんな」
「おや、怖い怖い」
「総悟」
名前を呼ぶと、あいつは少しだけ笑みを引っ込めた。
その顔を見て、胸の奥が痛んだ。
俺は、あいつのいろんな顔を知っている。
敵を前にしたときの、冷たいほど鋭い目。
隊士たちをからかっているときの、悪戯っぽい笑顔。
俺に怒鳴られたときの、わざとらしく不満げな顔。
そして、誰も見ていないところで、ほんの一瞬だけ見せる、年相応の少年みたいな顔。
今のあいつは、そのどれにも当てはまらなかった。
妙に穏やかで。
妙に静かで。
まるで、何かを諦めてしまった人間のようだった。
「……本当に、行くのか」
「行きやす」
「死ぬかもしれねえんだぞ」
「そりゃ、戦場ですからねィ」
「帰ってこられねえかもしれねえんだぞ」
「……」
「分かってんのか、総悟」
声が、震えそうになった。
それを誤魔化すように、俺は煙草を取り出した。
だが、火をつける気にはなれなかった。
指先が、妙に冷えていた。
「お前、まだ十八だろ」
「もう十八ですぜ」
「同じことだ」
「違いやすねィ」
「総悟」
「土方さん」
あいつが、俺の言葉を遮った。
いつもなら、名前を呼ぶだけで苛立つような男だ。
なのに今夜は、その声を聞くだけで、どうしようもなく縋りたくなった。
「俺が行かなきゃ、ほかの奴らが死ぬんでしょう」
総悟は庭へ視線を戻した。
「俺が行った方が一番、成功率が高い。近藤さんも、あんたも、そう判断した。……違いやすかィ?」
答えられなかった。
「だったら、行きやすよ」
あいつは、あっさりと言った。
「俺ァ、一番隊隊長ですからねィ。部下を守るのも、仕事のうちでさァ」
「……お前の命だって、その中に入ってんだよ」
「え?」
「お前の命も、守るべきもんのひとつだって言ってんだ!!」
思わず声が大きくなった。
総悟が、目を見開く。
俺は、その顔を見た瞬間、自分が何を言ってしまったのかを理解した。
守るべきもの。
そんな言葉を使ってしまえば、俺の本心が透けてしまう。
俺にとって、お前は。
真選組の一番隊隊長だから大切なんじゃない。
優秀な隊士だから失いたくないんじゃない。
ただ、お前だから。
お前が笑っていることが、息をしていることが、明日も俺の隣にいることが。
それだけが、どうしようもなく大切だった。
「……行くな」
声が漏れた。
情けないほど、弱い声だった。
「頼むから……行くな、総悟」
総悟は何も言わなかった。
俺は、あいつの手首を掴んだ。
強く握りすぎていることは分かっていた。
痛いだろう。
振り払おうと思えば、あいつなら簡単にできる。
それでも、離せなかった。
「俺が何とかする。別の作戦を考える。時間を稼ぐ。近藤さんを説得する。だから……」
言葉が続かなくなった。
別の作戦なんて、本当はない。
成功率が低いことも分かっている。
誰かを代わりに送り込めば、別の人間が犠牲になる可能性が高いことも。
それでも俺は、嘘をついていた。
副長としての判断を曲げてでも。
真選組のために選んだ答えを捨ててでも。
こいつひとりを、自分のもとに置いておきたかった。
「……俺を置いていくな」
ようやく出てきた言葉は、それだった。
総悟の表情が、ゆっくりと変わった。
いつもの薄笑いが消えた。
あいつは、俺の手を見つめていた。
俺が握り締めている、自分の手首を。
「……ずるい人ですねィ」
小さな声だった。
「そんなこと言われたら、俺だって……」
そこで言葉を切って、あいつは笑った。
困ったような、泣きそうな、それでも泣くことだけは絶対にしないような笑顔だった。
「……帰りたくなっちまうじゃねえですかィ」
胸が、ひどく痛んだ。
