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夏の空が名残惜しくなるような、秋の雲が悠々と流れるようになったある日、病院内のスタッフ専用エリアにある掲示板にダンスパーティの開催案内が張り出されている事に、偶然その前を通った慶一朗が気付いた。
ダンスパーティなど久しぶりだと小さく笑い、大学の卒業時に踊ってくれと誘われたことを思い出すが、何人か踊った女性たちは皆緊張してか何なのか、踊っていても楽しいと思える相手ではなく、それ以来慶一朗は女性相手にダンスをするよりは、クラブなどで踊る方を選択するようになっていたのだ。
踊るのが好きな人が踊ればいい、女性相手に踊るのが好きではない自分は喜んで壁の花になってやるとポスターを軽くノックした後、今日のランチは何だろうか、リアムが何を選ぶだろうかと思いつつ待ち合わせに使っているカフェに入ると、定位置になっているテラス席が空いていて、先に席をキープした慶一朗だったが、正直な話、五感から入ってくる料理の情報を己の脳みそが正しく理解できているとは思っておらず、料理の匂いから連想出来るものがない事に我ながら呆れそうになっていた。
ただ、何も食べないでいるとリアムが悲しそうな顔をする-最近その表情に気付いた-為、何か食べなければという半ば義務感から何となく食べたくなったホットサンドとコーンスープをオーダーし、トレイにそれを載せてキープしていたテーブルにもっていく。
リアムが傍にいないと食事に手を付ける気持ちにすらなれず、慣れた気持ちでスマホを取り出してメッセージを確認すると、定期連絡のようなメッセージが日本に住む双子の兄、総一朗から届いていた。
総一朗と一緒に暮らした時間は中学入学から高校卒業までのわずか6年間だったが、その6年の間に人として最低限生きていくのに必要なこと-例えば腹が減ったら食事をすること、眠いと思ったらちゃんとベッドで寝ること-などを教えられたのだが、食事をしたいという気持ちになれる方法までは教えてもらえなかった。
今思えば総一朗もかなり苦労していろいろ教えてくれたのだが、慶一朗に食事をさせること、毎日食べる食事の大切さは教えることが出来なかったようで、兄と離れてこの国で暮らすようになった今でも慶一朗は自ら食事をする、食べることを楽しむことが出来ないでいた。
そんな慶一朗の意識を、ぽつりぽつりと落ちる滴が地面に染み込み、乾燥している大地を潤すように変化させたのは、今彼がひそかに心待ちにしているリアムの存在だった。
初めて出会ったときから不思議な気はしていたが、好きだと告白された前後から明確になった己の心の動きがあり、今もそれを感じ取っていた慶一朗は、早く来ないかなと、己の恋人がやってくるのを心待ちにしつつ兄のメッセージにいつも通り平和なものだと返事をしていた。
そんな慶一朗の顔にふと影が差し、それに気づいて顔を上げれば、疲れたと笑いながら体格に似つかわしい量の食事をトレイに載せたリアムがいて、お疲れと労いの言葉をかけた慶一朗がこの時初めて空腹を覚えたように目を丸くする。
「今日は何にしたんだ?」
「シュニッツェルがあったからそれにした」
「へえ」
リアムの言葉に興味を惹かれたのか慶一朗がちらりと視線を落とすと、付け合わせのザワークラウトやマッシュポテトなども載っていて、今日はドイツデーかと笑い、リアムもそのようだと笑ってうなずくと、慶一朗の前のトレイに乗ったままのホットサンドとコーンスープに気付いてうれしそうに目を細める。
「どうした?」
「待たせたなーって」
さあ、楽しみのランチタイムだと笑って食べようと促したリアムに慶一朗も苦笑しつつ頷き、さっきまでは五感を刺激するものでもなかったホットサンドを手に取ると、感じた空腹を刺激するようないい匂いに気付く。
