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みおん
2,941
みみ/新垢
世界が白く、そしてほんの少しだけ青い光に包まれる頃、僕の日常は始まる。
人間たちが「午前六時」と呼ぶその時間は、僕にとって世界の中心が動き出す合図だ。
まず最初に行うべきは、大きなベッドの上で眠っている「同居人」の生存確認である。彼は僕のごはんを管理する重要な役割を担っているため、毎朝の健康チェックは欠かせない。
僕は静かにベッドの縁に飛び乗る。足音を立ててはいけない。猫としてのプライドが、音を立てるステップを許さないからだ。彼の枕元まで歩み寄り、顔のすぐ近くでフンフンと鼻を鳴らす。まだ眠っているようだ。規則正しい寝息が聞こえる。
「人間の睡眠時間は長すぎる」
いつもそう思う。僕たちなら一日に何度も寝て、何度も起きる。それが自然の摂理というものだ。しかし、彼は一度眠ると何時間も起きない。これでは外の敵に襲われたらひとたまりもないではないか。やはり、僕が守ってあげなければならない。
僕は少しだけ前足を伸ばし、彼の頬を柔らかい肉球で小突いた。爪は出さない。これは親愛の情の証であり、同時に「僕の腹時計が鳴っている」という警告でもある。
「うーん……あと五分……」
彼は毛布を頭から被ろうとする。毎朝のやり取りだ。ここで諦めては、僕の朝食が後ろに倒れ込んでしまう。僕は次の作戦に移行する。体重のすべてを彼の胸の上に預けるのだ。僕の体重はわずか四キログラムほどだが、ピンポイントで乗ることで、人間にとってはなかなかの圧迫感になるはずだ。
「ぐふっ……お前、重いよ……」
効果は抜群だ。彼はついに目を開け、眩しそうに僕を見た。
「おはよう、コタロー。わかったよ、起きるから」
彼は僕の名前を呼ぶ。コタロー。それが僕の認識票だ。彼がその言葉を発するとき、高い確率でおいしいものが皿に注がれる。
彼はよろよろと立ち上がり、台所へと向かう。僕は彼の足元をすり抜けるようにして、先導する。しっぽをピンと垂直に立て、先端だけを少し曲げる。これは「とても気分が良い」のサインだ。
台所の棚が開く音がする。あの銀色の袋が擦れ合う「カサカサ」という音こそ、この世で最も美しい旋律の一つだ。彼は陶器の白い皿を持ち上げ、袋から茶色い粒を流し込む。
「カラカラカラ、トントン」
完璧なリズムだ。
皿が床に置かれた瞬間、僕は一切の迷いを捨てて頭を突っ込んだ。
カリカリ、カリカリ、サクサク。
口の中で弾ける香ばしい魚の匂い。これだ。この瞬間のために、僕は毎朝彼を起こすのだ。急いで食べると喉に詰まるから、ゆっくり食べなさいと彼は言うが、本能がそれを許さない。一粒残さず平らげることが、作戦の完全なる成功を意味する。
ふう、と息をついて皿を見つめる。綺麗に輝く白い陶器。今日も完璧な仕事をした。
彼はそれを見て満足そうに笑い、自分のための黒い苦い飲み物を用意し始めた。あんなにおいを放つ水をよく飲めるものだと感心するが、まあ、人間の趣味に口を出すつもりはない。
お腹が満たされたら、次は身だしなみだ。台所の隅にある日向へと移動する。
前足を少し舐めて湿らせ、それで顔を丁寧に拭う。耳の後ろ、目の周り、鼻の頭。一箇所も抜かりなく。続いて、背中を丸めて後ろ足を高く上げ、太ももの毛並みを整える。毛並みを美しく保つことは、健康な猫の義務である。
外では小鳥たちがチュンチュンと鳴き始めた。
さあ、今日も僕の長い一日が始まる。
午前九時。同居人は四角い箱と書類をカバンに詰め込み、「行ってきます」と言って大きな扉の向こうへ消えていった。これでこの家は、完全に僕の統治下に入る。