帰ってきてほしい。
帰りたくなってほしい。
明日も、その次の日も、何年先も。
俺の隣にいてほしい。
だが、あいつが帰るためには、誰かが代わりに危険を引き受けなければならない。
その誰かを、俺は選べなかった。
選べなかったから、あいつを選んでしまった。
俺は、ひどい男だった。
「……総悟」
「はい」
「……愛してる」
初めてだった。
あいつの目を見て、こんなにもはっきりと言えたのは。
普段なら、照れ臭さだの、立場だの、いろんなものを言い訳にして、誤魔化していた言葉だった。
いつか言えばいいと思っていた。
明日でも、来週でも、任務が終わってからでも。
俺たちには、そういう時間がいくらでもあると思っていた。
だが、明日が来る保証なんて、どこにもなかった。
総悟はしばらく黙っていた。
それから、俺の手に自分の手を重ねた。
「……俺もですぜ」
声は、少しだけ掠れていた。
「土方さん」
その呼び方が、どうしようもなく愛おしかった。
俺はあいつを引き寄せ、抱き締めた。
いつもなら、うるせえだの、暑苦しいだの、好き勝手に文句を言う男が、その夜だけは何も言わなかった。
俺の胸元に額を預けて、静かに息をしていた。
腕の中にある体温を、忘れないように。
明日になっても、どこかに残っているように。
俺は、いつまでもあいつを離せなかった。
*
翌朝、空はひどく曇っていた。
夜明けの光は薄く、屯所の屋根も、庭の木々も、すべてが灰色に沈んでいる。
出陣の準備を終えた隊士たちが、正門前に整列していた。
布同士の擦れる音。
馬の鼻息。
刀の鞘が触れ合う、乾いた音。
どれも聞き慣れた音のはずなのに、その日はやけに耳についた。
俺は隊士たちを見渡し、作戦の最終確認を行った。
撤退経路。
合図の時刻。
負傷者の搬送。
各隊の配置。
ひとつずつ、間違いのないように確認していく。
副長として、やるべきことは山ほどあった。
そうしていなければ、余計なことを考えてしまうからだ。
総悟は、列の戦闘に立っていた。
いつもどおりの隊服を身に纏い、腰には愛用の刀を差している。
顔色は悪くない。
足取りにも乱れはない。
俺が知る限り、いつもと何ひとつ変わらない姿だった。
それなのに。
どうしても、目を離せなかった。
あいつの肩。
首筋。
刀の柄に添えられた指先。
そのすべてが、今日を境に見られなくなるかもしれない。
そう考えると、息をするのも苦しかった。
「副長」
総悟が、俺の前に立った。
「何だ」
「そんな顔してると、隊士が不安がりやすぜ」
「……うるせえ」
「おや。図星ですかィ?」
にやりと笑う。
いつもの顔だった。
俺が何度も惚れ直して、何度も腹を立ててきた、あの顔。
その顔を見て、俺は初めて気づいた。
俺はずっと、あいつの帰りを待つことばかり考えていた。
だが、あいつだって怖くないわけがない。
十八歳の少年が、死地へ向かう。
自分が戻れない可能性を理解したうえで、仲間を守るために進もうとしている。
それを、俺は知っているはずだった。
知っていたのに。
自分が失う恐怖ばかりに囚われて、あいつが何を背負っているのか、まともに考えられていなかった。
「……総悟」
「はい」
「無茶はするな」
「無茶をしなきゃいけねえ仕事なんですがねィ」
「……帰ってこい」
それ以上、何も言えなかった。
総悟は一瞬だけ俺を見つめ、それから、ふっと笑った。
「了解」
短い返事だった。
それだけだった。
それなのに、俺はその二文字に縋るしかなかった。
総悟が背を向ける。
隊士たちとともに歩き出す。
その背中が少しずつ遠ざかっていく。
俺は、呼び止めたかった。
