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リリスの血がカイラスの喉元に触れた瞬間、世界は一度、静止した。いや、静止したのではない。時間そのものが「彼らだけのために」膝を折ったのだ。
――血誓は完了した。
だがそれは終わりではなく、むしろここからが本当の始まりだった。
カイラスの胸奥で、何かが“ひび割れる”音がした。
それは痛みではなく、解放でもなく、もっと原始的な何か――飢えだった。
魂を共有したせいで、彼の内側にリリスの生気が流れ込み、同時に自分の中の長い年月を生きてきた冷たい血がざわめき、渇きに形を与え始めていた。
リリスが、震える指でカーテンのように彼の髪を撫で上げた。
「……カイラス?」
声はかすれていたが、それは恐怖というより、彼の存在を確かめるための囁きだった。
カイラスは答える代わりに、ゆっくり彼女の手首を取った。
その脈動は彼にとって、太古から探し求めていた“唯一の音”――。
咬み痕の疼きが、二人の皮膚の下で共鳴し始める。
まるでこう告げているようだった。
《その一噛みで、俺はもう、おまえから逃れられない》
リリスはかすかな笑みを浮かべたが、その目の奥に影があることを彼は見逃さなかった。
血誓でつながったとはいえ、彼女はまだ人間としての時間を持っている。
彼女の寿命は、吸血種であるカイラスのそれとは比べ物にならないほど短い。
おそらく百年も経たない。それはカイラスにとって、瞬きにも等しい。
――奪うか、喪うか。
血誓によって二人は“魂の半分”を共有した。
だがそれは、どちらか一方が死ねば、もう一方も後を追うということでもある。
カイラスはそれを理解しながら、あえて言わなかった。
リリスがこの契りの重さを知れば、きっと迷うだろう。
そして彼は、迷わせたくなかった。
夜が更けるほど、カイラスの存在は濃さを増していった。
屋敷全体に彼の魔力の波が広がり、導線のように床や壁の奥にある古い刻印が反応し始める。
灯りでも魔法でもない、もっと深い何か―― 血の呼吸が屋敷全体を包み込む。
リリスがため息をついた。
「やっぱり……変わらないね。この場所」
「変わらなくていい。おまえがいる限り、ここは俺の“夜”だ」
リリスは小さく笑うが、すぐに表情を曇らせる。
「……私、本当に変わってしまったのかな」
「変わったのは、世界の方だ」
「違うよ。私があなたを呼んだせいで、いろんなものが壊れた。村も、人も……」
彼女の声は震えていた。涙ではなく、記憶が痛みになって彼女を刺していた。
カイラスはそっとリリスの肩を抱いた。
「壊したのは俺だ。おまえのせいではない」
「でも――」
「俺は、壊すために生まれたわけじゃない。守るために牙を持った。……おまえを守るために」
その言葉を聞いた瞬間、リリスの目が揺れた。
血誓の共鳴が二人の胸骨の奥で熱を帯びる。
カイラスの指先がリリスの首筋に触れた。
薄い皮膚の下で、赤い光が脈動している。
血誓の印――咬痕だ。
「この印がある限り、おまえはもうひとりじゃない」
カイラスは言った。
「逃げても、忘れても、死んでも……俺が迎えに行く」
リリスの心臓が跳ねる。
その鼓動は、彼の胸元にも確かに伝わってきた。
「カイラス……もし私がいなくなったら、あなたは――」
「それ以上言うな」
彼は指でリリスの唇を塞いだ。
「“離れる”なんて言葉、おまえの口で聞きたくない」
リリスは頷いたが、その表情にはどこか儚い決意が宿っていた。
――その夜、リリスは夢を見た。
白い霧の中に、巨大な黒い影がうごめいていた。
それは形こそ曖昧だが、確かに“彼女を呼んでいた”。
声なき声で、彼女の咬痕を揺らすように――。
「おまえは誰のものだ?」
響く声は、カイラスのものではなかった。
もっと冷たく、深く、底無しの闇から湧き上がっていた。
リリスは震えながら答えた。
「私は……カイラスのもの」
すると影は揺れ、空気が裂けるほどの怒号が響いた。
「では――奪おう」
その瞬間、リリスは飛び起きた。
息が荒く、汗が背中を濡らしている。
視界が滲むのは、涙ではなく、咬痕が赤く光りすぎているせいだった。
カイラスが部屋に飛び込んできた。
「リリス!」
「カイラス……いま、誰かが……」
リリスは震える手で自分の首元を押さえた。
「咬痕を“引っ張られる”ような……そんな感じがして……」
カイラスの顔が険しくなる。
「……来たか」
「来た?」
「おまえの夢に現れた影――あれは、吸血種の王《ノクタ・レックス》だ」
リリスの血の気が引いた。
「王……? そんな存在が、本当に……?」
「俺たちは“夜”に生きる者だ。王がいないはずがないだろう」
カイラスはリリスの手を握り、囁く。
「そしてあいつは、血誓を結んだ人間を“資源”として奪おうとする。
――おまえの魂が欲しいんだよ」
リリスは震えた。
だがカイラスは、そんな彼女をそっと抱き寄せた。
「安心しろ。奪わせない」
「でも……あなたより強いなら?」
「それでも戦う。おまえの血誓を受け入れた時点で、もう俺は後戻りできないんだ」
彼の声は静かだったが、燃えていた。
どんな闇よりも強い、執着と愛と絶望の色で。
リリスがその胸に顔を押し当てると、彼の心臓の音が確かに聞こえた。
夜の獣のリズムではなく、彼女を呼ぶ恋人の鼓動だった。
「カイラス……」
「なんだ」
「……もう一度、噛んで」
その言葉は、祈りのように震えていた。
恐怖ではない。
“つながりたい”という本能的な欲求の震えだった。
カイラスは目を細める。
「いいのか?」
「あなたがいないと……私、壊れそうだから」
彼は答えなかった。ただ、リリスの首筋に唇を寄せた。
咬痕の上を柔らかく歯がなぞる。
「……リリス。俺のものになれ。完全に」
「……うん。噛んで、カイラス――」
彼の牙がゆっくりと肌を破る。
血が溢れ、二つの魂が再び深く結びつく。
その瞬間――
屋敷が揺れた。
窓の外から、世界を引き裂くような咆哮が響いた。
王が来た。
リリスの血を奪うために。
カイラスの契りを壊すために。
二人の運命を破壊するために。
カイラスはリリスを抱きしめたまま、振り返った。
瞳は真紅に燃え、声はかすれながらも凶暴だった。
「離れるなよ、リリス」
リリスは震える声で言った。
「離れない。あなたの血で、私はあなたのものになったんだから」
カイラスは微笑んだ。
その笑みは、夜の帝王さえ怯ませるほど美しく冷酷だった。
「いい子だ。――さあ、迎えに行こう。おまえを奪いに来た“王”を、俺が殺す」