僕の最初の任務は、リビングにある一番大きな窓の警備だ。ここには彼が設置してくれた「キャットタワー」という名の監視塔がある。その最上階のクッションに登ると、庭の隅々まで見渡すことができる。
外はすっかり明るくなり、太陽の光がガラス窓を通して床を暖めている。
僕はクッションの上に座り、じっと外を観察する。
庭の生垣の隙間に、何かが動く気配を感じた。
耳がピクリとそちらを向く。瞳孔がわずかに散開し、ターゲットをロックオンする。
スズメだ。三羽のスズメが、地面に落ちている何かをついばんでいる。
彼らは非常に警戒心が強いが、僕がガラスの向こうにいることを知っているのか、時折こちらをチラリと見るだけで、逃げようとしない。
「フツツツツ……カカカッ」
喉の奥から奇妙な音が漏れ出る。クラッキングという行為だ。捕まえたいのに捕まえられない、このもどかしさが僕を突き動かす。前足がかすかに震え、お尻が自然と左右に揺れる。今すぐ窓を突き破って飛びかかりたい衝動に駆られるが、僕は大人の猫だ。ガラスという見えない壁の存在を学習している。
しばらくすると、スズメたちは何かに驚いたように一斉に飛び立っていった。
空を見上げると、一羽の大きな黒い影が横切る。
カラスだ。あいつは危険だ。僕よりも体が大きく、鳴き声も品がない。
「カー、カー」
屋根の上に止まったカラスが、僕を見下ろすように鳴く。僕は体を低くし、耳を横に寝かせる。「イカ耳」の状態だ。僕はあいつが気に入らない。この家の領空を侵犯している。しかし、直接戦うにはリスクが高すぎるため、窓越しに鋭い視線を送るに留める。視線で殺せるなら、あのカラスは今頃羽毛の塊になっているはずだ。
やがてカラスも退屈したのか、どこかへ飛び去った。
空の安全が確認されたところで、急に緊張の糸が切れ、激しい眠気が襲ってきた。
猫の仕事は体力を消耗する。一時間の監視は、人間の八時間に匹敵する(と僕は思っている)。
ちょうど、キャットタワーのすぐ下のフローリングに、四角い光のじゅうたんが敷かれていた。太陽が移動し、床を暖めているのだ。
僕はタワーから静かに降り、その光の四角形の中に身を横たえた。
床から伝わるじんわりとした温かさが、僕の毛皮を通して皮膚へと染み込んでいく。
体をできるだけ長く伸ばす。前足を前に、後ろ足を後ろに。まるで一本の紐のようになった気分だ。
目を閉じると、太陽の赤い光がまぶたの裏に透けて見える。
世界は静かで、平和だ。僕がしっかり警備しているからに他ならない。
遠くで車の走る音が聞こえる。近所の犬が吠える声がする。
すべては心地よい子守唄となり、僕は深い眠りの底へと落ちていっていった。
目が覚めると、部屋の光の形が変わっていた。丸くなったり、細くなったりしながら、光は部屋の壁へと移動しつつある。
時計の針(というものを人間は気にするが)は、おそらく午後二時を回ったところだろう。
お腹はそれほど空いていないが、少し退屈してきた。
家の中のパトロールを開始することにする。
リビングを出て、長い廊下を歩く。
フローリングのひんやりとした感触が足の裏に心地よい。
突き当たりにある同居人の寝室のドアが、少しだけ開いているのを見つけた。数センチの隙間。これは僕に対する「入っても良い」という招待状に違いない。
前足を使って、器用にドアを押し開ける。
部屋の中は、同居人の匂いがいっぱいに満ちている。彼のベッドのシーツ、クローゼット、脱ぎ捨てられた靴下。どれも僕を安心させる匂いだ。
ふと、クローゼットの横に置かれている「巨大な茶色い物体」が目に留まった。
それは、昨日彼が持ち込んできた大きなダンボール箱だ。
中は空っぽのはずだ。なぜなら、彼が中から何か黒い機械を取り出して、箱だけをここに放置したのを僕は見ているからだ。
ダンボール箱。それは僕たち猫族にとって、宇宙船であり、難攻不落の城であり、最高の寝床である。
