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(ああ言って雅輝に助けを求めたが、5分以内に戻ることを前提に行動しなければ。まずは笹川さんに逢ったら、この手帳を押しつけながら適当にあしらって、さっさと逃げるが勝ちだろう)
古ビルの扉を開けて、突き当りを右に曲がりながら、橋本はそんなことをぼんやりと考えた。
「よぉ!」
「くっ!?」
人の気配がなかったところから話しかけられたため、躰をぎゅっと竦ませて反応した橋本を、笹川は口元に微笑を湛えながら見下ろした。
「時間ピッタリで登場してくれたことに感謝すべきなんだろうが、いやはや残念」
「……何がですか?」
思いっきり訝しむ橋本に、満面の笑みで微笑みかける笹川が不気味すぎて怖かった。
「1秒でも遅れたら、難癖つけてやろうと思っていたのになぁ」
「たとえ遅れなかったとしても、あれこれ難癖つけるくせに」
言いながら、目の前に黒い手帳を差し出した。すぐさまそれを受け取り、しげしげと眺める。
「なんだろうなぁ。預けたときよりも、なぜだか綺麗になってるのは気のせいか?」
「気のせいだろ。用事は済んだから、帰らせてもらうぞ」
(――俺からの預かり物を大事にした雅輝が、丹精込めて毎日磨いていたに違いない……)
長居は無用と言わんばかりに、橋本が踵を返した瞬間、躰を叩かれる衝撃を受けた。叩かれたというよりは背中の中央辺りを殴られた感じに近いそれに、橋本の足元がぐらりとふらつく。
何をするんだと文句を言う前に、頬の横を拳が掠めていった。慌てて躰をのけ反らせて攻撃を避けつつ、素早く背後に退いて距離をとる。
「いい反射神経してるなぁ。そのファイティングポーズは、ボクシング経験者といったところだろ。戦う意思があると思っていい感じか?」
橋本を見据えながら、同じように拳を顎の前近くに置き、脇を締めて目線を前に向けるポージングをとった笹川に、嫌な感じを覚えた。
「……アンタもボクシング経験者なのか?」
次の攻撃をいつ受けてもいいように、下半身に重心を落として、笹川の顔を睨みながら警戒した。すると顎近くにある右拳にキスをするという、余裕のある素振りを見せる。
「こんな職業なんでね、ボクシングだけじゃない。攻撃系の武道やスポーツに関して、ひと通りこなしていると言ったら、わかりやすいだろう?」
「そりゃどうも!」
「相手の手の内が分かったら、他のものは封印して合わせる。これが俺の流儀だ」
「ちょっと待ってくれ。俺はいたいけな一般人で、何もしていないだろ。こんなことをされる覚えはない」
蛍光灯の明かりが煌々と照らされるフロアーを、橋本は視線だけでさりげなく見渡した。
そこはわりと狭い造りで柱が何本もあり、入り組んだ感じの場所だった。しかも笹川の背後に、さっき通ってきた通路がある。
まんまと出入口を塞がれて、帰れない状況にされたことに苛立ちが募っていく。反射的に攻撃をかわしたとはいえ、通路側に避けなかったさっきの行動を、反省してもしきれない。
「何を言い出すかと思ったら、橋本さんは一般人じゃねぇだろ。その身に、濃ゆい極道の血がしっかり流れているというのになぁ」
「流れていても関係ない。俺はただのハイヤーの運転手だ!」
先手必勝とばかりに床を蹴って駆け出し、笹川に向かって右ストレートをお見舞する。
「へぇ、なかなかいいモノを繰り出してきたのな。ゾクゾクするぜ」
言いながら難なくかわす笹川に、自分の攻撃がまったく効かないことが立証されてしまった。
「勢いまかせに、そのまま突っ込んでやっただけだ。攻撃されて嬉しそうに笑うなんて、ドMなのかよ」
さっと右拳を引っ込めながら、攻撃しやすい射程距離まで後退した。通路を確保するまでの辛抱だと気合いを入れて、その場で左右に軽くステップする。
「自己紹介したはずだがな、俺はドSだって、よっ!」
風をきる音と共に笹川の拳が、顔面に向かって放たれた。最初は小さな拳だったのに、近づくにつれてギョッとするくらいに大きくなり、轟音と相まって橋本に襲いかかった。