今すぐにでも、名前を叫びたかった。
作戦中止だと。
やっぱり行くなと。
そんな命令は出せないと分かっているくせに。
喉の奥までせり上がった言葉を、俺は必死に飲み込んだ。
副長として。
真選組を預かる人間として。
そして、あいつを信じる恋人として。
俺は、その背中を見送った。
最後まで。
見えなくなるまで。
*
戦場は、思っていた以上に静かだった。
敵の本陣を囲む山道には、朝靄が立ち込めていた。
湿った土の匂い。
草木についた朝露。
遠くから聞こえる鳥の声。
そんな、いつもなら穏やかに感じられるものすべてが、その日はひどく不気味に思えた。
俺は指揮所で地図を広げ、各隊からの報告を受けていた。
敵の配置。
増援の動き。
突入部隊の進行状況。
報告が届くたびに、頭の中で作戦を組み直す。
少しでも早く。
少しでも確実に。
あいつが帰ってくるための道を作る。
俺はそればかり考えていた。
「敵の東側部隊、後退を開始!」
「予定どおりだ。二番隊は南側の封鎖を維持。山崎達は負傷者の回収を優先しろ!」
「了解!」
「敵の増援はどうなってる!」
「西側の街道に集結中! あと少しでこちらの部隊と接触します!」
「三番隊を回せ。正面衝突は避けろ。時間を稼げばいい!」
指示を飛ばしながら、俺は通信機を握り締めていた。
一番隊からの連絡を待っていた。
まだか。
まだ来ねえのか。
突入開始から、どれだけ経った。
作戦書に記された予定時刻を、何度も確認する。
予定どおりなら、もうすぐ敵の指揮系統が崩れるはずだった。
そうすれば、こちらは撤退に移れる。
総悟も。
あいつも、帰ってこられるはずだった。
『こちら一番隊。敵本陣への侵入を確認』
通信機から、聞き慣れた声が流れた。
その瞬間、全身の力が抜けそうになった。
「こちら副長。状況を報告しろ」
『敵の警備は想定より少ねえですねィ。こりゃ、思ったより簡単に片付きそうでさァ』
「油断するな。敵の増援が西側から来てる。予定より早い。指揮系統を崩したら、すぐに撤退しろ」
『了解』
「総悟」
『なんでィ』
「……必ず帰ってこい」
一瞬、通信機の向こうが静かになった。
雑音だけが、耳に触れる。
やがて。
『……分かってますって』
あいつは笑った。
その笑い声を聞いたのが、最後だった。
次の瞬間、通信機から激しい雑音が響いた。
「総悟? おい、総悟!」
返事はない。
「一番隊、応答しろ! こちら副長、聞こえているか!」
雑音。
遠くで何かが崩れるような音。
そして、途切れた通信。
「……クソッ!」
俺は勢いよく机に拳を叩きつけた。
すぐにでも、現場へ向かいたかった。
刀を掴み、走り出したかった。
あいつのもとへ。
だが、指揮所には、まだ撤退を終えていない隊士たちがいた。
敵の増援が迫っている。
こちらの部隊を無事に帰すためには、俺が指揮を執り続けなければならない。
分かっていた。
分かっている。
それでも、俺の目は通信機から離れなかった。
「副長! 第二隊が敵と接触しました!」
「四番隊に援護を回せ! 退路を確保しろ!」
「一番隊の状況は……!」
「通信を繋げろ!! 何としてでも繋げろ!!」
怒鳴りながら、俺は自分の手が震えていることに気づいた。
怖かった。
たまらなく怖かった。
敵の刃も、銃弾も、戦場の死臭も、今まで何度だってくぐり抜けてきた。
だが、通信機の向こうにいるはずの恋人の声が聞こえない。
たったそれだけのことが、俺をここまで無力にするとは思わなかった。
俺は副長だ。
誰よりも冷静でいなければならない。
隊士たちが不安にならないように。
判断を誤らないように。