箱のフチは僕の頭よりも高い位置にある。
僕は少し腰を落とし、狙いを定めて跳躍した。
「ストン」
見事に箱の中へと着地する。
中は狭く、四方が茶色い壁に囲まれている。素晴らしい。この適度な圧迫感こそが、全宇宙の猫を虜にする秘密だ。外の世界の危険から完全に遮断された、僕だけの秘密基地。
箱の底を前足でゴシゴシと引っ掻いてみる。
「ガリガリ、シャカシャカ」
いい音が響く。爪の引っかかり具合も最高だ。ここで少し爪を研いでおこう。背中を伸ばし、ダンボールの壁に爪を立てて上下に動かす。自分の匂いが箱に染み付いていくのがわかる。これでこの箱は名実ともに僕の領土となった。
ひとしきり満足した後、箱の隅で丸くなってみる。
少し紙の匂いがするが、それも悪くない。
ここでしばらく過ごそうかと思ったその時、リビングの方から「カサッ」という微かな音が聞こえた。
耳が即座に反応する。
何かがいる。同居人が帰ってくる時間には早すぎる。
僕は箱のフチから目だけを出し、廊下の様子を窺った。
静かに、しかし確実に、リビングのカーテンが揺れるような音が聞こえる。
僕は箱から音を立てずに飛び降り、忍び足で廊下を進んだ。体を極限まで低くし、お腹が床に擦れるほどにする。匍匐前進だ。
リビングの入り口から中を覗き込む。
そこには、恐ろしい怪物がいた。
緑色の長い体をくねらせ、時折「ブーン」という低い唸り声を上げている。
それは、同居人が「ロボット掃除機」と呼んでいる、丸くて平らなアイツだ。
普段は部屋の隅でおとなしくしているくせに、特定の時間になると突然動き出し、部屋中のゴミを貪り食う大食漢だ。しかも、僕の存在を完全に無視して、僕の足元まで突進してくる傲慢な性格をしている。
アイツが僕のキャットタワーに向かって前進してくる。
「ジジジ……カツン」
タワーの脚にぶつかり、方向転換する。その動きは予測不能だ。
僕はソファの陰に隠れ、アイツの動向を監視する。
「こちらを向いた!」
アイツがソファの方へと方向を変えた。まっすぐ僕の隠れ家に向かってくる。
僕は一歩、後ろに下がった。
アイツは容赦なく近づいてくる。あの丸い体の下には、すべてのものを吸い込む暗黒の口があることを僕は知っている。
「シャーーーッ!」
僕はついに我慢できず、ソファの陰から飛び出してアイツに向かって威嚇の声を上げた。毛を逆立て、しっぽをタヌキのように太くする。体を大きく見せるための、猫族に伝わる秘伝のポーズだ。
しかし、アイツには感情がない。僕の魂の威嚇を完全に無視し、そのままソファの脚に衝突した。
「ゴン」
そして、何事もなかったかのように再び向きを変え、今度はテレビの裏へと去っていった。
「ふん、僕の威嚇に恐れをなして逃げたな」
僕はそう解釈することにした。勝利の余韻に浸りながら、逆立った毛を落ち着かせるために、再び念入りな毛づくろいを始めるのだった。
午後六時。窓の外は急速にオレンジ色から紫色のグラデーションへと変化し、街灯がぽつぽつと灯り始めた。
部屋の中はすっかり薄暗くなり、少し肌寒さを感じる。
僕は玄関の扉が一番よく見える、リビングのラグの上で座って待っていた。
そろそろ、あの一日のハイライトが訪れる時間だ。
「カチャリ」
鍵が回る音が静まり返った家に響く。
僕は立ち上がり、玄関へとトコトコと歩み寄る。
「ギィ」とドアが開き、大きなカバンを持った同居人が姿を現した。
「ただいま、コタロー。お留守番偉かったね」
彼の声は少し疲れているように聞こえるが、僕の姿を見るといつも一瞬で柔らかくなる。
僕は彼の足元に駆け寄り、ふくらはぎに自分の頭をグイグイと押し付けた。
「おかえり。寂しかったわけじゃないぞ。これは僕の匂いをつけて、僕の所有物であることを再確認しているだけだ」