胃袋を刺激する匂いに気付けるようになったのは、今隣で美味そうに食べているリアムと付き合いだしてからだと理解している慶一朗は、お前と一緒に食べる料理はどうしてこんなに美味しく感じるんだろうなと、素朴な疑問を装って感謝している本心を告白すると、それに気付いたリアムのヘイゼルの双眸が見開かれるが、真夏の青空を連想させるような笑みが愛嬌のある顔に浮かび、お前の告白は本当に嬉しいなと素直に喜びを表現する。
その素直さが羨ましくて、リアムが切り分けたシュニッツェルを行儀悪く指で摘まんで口に放り込むと、また俺の好物を取ると睨まれるが、お前が作るほうが美味いから今度作ってくれと笑われ、それには逆らえませんとリアムが肩を竦める。
「なあ、リアム」
「どうした?」
周囲からは仲の良い-どちらかといえば良すぎる-と思われている二人がいつもと変わらないランチタイムを取っていたが、ふと慶一朗が頬杖を突き、学生時代ダンスパーティなどに出ていたかと問いかけ、さすがに意表を突く質問にリアムが目を丸くする。
「ダンスパーティ?」
「ああ。そこの掲示板にポスターが貼ってあった」
スタッフの有志で行うそうだが、興味はあるかと問われ、過去を思い出すようにテラスの軒先を見上げたリアムは、友人たちと遊んでいるほうが楽しかったからダンスなどはほとんどしなかったと笑い、慶一朗の顔に安堵と納得の表情を浮かべさせる。
「ケイは?」
「俺はまあそれなりに?」
ただ、こんなことを言えば悪いが、女性達とダンスをしたがときめくこともなければ心が躍ることもなかったと肩を竦め、仕事で必要だから時々踊っているがダンスパーティよりはクラブなどで踊るほうが好きだと続けたため、リアムがクラブとオウム返しに呟く。
「ああ。週末は良く行っていたな」
お前と付き合いだしてからはクラブをはじめとした夜遊びに行かなくなった、なんて健全な暮らしをしているんだと驚くリアムににやりと笑みを浮かべて囁く慶一朗だったが、そこで一夜の相手を探していたのかと潜めた声に問われ、どうだろうなと笑みを深めて返すが、ただ一つ言えることはそこで出会った相手とはこの半年会っていないと続け、リアムの顔に安堵の色と若干の疑問が残っていることに気付くと、テーブルの下で何よりも頼りになる手にそっと手を重ねる。
「・・・今日はお前のバスローブを着ようかな」
「・・・うん」
その言葉は二人だけの秘密のもので、今夜はリアムの家で寝ることを暗に伝えてくれていたが、ただ寝るだけではないこともリアムに教えてくれていた。
「・・・今度、同じブランドのガウンを買いに行かないか?」
慶一朗の手が離れていくのを寂しく感じつつリアムが一つの提案だと告げると、あのバスローブが気に入っているのに俺のお気に入りを奪うなと睨まれてしまい、そこまで気に入っているのならもう何も言いませんと肩を竦め、ランチを掻き込むのだった。
職場では慶一朗と付き合っている事を秘密にしている為、仲の良い友人同士でランチを食べたと思われている二人だったが、午後の仕事も頑張るかとカフェを出た時、小児科病棟の看護師達を纏めるチーフであるアナに呼びかけられて二人顔を見合わせる。
「ちょうど良かった。仲良しコンビドクター、今日の午後に病棟で子供達のダンスの練習をするの。参加しませんか?」
看護師仲間からは厳しく笑う事がないと陰口を叩かれているアナが微かに笑みを浮かべて呼びかけた為、それに軽く驚きつつもダンスの練習とリアムが呟くと、病棟の比較的元気な子供達にもっと元気になってもらおうという企画を立てている事を教えられ、事情を察したリアムが満面の笑みで大きく頷く。
「良いな、それ。もちろん参加する」