誰ひとり、無駄に死なせないように。
だから、俺は立っていた。
震える指で地図を押さえながら。
喉の奥に込み上げるものを飲み込みながら。
ただ、あいつからの連絡を待ち続けた。
*
作戦開始から、三時間が経過していた。
敵の指揮系統は、完全に崩壊した。
各部隊は順次撤退を開始し、負傷者の回収も進んでいた。
想定外の交戦はあったものの、全体としては成功だった。
真選組の被害は、最小限。
俺が望んだ結果だった。
総悟が望んだ結果でも、あったはずだ。
それなのに。
「副長! 一番隊、撤退完了!」
「二番隊も完了しました!」
「観察、負傷者全員の回収を確認!」
次々と報告が届く。
ひとつ、またひとつと、隊士たちが帰ってくる。
血に汚れた顔。
泥にまみれた隊服。
疲れ切った表情。
それでも、彼らは生きていた。
生きて、帰ってきた。
俺が守らなければならなかった人間たちが、ここにいる。
なのに。
「……総悟は」
俺は、誰にともなく呟いた。
「総悟の撤退は、まだか」
返事がなかった。
嫌な沈黙が、指揮所を満たした。
やがて、伝令の隊士が、青ざめた顔でこちらへ駆け寄ってきた。
「副長……」
「何だ」
「敵本陣の制圧を確認しました。ですが、沖田隊長の生存は……確認できておりません」
「……は?」
意味が分からなかった。
いや、分かっていた。
分かっていたからこそ、頭が理解することを拒んでいた。
「もう一度言え」
「沖田隊長の生存が、確認できておりません!」
「ふざけんな」
声が、低く落ちた。
「確認できてねえってのは、どういう意味だ。全員の撤退経路は確保したはずだ。敵の増援は抑えた。援護部隊も配置した。……何でだ」
「……」
「何で、総悟が帰ってこねえんだよ」
誰も答えなかった。
俺は刀を掴み、指揮所を飛び出した。
「副長!!」
背後から声がする。
止める声。
引き留める声。
だが、そんなものは聞こえなかった。
もう、すべての部隊が撤退している。
俺がここに残る理由はない。
守るべき隊士たちは、全員帰ってきた。
だったら。
今度こそ、俺があいつを迎えに行く番だった。
*
敵の本陣は、ひどい有様だった。
建物の一部は崩れ、壁には刀傷が刻まれていた。踏み荒らされた地面には、折れた矢や砕けた木片が散乱している。
朝靄はすでに晴れていた。
空は、何事もなかったかのように青かった。
それが、ひどく腹立たしかった。
これだけのことが起きたというのに。
これだけの命が、危険に晒されたというのに。
空は、いつもどおりそこにある。
風は吹き、木々は揺れ、遠くでは鳥が鳴いている。
まるで、ここで何があったのか、誰ひとり覚えていないかのように。
「総悟!!」
叫んだ。
返事はない。
「おい!! 総悟!!」
瓦礫を越え、倒れた柱の向こうを覗き込む。
どこにもいない。
崩れた建物の陰。
敵兵が倒れている場所。
血の跡が続く細い通路。
どこを探しても、あいつの姿はなかった。
「……おい、ふざけんなよ」
声が震えた。
「総悟、返事しろ……」
足元に、見覚えのあるものが落ちていた。
刀の鞘だった。
傷だらけで、端が欠けている。
俺は膝をつき、それを拾い上げた。
何度も見た鞘だった。
あいつがいつも腰に差していたもの。
任務の前に、手入れを怠るなと叱ったこともある。
俺の部屋で昼寝をしていたあいつを叩き起こしたとき、畳に放り出されていたこともあった。
そんな、どこにでもあるものだった。
それなのに、手の中でひどく重く感じた。
「……総悟」
もう一度、名前を呼ぶ。
今度は、怒鳴らなかった。
ただ、呼んだ。
帰ってこいと。
ここにいるなら返事をしろと。