心の中でそう言い訳しながらも、しっぽは嬉しさのあまり激しく左右に振れている。彼はカバンを置き、床にしゃがみ込んで僕の頭や顎の下を優しく撫でてくれた。
「ゴロゴロゴロゴロ……」
喉の奥から、コントロールできない音が漏れ出す。彼の指の動きは絶妙だ。一番痒いところ、自分では届かない耳の付け根のあたりを、的確に爪の先で掻いてくれる。僕は目を細め、完全に彼の愛撫に身を委ねた。
しかし、僕にはもう一つの大きな目的がある。
撫でられる快楽を十分に味わった後、僕はわざと彼の手からすり抜け、台所の冷蔵庫の前へと移動した。
そして、彼をじっと見つめ、「ニャーオ」と少し高めの声で鳴いた。
これは「通常の食事」を求める鳴き声ではない。
「特別なご褒美」を要求するときの、僕の勝負の声だ。
彼は僕の意図をすぐに察した。
「あ、やっぱりそれ? 今日も頑張ったから、一本だけね」
彼は冷蔵庫の横にある引き出しを開けた。そこには、全猫類を狂わせる魔法のアイテムが保管されている。細長い、ピンク色のパッケージ。そう、「ちゅーる」だ。
彼がその袋を手に持った瞬間、僕の理性は消し飛んだ。
「ニャー! ニャー!」
声を上げながら、彼の周りをぐるぐると回り、後ろ足だけで立ち上がって袋に手を伸ばそうとする。早く、早くその封を切ってくれ。
「はいはい、落ち着いて。お座り」
彼が袋の端をピッと破る。中から、ピンク色のトロリとしたペーストが顔を出した。魚の、濃厚で、暴力的とも言えるほどに魅力的な香りが鼻腔を突き抜ける。
僕は彼の前に座り、差し出された袋の先端に舌を伸ばした。
レロレロ、レロレロ。
うまい。美味すぎる。この世にこれ以上の食べ物が存在するだろうか。
口の中に広がる至高の味わいに、目をつぶって集中する。彼は僕が食べやすいように、下から少しずつペーストを押し出してくれる。
袋がだんだん細くなり、ついに最後の一滴が僕の舌に吸い込まれた。
彼は袋を丸めてゴミ箱に捨てる。
僕は名残惜しそうに、自分の口の周りを何度も舐めた。まだ少し匂いが残っている。
「おいしかった? じゃあ、夜ご飯までちょっと待ってね」
彼はそう言って、自分の着替えのために奥の部屋へと向かった。
ご褒美の儀式が終わり、僕は大満足でリビングのソファへと飛び乗った。
お腹も心も満たされ、体中が幸福感で満たされている。
人間と暮らすというのは、悪くない。
いや、むしろ僕がこの家を選んであげたのだから、これくらいのサービスは当然と言える。
ソファのクッションに顎を乗せ、部屋の中を眺める。
同居人が戻ってきて、部屋に明かりが灯り、テレビの音が流れ始めた。
僕の日常に、再び温かい賑やかさが戻ってきた。
第五章:夜の運動会と静寂の王国
午後十時。同居人はお風呂に入り、あとは寝るだけの状態になっている。
しかし、僕の体の中では、昼間の長い睡眠によって蓄えられたエネルギーが、今まさに限界まで満ちようとしていた。
猫の本能が、闇の訪れとともに目覚める。
僕たちの祖先は、夜に狩りをする高貴なハンターだったのだ。
突然、理由もなく体が熱くなる。
目の前にある何気ないラグの端が、まるで動く獲物のように見えてくる。
僕は低く身を構え、お尻をフリフリと激しく振った。
「ダダダダダッ!」
次の瞬間、僕は自分でも制御できないほどの猛スピードでリビングを駆け抜けた。
ソファを蹴り、壁を蹴り、キャットタワーの最上階まで一気に駆け上がる。
「ニャーーーオ!」
大声で叫びながら、今度はタワーから飛び降り、廊下の向こうへと滑り込む。フローリングで足が空回りし、ドリフトしながら寝室へと突入する。
いわゆる「深夜の運動会(夜のテンション)」の開催だ。
「コタロー! 夜中に暴れないの! 下の人に迷惑でしょ!」