ただ、ドクター・ユズはどうだろうと頭一つ分下にある端正な顔を見下ろせば、ふむと呟いて腕を組むが、今日は手術の予定はないし大丈夫だろう、時間を教えてくれたら顔を出すと笑み交じりに返した為、リアムと提案をしたアナが顔を見合わせてそれぞれの顔に浮かんでいた笑みを深くする。
「では、小児病棟のプレイルームに15時頃にきてくださいね」
仲良しコンビで楽しそうに話をしている中割り込んで失礼と、きりりと表情を変えた彼女が立ち去るのを見送り、別に気にしていないし楽しいお誘いだから良いのにと肩を竦めたリアムは、慶一朗の人差し指が顔を寄せろと手招きした為、何だと希望通りに寄せると、彼女は信頼出来る一人だと伏し目がちに囁く。
「・・・そうか」
「ああ」
じゃあ15時ごろプレイルームに行こう、そこでお前のダンスの腕前を見せて貰おうかとニヤリと笑う恋人に一瞬絶句したリアムだったが、そっちこそ、華麗なダンスを見せてもらうぞと言い返し、互いに手を挙げて背中を向け合うが、その直前にリアムが胸に拳を当てた後に手を開き、それを見た慶一朗がしっかりとその告白を受け取ったと言いたげな顔で頷くのだった。
アナに教えられた時間になり、小児病棟の一室に向かっていたリアムは、病室をノックして許可を得るとドアを開け、不機嫌さを丸出しにしてベッドに座る少女に気付き、彼女の前にパイプ椅子を置いて腰掛ける。
「ハロー、シャーロット」
「・・・・・・」
リアムの挨拶に返事もせずにいた少女、シャーロットだが、にこにこしたまま沈黙を続けていると、小さな声でこんにちは、ドクター・フーバーと返してくる。
「ああ、こんにちは。・・・プレイルームに行かないのか?」
看護師からお誘いがあっただろうと問いかけるリアムに楽しくないから嫌だと返した少女の目が掛布団の下に隠れている己の足に向けられていることに気づいたリアムだったが、自分から楽しまないと楽しくないぞーと続けると、意外そうな顔で見つめられたため、にやりと笑みを深めて開いた足に腕をついて手を組む。
「何事も自分から楽しまないとな」
「…でも、楽しくないもの」
怪我のせいで動かなくなった足なんて嫌だと、大きな目に涙をためて拳を握る少女にリアムが痛ましげに目を細める。
今、己の足が嫌だと泣く少女シャーロットは、家の庭で友人と遊んでいる時に木から落ちてしまい、左足を骨折してしまったのだ。
手術は上手くいき、リハビリも徐々に初めていたのだが、当然ながら前のように活発に動く事が出来ないでいた。
それに対するストレスや自由に動けない苛立ち、小さな身体で受け止めている痛みから我儘になってしまう気持も理解できる為、シャーロットに隣に行っても良いかと問いかけて許可を得ると、彼女の横に腰を下ろして細く小さな肩を抱く。
「リハビリをすればすぐに動けるようになる」
それに毎日きみはリハビリを頑張っているのだ、すぐに良くなるから今日は気持のリフレッシュを図ろうと笑いかけると、涙を滲ませた双眸が上目遣いに睨んできて、ダンスをすれば楽しいと思うけどなぁと誘いかけると、まだ信じられないと言いたげに口を尖らせる。
「自分から楽しまないと楽しくならないし、楽しくないと思うな」
畢竟、楽しいも悲しいも自分の気持ち次第なところがある、ならば楽しく過ごせるように笑顔でいようと笑うリアムにシャーロットがようやく子供らしい屈託無い笑顔を浮かべ、ドクター・フーバーは踊ってくれるのと見つめられる。
「そうだなぁ。踊ってみたいかもなぁ」
リアムのその言葉にシャーロットの頬が少し赤くなり、松葉杖で踊るのが難しいけど、どうすれば楽しく踊れるのかしらと、早速己の言葉を実行しようとしてくれていることに気付き、細い腕を撫でて髪を撫で、車椅子でもダンスが出来るし松葉杖をついたままでも踊ることは出来ると、シャーロットと似たり寄ったりの顔で笑う。
「・・・誰か、踊ってくれるかしら」
「みんな踊ってくれるよ」