いつものように、ふざけた声で笑ってみせろと。
だが、返事はなかった。
俺は、その場に立ち尽くした。
どれくらい、そうしていたのか分からない。
やがて、後ろから追いついてきた隊士たちが、静かに俺の名を呼んだ。
「副長……」
「……探せ」
「はい」
「周辺を全部だ。山道も、川沿いも、街道も。敵の陣地を隅から隅まで調べろ。負傷して動けねえ可能性もある。誰かに連れ去られた可能性だってある。……何でもいい。何か見つけろ」
「……承知しました」
隊士たちが散っていく。
俺は手の中の鞘を見下ろした。
これだけは、見つかった。
あいつが、ここにいたという証拠。
あいつが、確かにこの場所で戦っていたという証拠。
そして。
ここから先へ、あいつがどこへ行ったのか。
誰も知らないという証拠だった。
*
その夜、屯所に戻った俺を待っていたのは、報告書だった。
戦闘の経過。
敵の損害。
真選組の被害。
負傷者の一覧。
そして、最後の一行。
一番隊隊長、沖田総悟。行方不明。
その文字を、俺は何度も読み返した。
行方不明。
死亡ではない。
生存でもない。
ただ、いなくなった。
どこにいるのか分からない。
生きているのかも、分からない。
帰ってくるのかも、分からない。
そんな曖昧な言葉ひとつで、あいつの存在が片付けられてしまう。
俺は、報告書を机に置いた。
いつもなら、すぐに次の指示を出していたはずだった。
捜索の範囲を広げる。
関係各所へ連絡を回す。
必要な人員を確保する。
やるべきことはいくらでもある。
それなのに、指先が動かなかった。
目の前の文字が、滲んで見えた。
俺は目を閉じた。
瞼の裏に、あいつの顔が浮かぶ。
縁側で月を眺めていた横顔。
俺の手を見つめていた赤い瞳。
出陣前に浮かべた、あの生意気な笑顔。
──了解。
あの声が、耳の奥で何度も繰り返される。
俺は、あいつを送り出した。
あいつが帰ってくることを信じて。
いや。
本当は、信じてなんかいなかったのかもしれない。
成功率が高いから。
ほかの隊士を守るためだから。
副長として、それが正しい判断だから。
そんな言葉を並べて、自分を納得させていただけだった。
心のどこかでは、分かっていた。
あいつが帰ってこない可能性を。
それでも、俺は送り出した。
真選組を守るために。
総悟が守ろうとしたものを、守り抜くために。
だから、作戦は成功した。
隊士たちは帰ってきた。
誰もが、俺の判断を正しいと言った。
近藤さんも。
山崎も。
生きて帰ってきた隊士たちも。
誰ひとり、俺を責めなかった。
それが、たまらなく苦しかった。
「……責めろよ」
誰もいない副長室で、俺は呟いた。
「俺のせいだって……言えよ」
机に置かれた報告書を握り潰す。
紙がくしゃりと音を立てた。
「……俺が、行かせたんだ」
俺が、総悟を死地へ送り出した。
俺が、帰ってこいと言いながら、帰ってこられる保証のない場所へ送り出した。
俺が、あいつの命よりも、真選組の命を優先した。
副長としては、正しい判断だった。
だが、恋人としての俺は。
土方十四郎という、ただの男は。
そんな判断を、どうしても正しいと思えなかった。
俺は引き出しを開けた。
中には、小さな簪が入っていた。
以前、総悟がふざけて買ってきたものだった。
俺の髪に挿してやると言い張り、似合わねえと笑われて、結局そのまま放置されたもの。
くだらねえ。
本当に、くだらねえものだった。
あいつは、こんなものを買うために、どこかの店先で足を止めたのだろうか。
どんな顔で選んだのだろうか。
俺が怒るのを想像して、笑っていたのだろうか。