寝室のベッドから同居人の怒声が聞こえるが、今の僕の耳には届かない。僕は目に見えない仮想の敵と戦っているのだ。カーテンの裾に飛びかかり、一人でプロレスを繰り広げる。クッションの下に潜り込み、激しく体をくねらせる。
約十分間。僕は家の中を縦横無尽に走り回り、すべての敵を駆逐した。
ハァハァと荒い息を吐きながら、リビングの真ん中でピタリと動きを止める。
体内のエネルギーが綺麗に消費され、心地よい疲労感が広がっていく。
「ふう、今回の狩りも大収穫だったな」
何もない空間に向かってフンと鼻を鳴らし、何事もなかったかのようにすました顔で歩き出す。毛並みが少し乱れていたので、座ってペロペロと整える。
同居人はベッドの中で呆れたようにため息をつき、「もう寝るよ」と言って部屋の電気を消した。
家の中が、完全な暗闇と静寂に包まれる。
しかし、僕たち猫の目は、この暗闇の中でもはっきりと世界を捉えることができる。
わずかな光を増幅させ、昼間よりもむしろ鮮明に周囲の輪郭を映し出すのだ。
僕は静かに寝室へと向かった。
彼のベッドの横まで行き、軽くジャンプして布団の上に飛び乗る。
彼はすでに目を閉じ、深い眠りに入りかけている。
僕は彼の足元のあたり、ちょうど掛け布団が少しくぼんでいる場所に、自分の体を丸めて収めた。
彼の体温が布団を通して伝わってきて、とても温かい。
僕がここにいることで、彼も安心して眠ることができるだろう。夜の魔物から彼を守るのが、僕の最後の任務だ。
「ゴロゴロ……」
小さな音を立てながら、僕もゆっくりと目を閉じる。
朝のカリカリ、窓辺の鳥、ダンボールの城、ロボット掃除機との戦い、そしてちゅーるの味。
今日もたくさんの出来事があった。
明日もきっと、同じように平和で、少しだけ刺激的な一日が待っているはずだ。
彼の規則正しい寝息を聞きながら、僕は穏やかな眠りへと落ちていった。
僕の、そして僕たちの日常は、こうして静かに、しかし確かに続いていく。
その夜、部屋の空気はいつもと違っていた。時計の針は午前二時を回ったところ。静まり返った家の中で、僕は喉の渇きを覚えてベッドから起き上がった。
暗い廊下を通り、台所の電気をつけた瞬間、心臓が跳ね上がった。
冷蔵庫の側面に、それはいた。
サイズは手のひらほどもある。一見すると、誰もが忌み嫌うあの「ゴキブリ」だ。艶のある不気味な漆黒の甲殻、激しく動く長い触角。しかし、何かが決定的に狂っている。
脚が、八本あるのだ。
長く、節くれ立った蜘蛛の脚。それがゴキブリの体から左右に四本ずつ生び、冷蔵庫の垂直な壁をガチガチと音を立てて掴んでいる。
「な、なんだあれは……!」
僕の声に反応したのか、その化け物は触角をピタリとこちらに向けた。次の瞬間、化け物の尾部から、白く細い「糸」が高速で放たれた。
「シュッ!」
糸は僕のすぐ横の壁に命中し、強烈な粘着音を立てて張り付いた。蜘蛛の糸だ。あいつはゴキブリの機動力を持ったまま、蜘蛛の能力を完全に引き継いでいる。
最凶のハイブリッド生物。その瞳が、暗闇の中で妖しく光った。
僕は本能的に後ろへ飛び退き、リビングの扉を閉めた。
戦わなければならない。放置すれば、寝ている間に何をされるかわからない。
武器を探す。通常のゴキブリなら「殺虫スプレー」か「丸めた新聞紙」だが、相手は蜘蛛の能力持ちだ。距離を詰められたら糸で拘束されるか、あるいは毒を牙で注入される危険がある。
僕は物置から、以下の装備を引っ張り出してきた。
• メイン武器:柄の長いクイックルワイパー(リーチで勝つ)
• サブ武器:超強力・凍結殺虫スプレー(動きを止める)
• 防具:厚手の冬用ジャケット、手袋、マスク(隙間をなくす)
装備を整え、再び台所の扉をゆっくりと開ける。
化け物は、すでに冷蔵庫から移動していた。どこへ行った?