だからそんな不安は消して皆がいるプレイルームに行こうとベッドから立ち上がったリアムが小さな少女に向けて手を差し出し、掛布団を勢いよく捲ったシャーロットがその手にエスコートされるようにベッドから降り立つが、両足でしっかり立つにはまだまだ心もとなかった為、リアムの大きな手を頼るように身を寄せる。
「松葉杖を使う? それとも車椅子にする?」
「歩いてみたい!」
「そうか、じゃあ一緒に歩いて行こうか」
元々活発な少女なのだろう、歩けるかもしれないと分かった途端、シャーロットの顔に自信に満ちた笑みが浮かび、プレイルームまで歩けばちょうど良いリハビリにもなるだろうとその決意を大歓迎するように頷き、ゆっくり歩こうと病室から出ようとしたリアムは、ドアの向こうに誰かの影を見た気がし、誰だろうと首を傾げつつシャーロットと一緒にゆっくりと肩を並べてプレイルームまで歩いて行くのだった。
二人が勤務する病院では、入院している子供達に少しでも気持ちを明るく持って欲しいとの思いと、気持ちが上向けば治療への態度も変わってくるのではないかという思いからレクリエーションの類に力を入れていた。
クリニクラウンと呼ばれる病院を専門に回っているピエロが定期的に来ることもそうだし、地元の音楽家が子供達の為に演奏をしたりと、手を替え品を替え、入院している子供達が少しでも笑顔を浮かべてくれるようにとサポートをしていたのだ。
今日の午後のダンスはその一環で、集まった子供達はダンスを教えてくれる地元ボランティアの元に集まり、そんな子供達を少し離れた場所からスタッフらが見守っていた。
その子供達の輪の中に当たり前の顔で入り、誰からも拒絶されることなく受け入れられているリアムを、少し離れた場所から慶一朗が興味深げに見守っていた。
ランチの時にダンスは殆どしなかったと告白していたリアムだが、こうして子供達と一緒に何かをすることにかけては抵抗感もないのか、子供達と似たり寄ったりの顔で講師の言葉に頷いたり問い返したりしていた。
公言していないが己の秘密の恋人は、目が奪われてしまうような美形ではなく、贔屓目に見ても愛嬌のある顔としか言えなかった。
そんな彼だが、子供達からの信頼は大きなもので、己の患者である子供達やその両親からも容易く信頼を得ているようだった。
リアムの不思議な特性の一端をふと見たような気持ちになった慶一朗は、腕を組み替えて壁に背中を預ける。
大柄のリアムの周囲には背丈は様々な子供達が集まり、その子供達の顔には嬉しそうな笑みが浮かんでいるのだが、リアム自身にも同じような笑みが浮かんでいるのだ。
その瞬間のリアムの顔に目を奪われ、一瞬呼吸すら忘れそうになった慶一朗は、己の浮かれ具合に気付いて咳払いをし、自然と口元がにやけるのを隠すように手を口元にあてがう。
好きだから付き合って欲しいと告白され、いつかくる別れと己は人に好かれるはずがないという強迫観念のような思いから受け入れられなかったその告白だったが、リアムの様な皆から好かれるだろう男に愛されているという事実は慶一朗の胸の何処かに小さな暖かな炎を生み出し、それは今でも確かに消えることなく燃え続けているのだ。
その熱が顔に上がってきたかの様な熱を感じ、頭を一つ振った慶一朗だったが、隣にそっとやって来たアナに気付き、咳払いをして一瞬で表情を切り替える。
「・・・ドクター・フーバーは患者からもその家族からも評判が良いわ」
「そうか」
アナの言葉に軽く目を伏せて良かったと頷いた慶一朗は、子供から人気があるのは見ての通りよねと部屋の中央で子供相手に踊り出したリアムを指差し、奇特な人だと目を細める彼女の顔をちらりと見ると、得難い人と目元に笑みを浮かべられる。
「確かに得難い存在だな」
「ええ・・・ドクター・ユズがカフェでランチを食べる様になったきっかけだし?」