そんなことを考えるだけで、胸の奥がひどく痛んだ。
俺は簪を握り締めた。
掌に、小さな跡がつく。
「……総悟」
名前を呼ぶ。
もう、何度目だろう。
「……帰ってこいよ」
誰もいない部屋に、声が落ちた。
返事はなかった。
*
それから、捜索は何週間も続いた。
近隣の村を回り、街道を調べ、川沿いの土地を探した。
敵の残党を捕らえては尋問し、沖田総悟の行方を知る者がいないか、ひとりずつ確認した。
見つかったのは、焼け焦げた武器や、身元の分からない遺留品ばかりだった。
総悟のものだと断定できるものは、最初に見つかった刀の鞘だけだった。
死体は見つからなかった。
生存の痕跡も見つからなかった。
それでも、俺は捜索を打ち切らなかった。
打ち切れるはずがなかった。
あいつが死んだと認めるためのものが、何ひとつなかったからだ。
やがて、隊士たちは少しずつ日常を取り戻していった。
朝になれば稽古の声が響き、昼になれば食堂が騒がしくなる。廊下では誰かが走り、近藤さんはよくもまあ飽きずストーカーをし、山崎は相変わらず屯所中を走り回っている。
真選組は、元に戻りつつあった。
総悟のいない真選組に。
一番隊には新しい隊長が置かれた。
あいつが使っていた部屋も、少しずつ片付けられていった。
だが、俺は最後まで、あの部屋の前を通ることができなかった。
通るたびに、思い出してしまうからだ。
夜更けに、勝手に俺の部屋へ入り込んできたこと。
俺の布団を占領して、追い出そうとしても動かなかったこと。
仕事の書類を覗き込んでは、くだらねえ嫌味を飛ばしてきたこと。
俺が疲れていると、何も言わずに隣へ座っていたこと。
そんな、何でもない日々を。
あいつがいたことを。
あいつが、ここで生きていたことを。
思い出すたびに、俺は少しだけ立ち止まった。
そして、誰にも気づかれないように、深く息を吐いた。
*
季節が変わった。
庭の木々は葉を落とし、やがて新しい芽をつけた。
屯所の屋根に降り積もった雪は、春の陽気に溶けていった。
江戸の町は、今日も変わらず騒がしかった。
誰かが笑い、誰かが怒り、誰かが泣いている。
俺たちが命を懸けて守った日常が、そこにはあった。
総悟が守ろうとした明日が。
俺は、副長として、その明日を守り続けた。
隊士たちを鍛え、任務をこなし、近藤さんを支え、江戸の町を見回った。
以前と同じように。
何も変わらないように。
ただひとつだけ。
俺は、もう二度と、誰かに簡単に「帰ってこい」と言えなくなった。
帰ってこいと願うことと、帰ってこられる場所を守ることは、同じではない。
どれほど願っても。
どれほど祈っても。
その言葉が届かない場所がある。
あの日、俺はそれを知った。
そして、今でも時々、夢を見る。
縁側で月を眺める総悟の隣に座り、くだらねえ話をしている夢。
あいつが俺の煙草を勝手に取り上げて、吸いすぎだと笑う夢。
目が覚めると、部屋は静かだ。
隣には誰もいない。
それでも俺は、しばらく目を閉じたまま、あの夢の続きを探してしまう。
もう一度だけ、あいつの声を聞きたい。
もう一度だけ、あの生意気な顔を見たい。
もう一度だけ。
あの夜に戻れたなら。
俺は、何を犠牲にしてでも、お前を引き留めるだろうか。
それとも、やっぱり同じ判断を下すのだろうか。
隊士たちを守るために。
真選組を守るために。
お前が命を懸けて守ろうとしたものを、守るために。
答えは、今でも出ない。
出ないまま、俺は今日も副長室に座っている。
机の引き出しには、あの簪がある。
あいつの名前が記された報告書も、捨てられずに残っている。
行方不明。
たった四文字。