視線を激しく動かす。床にはいない。壁にもいない。
上だ。
天井の隅、いつの間にか張り巡らされた「蜘蛛の巣」の中心に、その化け物は鎮座していた。ゴキブリのあの不快なカサカサという動きで、天井の巣の上を自由自在に這い回っている。
「そこかぁぁ!」
僕は凍結スプレーを構え、天井に向けて一気に噴射した。
「シューーーッ!」
マイナス四十度の冷気が化け物を襲う。しかし、化け物は信じられない反応速度を見せた。ゴキブリの「風を察知する尾毛」が冷気の接近を察知したのだ。八本の脚が爆発的な筋力で天井を蹴り、化け物は空間を跳んだ。
しかも、ただ落ちてくるのではない。背中の甲殻が開き、あの忌々しい羽が「ブゥゥゥン!」と不快な重低音を響かせて羽ばたいた。
飛行する八本脚のゴキブリ。それは、人類の想像を超える恐怖の光景だった。
化け物は空中を旋回しながら、僕の顔めがけて突っ込んできた。
「うわあああ!」
僕は夢中でクイックルワイパーを振り回した。ブンッ、と空を切る音が響く。
化け物は空中でありながら、尾部から壁に向けて糸を放ち、その糸を引っ張ることで急激に軌道を曲げた。空中立体機動。蜘蛛の糸を使ったアクロバティックな飛行術だ。
ワイパーの攻撃を避けた化け物は、僕の背後の壁に着地する。
すかさず振り返り、スプレーを構えるが、手元が狂った。
「しまった!」
化け物が放った糸が、僕の持つスプレーのノズルに絡みついていたのだ。糸は驚くほど頑丈で、まるでピアノ線のようだった。引っ張ってもビクともしない。それどころか、化け物は糸を伝って、猛烈なスピードで僕の手元へと這い登ってきた。
カサカサカサカサ!
あの独特の、脳をかきむしるような足音が迫る。
僕はスプレーを床に投げ捨て、クイックルワイパーを両手で強く握りしめた。
チャンスは一度だけ。化け物が糸を離し、僕に飛びかかってくるその瞬間を狙うしかない。
化け物が床を蹴った。
鋭い牙が剥き出しになり、そこから怪しく光る毒液が滴り落ちている。
「これで、終わりだぁぁ!」
僕は野球のバッターのように、クイックルワイパーを全力でフルスイングした。
「バキィィン!」
ワイパーのプラスチックのヘッド部分が、空中の化け物の胴体に完璧にクリーンヒットした。衝撃でヘッドが真っ二つに割れるほどの威力だった。
化け物は勢いよく吹き飛び、台所のゴミ箱の壁に激突した。
「ベチャッ」と嫌な音がして、化け物は床に落ちる。八本の脚が痙攣するように激しく動いているが、自慢の羽はボロボロに引きちぎれ、もう起き上がる力は残っていないようだった。
僕はすかさず、投げ捨てていた凍結スプレーを拾い上げ、ボロボロになったノズルの隙間から、残りの冷気をすべて化け物に向けて噴射した。
「喰らえ! 冷凍刑だ!」
「シューーーーーーーッ!!」
冷気が化け物の全身を包み込む。漆黒の甲殻がみるみるうちに白い霜で覆われ、激しく動いていた八本の脚が、一本、また一本と凍りつき、完全に動きを止めた。
台所に、静寂が戻った。
僕はしばらくその場に座り込み、激しく上下する肩を落ち着かせた。防護服の中は汗でびっしょりだった。床に転がる、凍りついた「蜘蛛ゴキブリ」の死骸を見つめる。
「勝った……のか……」
もしも、この化け物が卵を産み落としていたら。もしも、天井の巣の裏に小さな子供たちが無数に隠れていたら……。そんな恐ろしい考えが頭をよぎったが、今はただ、この命がけの戦いに生き残ったことを静かに噛みしめるのだった。
コメント
1件
読み終えました。コタローの視点で綴られる日常の観察が、こんなにも豊かで温かいものだとは。ロボット掃除機への威嚇やちゅーるへの執着、そしてダンボールを城と呼ぶ感性——猫の生態をこれだけ細やかに、しかも誇張しすぎず書けるのは本当にすごい。終盤の蜘蛛×ゴキブリは突然のファンタジー要素で一瞬たじろぎましたが、あの畳み掛けるような必死の戦闘描写に引き込まれました。この世界はどこまで現実で、どこからが幻想なのか——それが一緒くたになっているからこそ、コタローの目には世界がこんなふうに映っているのか、と納得してしまいました。素敵な読書体験をありがとうございます。