「あのカフェ、意外と料理が美味いんだな」
今まで栄養補助食品しか食べていなかったから分からなかったと肩を竦め、それに比べれば美味いという程度だけどと、素直な感想も口にする。
「食べる様になっただけマシかしら────踊らないの?」
「褒めてくれてありがとう、アナ。・・・今日は壁の花になっていようかな」
今日は自分が踊るよりも見ている方が楽しいと肩を竦め、じゃあ私は踊ってくると手を上げて他のスタッフらと同じ様に部屋の中央に向かうアナを見送った慶一朗だったが、ふと視線に気付いて顔を向ければ、アナが向かった場所からリアムが笑顔のままこちらを見ていて、軽く目を見張ればリアムが己に向けて手を伸ばす。
「ケイ、来いよ!」
お前も一緒に踊ろうと屈託無い笑顔で誘われ、周囲にいたスタッフや子供達が一斉に慶一朗を見つめる。
その視線に羞恥を覚える以上に心の中が喜んでいることに気付き、こほんと咳払いをすると待ちきれないと言いたげにリアムが大股に近寄ってくる。
「ほら」
その誘いの言葉と大きな分厚い掌の誘惑に逆らえるはずもなく、だが素直に従うのも気にくわない為、高いぞと目を細めると一瞬驚いた後、破顔一笑。
「好きなものを教えてくれ」
俺で買えるものなら買うし無理なら一緒に買おうと笑うリアムに溜息一つで頷いた慶一朗は、アナには壁の花になっていると告白したその舌の根が乾かないうちに部屋の中央に向かうと、珍しいと言いたげに見つめてくるスタッフに肩を竦めてリアムの誘いだから断れないなぁと笑い、踊って欲しいと誘ってくる子供に片目を閉じる。
「最初に誘って来たのはドクター・フーバーだから、彼と踊った後に君と踊ろうかな」
「男同士で踊るの?」
「そうだけど?」
踊って楽しい相手は何も異性だけとは限らない、同性でも楽しい相手はいるんだと笑った慶一朗の言葉にリアムが何か言いたげに目を見開くが、特に言葉に出さずにもう一度慶一朗に向けて手を差し出す。
「ドクター・ユズ、踊ってくれませんか?」
「喜んで」
その言葉に他のスタッフや子供達がパートナーにと決めた人に声をかけ、皆がダンスの相手と向かい合う。
講師の掛け声で音楽が流れ出し、それに合わせる様にそれぞれが無理をしない動きで踊りだし、慶一朗もリアムと一緒に踊り出す。
男同士と不思議がられた二人だが、周囲はまた仲良しが一緒に何かをしていると笑い、二人も楽しそうに曲に合わせて踊っている為、二人を中心に周囲に笑顔の輪が広がって行く。
「・・・ケイ、楽しいか?」
「そうだなぁ・・・」
誰かさんが思うより楽しんでいると笑いながらリアムの耳元に口を寄せた慶一朗は、背中をポンと叩いた後、曲が変わったからパートナーを変えなければならないが、本当はしたくない、もうお前の手を離すつもりはないとも囁くと、リアムのヘイゼルの双眸が見開かれ、それを見た慶一朗が満足そうに吐息を零した後さっき踊ってと声をかけた少女に向き直る。
「ケイ」
「────お楽しみは自宅でな」
この続きは自宅で二人きりになってからと片目を閉じた慶一朗にリアムもニヤリと笑みを浮かべて返事をし、他の子供が踊ってと誘って来た為、その子供に向き直るのだった。
自宅と左右反対の間取りのリビングは不思議なほど居心地が良くて、そこにある持ち主の体に合わせた様な頑丈なソファでお気に入りのバスローブだけを着、観葉植物の葉が大きく描かれているクッションを抱え込んでいた慶一朗は、シャワーを浴びているリアムが戻ってくる間、お気に入りのドラマを見ながらビールを飲んでいた。
結局一曲だけしかリアムとは踊れなかったが、その一曲分で今まで生きてきた中で踊った時間を凌駕する気持ち良さを覚え、好きな人と踊ることの気持ち良さに初めて気付いたのだ。