それだけで、あいつのいない日々が続いていく。
俺は窓の外を眺めた。
夕暮れの空が、ゆっくりと赤く染まっていく。
あの日と、よく似た色だった。
「……総悟」
小さく、名前を呼んだ。
もう、返事がないことには慣れてしまった。
慣れてしまったことが、何よりも苦しかった。
「……遅えんだよ、お前は」
いつものように、文句を言う。
いつものように、返事を待つ。
そして、いつものように、何も返ってこないことを知る。
それでも、俺は待つ。
あいつが帰ってくる場所を、なくしたくないから。
あいつが帰ってきたとき、何事もなかったように迎えてやりたいから。
副長としての俺は、明日も真選組を守る。
総悟が命を懸けて守ったものを、ひとつずつ繋いでいく。
恋人としての俺は、明日もあいつを待っている。
いつか帰ってきたあいつに、言ってやるために。
遅えんだよ。
どこをほっつき歩いてやがった。
どれだけ心配させれば気が済むんだ。
……もう二度と、俺を置いていくな。
言いたいことは、いくらでもあった。
怒鳴りたいことも。
謝りたいことも。
伝えたかったことも。
あの日、伝えきれなかった言葉が、胸の奥にいくつも残っている。
けれど、今はまだ。
そのどれも、届かない。
俺は引き出しを開け、簪を取り出した。
指先で、そっと撫でる。
小さな傷も、色褪せた飾りも、何ひとつ変わっていない。
変わってしまったのは、俺たちの時間だけだった。
あいつがいなくなった日から、俺の中の何かは、ずっとあの戦場に取り残されている。
それでも、朝は来る。
明日は来る。
俺たちが守った世界は、何事もなかったように続いていく。
だから俺も、生きていく。
副長として。
あいつが守った真選組を、守り続けるために。
そして、いつか帰ってくるかもしれない恋人のために。
たとえ、どれだけ時間が過ぎても。
たとえ、二度と会えないのだとしても。
俺は、あいつが帰ってくる場所を守り続ける。
それが、あの日、俺が選んだものへの責任だから。
それが、あいつの命を天秤にかけた俺にできる、たったひとつの償いだから。
窓の外で、風が吹いた。
庭の木々が揺れ、葉擦れの音が静かに響く。
その音に混じって、ふと、あいつの笑い声が聞こえた気がした。
俺は顔を上げる。
誰もいない。
それでも、ほんの一瞬だけ。
あの生意気な声が、確かに聞こえた気がした。
「……総悟」
呼んだ声は、誰にも届かない。
それでも俺は、もう一度だけ呼んだ。
いつか、本当に届く日が来ることを願って。
いつか、あいつが帰ってくることを願って。
そして、もう二度と。
あいつをひとりで死地へ送り出さなくて済む日が来ることを願って。
真選組副長、土方十四郎。
作戦成功。隊士の被害、最小限。
一番隊隊長、沖田総悟。
──行方不明。
それが、公式に残された記録のすべてだった。
けれど、誰も知らない。
副長室の引き出しに、今も小さな簪がしまわれていることを。
夜更け、誰もいない縁側で、俺が時々、隣に誰かがいるかのように座っていることを。
そして。
あの日から一度も。
俺が、あいつの名前を呼ぶのをやめられずにいることを。
──明日も、俺は待っている。
お前が帰ってくる、その日まで。
コメント
1件
読み終えました……。 すごく、重くて、せつなくて、胸がぎゅってなったよ。 特に、土方さんが「帰ってこい」って何度も願うところと、最後の簪のくだりが、もう…。 たった一言「了解」で笑った総悟の顔が、ずっと頭から離れない。 黒瀬💫さんの書く“別れ”の温度、すごく丁寧で、心に静かに沁みていきました。 尊いです。ありがとうございます🥀🖤