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夜が沈み、月が雲のうねりの奥へと溶けていくたび、カイラスの内側に眠る“血の契約”は疼きを増していった。それはリリスとの絆――ただし、美しいだけのものではなく、互いの生を侵し合うほど深い、呪いにも似た結びつきだった。
城塞の最奥、血の祭壇へと続く回廊を歩きながら、カイラスはリリスの手を強く握った。彼女の指先は依然として冷たい。それでも、以前のような“死の静けさ”ではなかった。血が呼び合う気配が確かにある。
ただ、それは同時に、終わりが近い証でもあった。
「カイラス……本当に、これしか道はないの?」
リリスの声は震えていた。恐怖ではない。彼女の魂が、契約の深化を直感的に悟っているのだ。
「他に方法はない。お前の魂は、すでに“狩猟者(ハンター)”の刻印を受けている。あのままでは、血の渦が再び襲えば、お前の身体は持たない。」
「でも……あなたは?」
「俺は構わない。初めて会ったあの夜から……俺はもう、とっくにお前に噛まれている。」
リリスが息を飲む。カイラスの言葉は比喩ではなかった。
魂を噛まれた、という意味だ。意志も、誇りも、孤独を覆い隠す暗闇も。どれもリリスに暴かれた。
吸血鬼である彼にとって、それは“心臓を差し出す”に等しい。
回廊の奥、巨大な円環が赤く輝きはじめる。
血の祭壇――この国で最も古い吸血帝国が、伴侶を迎えるときだけ使った、禁断の聖域。
祭壇に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
赤黒い光が波紋のように広がり、床に刻まれた古代文字がひとつずつ灯りはじめる。
リリスの身体がふっと浮かび、カイラスの胸が引き裂かれるように痛んだ。
「怖がるな。俺がそばにいる。」
「……うん。あなたがいるなら、大丈夫。」
リリスの声は、静かに、確かに、カイラスへ向けられていた。
―――――
儀式が始まると同時に、カイラスの胸元に“第二の咬痕”が開いた。
そこから滲み出す黒紅の血は、リリスの胸元へ吸い込まれるように流れていく。
――This blood binds you to me.
この血は、お前を俺に繋ぐ。
カイラスとリリスを包む魔力の鼓動に呼応するように、祭壇の壁面に刻まれた古い碑文が淡く光を帯びた。
その文字は、この国に受け継がれる吸血種の最古の契り――
“血誓(Blood Oath)” の起源を語っていた。
そこにはこう記されている。
「二つの魂は、咬み痕を通じて互いの生を分け合い、やがて一つの運命へと統合される」
カイラスは、それがただの儀式ではなく、太古より伴侶を結ぶために行われてきた“魂の融合”そのものであることを理解していた。
リリスの身体が震え始める。
温かい血が流れ込むと同時に、彼女の内側に潜む“狩猟者の刻印”が抵抗を始めるのだ。
「リリス……! 耐えろ!」
「っ……カイラス……たす……け……!」
リリスの叫びが響く。
祭壇の魔力は、魂と魂をつなぐため、強制的に両者の“真名”を引きずり出す。
二つの魂は絡み合い、ときには軋み、千切れ、また結ばれていく。
カイラスの視界がぐらりと揺れた。
リリスの痛みが、まるごと流れ込んでくる。
自分の血が彼女に入り込むと、その苦痛も、恐怖も、渇望も、全部共有されるのだ。
心臓が破れそうになる。
本当に死んでもおかしくない。それでもカイラスは笑った。
「こんなもの……お前を失うよりは、ずっと軽い。」
その瞬間、リリスの胸元から眩い光が弾けた。
狩猟者の刻印が剥がれ落ち、カイラスの血と混ざり合って溶けていく。
リリスが大きく息を吸い込んだ。呼吸が戻ったのだ。
「カイラス……わたし……あなたの声が聞こえる……」
「ああ、俺にも聞こえる。」
それは錯覚ではなかった。
二人の魂は“同調”しはじめていた。
だが――祭壇は、まだ終わりではなかった。
床の古代文字が赤から白へと変わり、天井の巨大な鏡が光を集め始める。
最後の段階、“返礼(Requital)”が始まる。
血の契約は、一方が血を与えただけでは完成しない。
伴侶となる者――今回はリリスが、同じ量の血を返さなければならない。
リリスはゆっくりとカイラスに歩み寄り、彼の胸に触れた。
まるで吸血鬼であるかのように、その指先は白く、光に溶けるほど美しい。
カイラスはその姿に、思わず息を呑んだ。
「……噛んでいいの?」
「ああ。これは契約だ。お前が望むなら。」
「望んでる。」
「あなたと……ずっと一緒にいたい。」
リリスがそっと顔を寄せた。
カイラスの首筋に触れた唇が、震える。
吸血鬼ではないリリスが、それでも本能のように咬みつく瞬間――
――世界が赤く染まった。
鋭い痛みと共に、甘い痺れがカイラスの身体を走る。
彼女の牙が食い込み、血を吸うたび、カイラスは深く息を吐いた。
その姿は、まるで古代の“血の花嫁”そのもの。
リリスが吸い上げる血の痛みさえ、なぜか幸福だった。
「リリス……離れるな。」
「離れない……絶対に。」
温かい血が二人の間を循環し、魂が絡み合うように脈打つ。
やがてその光は天井へと吸い込まれ、祭壇の魔法陣は静かに消えた。
――血の契約は、完了した。
―――――
儀式後の静寂の中、リリスはカイラスの胸に顔を埋め、小さく呟いた。
「ねぇ……カイラス。“運命の由来”って、こういうことだったのかな。」
「さあな。ただ……もし運命というものがあるなら、きっと最初からお前は俺のものだった。」
「……うん。噛んでくれて、ありがとう。」
「言われる筋合いはない。お前が俺を噛んだんだ。もう逃がさないからな?」
リリスはくすりと笑い、カイラスの指を絡め取った。
二人の血は完全に繋がり、同じ鼓動を共有している。
祭壇から外へ出ると、夜明け前の空が青黒く揺れていた。
その光の中で、カイラスはふと横を見る。
「リリス。これでお前は……俺の伴侶だ。」
「知ってるよ。だって――」
リリスは囁いた。
「“わたしを噛んで”と言ったのは、わたしなんだから。」
カイラスの胸に、熱いものが込み上げる。
そして二人は夜明け前の風の中で、ただ手を繋いで歩き出した。
その背中は血で結ばれ、運命で縛られ、
愛と呪いの境界線を、確かに越えていた。