今まで仕事関係やプライベートなどで踊ることはあったが、心から好きになった人と踊ったことなどなく、それが今日のリアムとのあのダンスだと気付くと、不意にのたうち回りたくなる様な羞恥を覚え、自宅なら青い電話ボックス型のぬいぐるみだが、リアムの自宅だから大きめのクッションを抱え込んでソファに寝転ぶ。
洋の東西を問わず、好きな人を誘ってダンスをする歌や映画などがあるが、その時の主人公達の気持ちがようやく少しだけ理解できた慶一朗だったが、何を暴れているんだと苦笑まじりに問われてクッションに押し付けていた顔を上げれば、風呂上がりのリアムが不思議そうな顔で見下ろしていて。
どうしてここにリアムがいるのに俺はクッションを抱えているんだと、この世の不条理が全てその言葉に集約している様な顔でそれを睨んだ慶一朗は、どうしたと問いながらソファの前に別のクッションを置いて座り込んだリアムの向こう側へと不条理を投げ飛ばすと、完全に解消しようと両腕を伸ばす。
「ケイ?」
「・・・暑苦しい」
シャワーを浴びたばかりで体温も上がっているリアムを抱きしめた慶一朗だったが、元々慶一朗と違って基礎体温の高いリアムの体が熱いのは仕方のないことだった。
暑苦しいと文句を言うのならば離れればどうだとリアムに笑われ、バスローブの背中を撫でられた慶一朗は、暑苦しいお前が悪い、俺は離れたくないとハニーブロンドの髪を抱え込む様に腕を回して吐き捨てると、嬉しい告白だなぁとリアムが嬉しそうに笑う。
「今日は珍しく素直だな」
その言葉を出せばどんな反応をするのかが手に取るようにわかる為、リアムはぐっと堪えて手触りの良いゆるく波打つ髪を撫でて今日のダンスは本当に楽しかったと、ピアス穴がうっすらと残る耳朶に囁きかける。
「本当か?」
「ケイに嘘をついてどうする?」
本当に楽しかった、もっと踊りたかったと本音を隠さずに告げるリアムに慶一朗がソファから滑り落ちる様にリアムのあぐらをかいた足の上に座ると、鼻先にキスをした後もう一度頭を抱え込む。
「俺ももっと踊りたかった」
週末に俺がよく遊びに行っていたクラブに行こう、そこで時間も人の視線も気にせずに一晩中踊ろうと慶一朗がリアムの耳に囁きかけると、あまり行ったことがないからお前に恥をかかせないかなと不安そうな声が聞こえてきて、今度は額と額を重ね、お前と一緒にいることが俺の自慢なのにと囁くと、流石にそのストレートな言葉にリアムの目が丸くなる。
その様子から己の言葉の意味に気付き、周知に目尻を赤くした慶一朗だったが、何も間違ったことを言っていない、その通りだと開き直った様にニヤリと笑みを浮かべると、リアムの顔に昼にも見た、まるで真夏の青空を連想させる笑みが浮かび、ああと内心嘆息した後、小さな音を立てて唇にキスをする。
「ケイ?」
「週末なんて待ってられないな────リアム、踊るぞ」
「え?・・・ああ、喜んで」
驚くリアムの足の上から立ち上がり、今日の昼とは違って今度は慶一朗がリアムに掌を向けると、見た方の鼓動が止まりそうな艶のある笑みを浮かべ、ドイツ語で踊ろうと誘いの言葉を掛ける。
慶一朗の珍しい行為に喜んでと同じくドイツ語で返したリアムは、テレビのスイッチを切るとスマホのラジオアプリからダンスミュージックばかりを流すチャンネルを選択し、流れてきた曲に合わせる様に慶一朗に手を伸ばす。
「今日はずっと踊っている気がする。こんなに踊ったのは学生の頃以来だな」
「そうなのか?」
ダンスミュージックといってもテンポの良いものからスローステップなものまで流れる為、どんな曲が流れるかを楽しみにしつつ、昼は周囲の目があって出来なかった、二人だけで満足するまでリアムの家のリビングをダンスルームにするのだった。
