見ないふりしろ。
何を見たとしても、何が聞こえたとしても。
三猿を守れ。
見ざる、言わざる、聞かざる。
入社してすぐ、『作業員』に配属になったときは絶望した。
電車を運転したくて、努力に努力を重ねてきたのに、と。
けれど、底辺だってがんばっていれば、花は咲く。
そもそも底辺ではないのだから、努力していればチャンスは巡ってくるはずだ。
そうして、僕は作業員として勤務することになった。
作業員は5区間だけに配置されている。2人だけの部署。
作業員室に行くと、年配の男性が制服を着て座っていた。
「あぁ、来たね。申し訳ない」
開口一番に先輩は謝罪して頭を下げた。
「私がもうすぐ異動でね。次が必要だったんだ。最後までここで踏ん張るつもりで、異動届は出さなかったんだけど…」
先輩は申し訳なさそうにポリポリと頭をかいた。
僕はわけもわからず、気にしないでください、とか、作業員も重要な仕事だと認識していますだとか、言ったような気がする。
この先輩の下でなら、作業員だって楽しくやれるな、と思ったんだ。
先輩から、仕事内容を聞くまでは。
仕事内容は単純だった。
区間内で起こったことの後片付け。多くが死亡事故の後処理だった。
血を拭う。消毒する。それだけ。
それが、常駐の作業員を置かなければならないほど頻繁に起こっているとしても、誰にも気づかれないように。
そして、作業員が守らないといけないのは、3つだけ。
―見ざる、言わざる、聞かざる。
鏡に映る僕の顔からは、だんだん笑顔が消えていった。
ある日、隣の駅で『仕事』が発生したので、電車に乗って移動することになった。
19時30分。先輩と、道具を持って電車に乗り込む。
車内には乗客が誰もいなかった。
僕と先輩はベルベットの椅子に腰掛けた。
―ガタン。
電車が動き出す。
前を見ると、スーツ姿の女の人と目が合った。
―お客さん乗ってたのか。
目を逸らす。
隣に座る先輩が、僕の肩を叩いた。
先輩に目を向けると、いつもの優しい笑顔があった。
「絶対に、何も見るな」
その声は、恐怖で震えていた。
僕はわけもわからず頷いた。
そのあとは駅に着くまで、ずっと床だけを見つめていた。
先輩から聞いた。
スーツ姿の女を見ても、見ないふりをしろ。
スーツ姿の女に話しかけられても、聞こえないふりをしろ。
スーツ姿の女について尋ねられても、何も言うな。
それを守らなければ、彼らと同じ道を行く、と。
先輩が床に残った茶色の血に視線を送った。
「何かがあったんですか?」
先輩は首を横に振る。
「何もない。事故も自殺も、何も。」
ただ、と先輩は続けた。
「20年前に私は作業員になった。私が引き継ぐずっと前から、あの女はいるそうだ」
ある日、女子学生が血を吐いて倒れたため、『仕事』になった。
電車に乗ると、サラリーマンが青い顔をして座っていた。
―目の前で人が倒れるのを見たんだ。
無理もない。
サラリーマンは落ち着かずに立ったり座ったりしていた。
「あの」
女の声がした。
咄嗟に顔を上げて、しまった、と思ったが、目が合ったのはサラリーマンだった。
サラリーマンは不審そうに僕を見た。
―あぁ、良かった。僕が見たのは彼だ。
そう思った矢先、サラリーマンの横にスーツ姿の女が見えた。
血の気が引いていくのが分かった。
僕は急いで仕事に戻った。
モップを持つ手が震えた。
止められなかった。
震える手も。勝手に上がる頭も。
僕はもう一度、サラリーマンを見た。
サラリーマンの後ろにいる女の人も。
何を言うつもりだったのか、僕は口を開いた。
口が震えるのがわかった。
けれど、音が喉を通る前に、先輩が僕の腕を掴んだ。
先輩は諦めた目で、大きく首を横に振った。
僕はモップを握りしめ、仕事に戻った。
サラリーマンが下車した。
青い顔で。足早に。
翌日、彼の訃報を聞いた。
車道に飛び出して撥ねられたそうだ。
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