テラーノベル
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#ロマンスファンタジー
遊郭の極彩色な喧騒を離れ、静まり返った屋敷の自室に戻っても
刹那様に強く引かれた手首の熱だけが、いつまでも引かなかった。
あやかし達の視線を一瞬で凍りつかせた、あの凄まじい威圧感。
そして、私の存在を誇示するように「俺の番だ」と言い切った、低く力強い声。
すべては周囲の目を欺くための演技だと分かっている。
それなのに、乱れた鼓動は一向に収まらず、胸の奥が騒がしくて仕方がなかった。
「……緒美、これを持っておけ」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、刹那様が懐からあの金細工の懐中時計を取り出し
迷いのない手つきで私の掌に載せた。
ずしりとした冷たい金属の重みが、私の指先の震えを鎮めるように伝わってくる。
「これは……。でも、これは刹那様にとって、とても大事なものでは…」
「お前に預ける。それが一番安全だ。……座れ」
促されるまま、私は彼と向かい合って畳に座した。
刹那様は真剣な、どこか悲痛ささえ漂う眼差しで私を射抜く。
彼の手で時計の蓋が開けられると、そこには通常の文字盤とは異なる
奇妙で複雑な文様が刻まれていた。
針は止まっているように見えるが
時折、心臓の鼓動に呼応するように微かに、生き物のように震える。
「この時計は、俺の理性を繋ぎ止める楔だ。俺の殺意や捕食衝動が高まれば針が進み、逆に凪いでいれば止まる。……だがな、緒美」
彼は私の手の上にある時計を、自分の大きな手で包み込んだ。
冷たい金属を挟んで、彼と私の体温が溶け合うように混ざり合う。
その熱に、喉の奥が締め付けられる。
「もし、この針が『逆回転』を始めたら…それは、俺がお前を愛し始めている合図だ。……その時は、迷わずこの時計を壊せ。中にある法力が弾け、俺を一時的に無力化する」
「壊すなんて……。私を助けてくれた刹那様の大事なものを、そんなこと、私にはできません」
「お前の命を守るためだ。いいか、緒美。俺の呪いは慈悲がない。愛が深まれば深まるほど、俺はお前を耐え難いほど美味そうだと感じ、理性が消し飛ぶ」
「……俺に喰い殺されたくなければ、常にこの針を監視していろ。俺を信じるな。針だけを信じろ」
冷徹な宣告だった。
けれど、時計を挟んで重ねられた彼の手は、驚くほど優しく
壊れ物を扱うように私の指を包み込んでいた。
自分を守るために、自分を「壊せ」と言う彼。
その矛盾した優しさが、鋭い刺のように深く胸に刺さった。
◆◇◆◇
その夜
私は一人、枕元に置いた時計をじっと見つめていた。
窓から差し込む、冷ややかな月明かりに照らされた文字盤。
今はまだ、針は静かに眠りについている。
(愛さなければいい。ただの契約、ただの奉公。そう自分に言い聞かせれば、それで済むこと……)
何度も自分に言い聞かせ、重い瞼を閉じる。
けれど、ようやく訪れた眠りの中で現れたのは
私を喰らおうとする飢えた鬼の姿ではなかった。
祭りの人混みの中で、私の小さな手を
まるでお守りか何かのように必死に、そして寂しげに握りしめていた、あの男の横顔だった。
カチッ──
静寂を切り裂くように、小さく、けれど確かな音が響いた。
跳ね起きるように身を起こし、暗闇の中で時計を手に取る。
月の光を頼りに文字盤を覗き込むと、私は息を呑んだ。
針は……ほんのわずかだけ、左へ。
一分にも満たないほど、確かに逆方向に動いていた。
「嘘……」
私は、まだ熱を帯びている時計を胸に抱きしめ、暗闇の中で荒い息を潜めた。
出会ってから、まだ数日。
それなのに、この金色の時計は、私たちが自覚するよりもずっと早く
逃れられない「毒」が回り始めていることを非情に告げていた。
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