ヘイゼルの双眸に見下ろされ、咄嗟に覚えた羞恥から顔を背けるが、やんわりと顎を掴まれて正対する様に戻されてしまうと今日はそれ以上逆らう気持ちになれず、ならばと腕を伸ばして広い背中ではなく頭を抱え込む様にすれば、顔が見たいのにと囁かれてぞくりと背筋が震える。
「・・・俺は見られたくない」
俺の顔なんか見なくても良いだろうと、恋人に伝える言葉ではないだろうと思いつつも告げれば、宥める様なキスがこめかみや髪に落とされ、ケイ、顔を見せてくれと強請られてその言葉にも逆らえなくなってしまう。
何だか今日は午後病院で踊って以来、リアムの真っ直ぐな視線を受け止めるのが難しく感じていたのだ。
なのに、もう一度シャワーで汗を流さなければならなくなるほど二人で踊っていたのだが、その時にゆっくりと密着しながら踊れる曲の時など特に真正面から見つめることも見つめられる事も出来ない程だった。
付き合い出して半年ほど経過するが、目を見られなくなるほどリアムに意識が奪われた事が今まで無く、自分は一体どうしてしまったのかと密かに慌てていたのだ。
そんないつもとは違う気持ちが胸に溢れているのに顔を見たいなどと囁かれてしまえば逆らいたい気持ちと従いたい気持ちが綯い交ぜになり、思わず腕で目元を覆い隠した慶一朗は、これが限界だと言い放ち、小さな笑みの後にうんと頷き無理強いをしてこない恋人に気付く。
こちらが嫌だと意思表示をすれば可能な限りそれを優先し、自分の気持ちを抑え込める、恋人として最高の男の様に感じ、本当にどうしてそんな男が自分なんかを好きになるんだと、小さくなっても決して消えることのないその思いが胸に溢れるが、付き合うことを決めた時に宿った小さな明かりがその思いをそっと影の中に押し戻す様にふわりと大きくなり、熱膨張をした思いに慶一朗が苦しそうに息を一つ吐く。
「・・・リアム」
「ん?」
好きだとの告白はリアムの耳には届かずに慶一朗の口の中で篭ってしまうが、少しだけでも伝わって欲しいとの思いからリアムに向けて小さく両手を広げ、手の中に収まってくれる世界一愛嬌のある頬を両手で挟み、期待に薄く開く唇に告白できなかった思いを混ぜ込んだキスをするのだった。
慣れてきたとはいえやはりリアムのものを受け入れる瞬間は息が詰まり、シーツをきつく握りしめてしまった慶一朗は、馴染むまで無理に動かないと教える様にキスを繰り返すリアムを見上げ、自分でも意味が分からない息を一つ吐いた後、広い背中に両手を回し、遥かな昔に人類が失った翼が生えていたとされる骨が抱きしめる形になっていることに気付き、広げた手で骨の形を確かめる様に撫でる。
専門は違っても人体の作りは当然勉強している為、肩胛骨が体幹の要であることも理解していたが、普段は非現実的だのロマンチストだなと嘲笑する様なことを考えてしまい、この、老若男女誰に対しても親切で誠実なマッチョマンの背中には本当に翼が生えていたのではないかとも想像し、その姿を見て見たかったと思いつつ肩胛骨をそっと撫でる。
「気に入ったのか?」
「・・・生まれた時に生えていた翼をどこに落としてきたんだ?」
せっかく生えていた翼なのにもったいないと、心底残念そうに呟く慶一朗の言葉の意味を一瞬理解できなかったリアムは、何だってとドイツ語で問いかけながら端正な顔を見下ろせば、己が呟いた言葉の意味に気づいた慶一朗の顔が快感以外の理由から赤くなる。
「────っ!!」
今日の慶一朗は本当に嬉しい言葉ばかりを告白してくれる、本当にどうしたと嬉しさが過ぎると不安になると苦笑するリアムの言葉に、今の言葉は忘れろ、今すぐ忘れろと慶一朗が慌てふためきながら訂正だと叫ぶが、せっかくのお前の言葉なのに忘れるなんて嫌だと、流石にその言葉には従えないと反旗を翻したリアムは、頭を擡げる慶一朗の腰をぐっと掴んで引き寄せ、不意に突き上げられた衝撃に今度は枕に頭を押し付ける。
「あ・・・・・・んん・・・っ!」
不意打ちは無しだと、目尻だけではなく顔中を赤くした慶一朗が不満を快感の声の間に混ぜ込むが、忘れろなんて言うからだとリアムが反論し更に腰をぶつければ、頭だけではなくリアムが支える腰を支点にしたように背中が撓み、リアムの背中から離れた両手がシーツをきつく握りしめる。
「リ、アム・・・・・・っ!!」
荒い息の下で恋人の名を呼んだ慶一朗は、どうしたと言う代わりに見下ろされて息を飲むが、ヘイゼルの双眸に浮かぶ欲情と本能的なものとそれでも隠しきれない情を読み取り、シーツを握りしめていた手を離して再度広い背中へと両手を回す。
「・・・っ、ん、・・・は、ァ・・・」
しがみつくように身体を寄せる慶一朗がリアムの耳元で熱の篭った息を吐き、それに無意識にリアムが煽られたように腰を引き寄せ突き上げると、慶一朗の端正な顔が快感に染まり始める。
気持ち良さを隠すことすら出来なくなった慶一朗だった為、リアムにしがみつくように背中を抱きしめ、強い快感には無意識に爪を立ててしまうようで、朝になってリアムの背中を見て少し後悔してしまうのだ。
だが、抱き合っている最中はそんなことまで考えられず、ただその快感に振り落とされないようにしがみつき、堪えられない熱の篭った声を上げ続けてしまう。
喉が渇きを覚えるほどひっきりなしに上げる声にリアムが動きを早め、更に声が大きくなるが、ここまで快感に染まる声を聞かせてしまうことも珍しかったが、今夜はそれを恥ずかしいと感じる余裕がなく、ただただ強い快感に堪えられない声を上げてしまうのだった。
そして、脳味噌が焼きつきそうな快感の絶頂で白熱した瞬間を迎えた慶一朗は、しがみついていた背中から力の入らない手を滑り落とし、肩で息を整える。
「・・・悪い、ケイ」
敏感になっているだろうが、今日は中でイキたいと余裕のない声で囁かれ、気にするなと伝える代わりに広い背中に己がつけた傷をそっと撫でる。
「・・・イイ」
「うん・・・ダンケ、ケイ」
リアムの切羽詰まったような声に頷いてもう一度広い背中を撫でた慶一朗は、お前なら構わないと囁き、程なくして中に感じる熱を予想し、ふるりと背筋を震わせるのだった。
熱を吐き出した気怠い心地よさを感じつつ、背中から腕を回して抱きしめてくる恋人の腕をつるりとなでた慶一朗は、どうしたと覗き込まれたことに気付き、後始末までさせてしまったと耳まで真っ赤になりながら礼を言うと、言葉ではなくキスが頬に返される。
弛緩しきって何もできない状態−こんな状態もリアムと付き合いだしてから経験したことだった−でベッドに横臥していた慶一朗に一言断りを入れた後、リアムが後始末をしてくれたのだ。
そこまでさせたのもリアムが初めてだった為、どうしてそこまでしてくれるんだと素朴な疑問を口にすると、肩を掴まれて強制的に寝返りを打たされ、至近距離にある惚れてやまない双眸に見つめられて息が止まりそうになる。
「うん。好き、だからだな」
「・・・・・・恥ずかしいな」
「そうか? お前以外に聞かせるつもりはないから・・・」
お前だけだから多少恥ずかしくても言わせてくれと笑われ、その屈託のない笑顔に何も言えなくなった慶一朗は、今日の午後とついさっきリビングで踊ったことを思い出し、さっきまで人の快感を好き放題煽っていた大きな手を掴んで顔の前に持ってくると、訝るリアムの前で手の甲に小さな音を立ててキスをする。
「ケイ・・・?」
「病院でダンスしていた時にも言ったけど・・・」
俺はもうこの手を離すつもりはない、だからお前も離さないで欲しい、これから毎日、さっきのように踊る楽しさを感じつつ一緒にいたいと、羞恥から尻すぼみになりながらも精一杯告白した慶一朗は、同じように手の甲にキスをされ、背中に回った手で抱きしめられて分厚い胸板に頬を当てる。
「うん。離さないし一緒にいるから安心しろ」
「・・・・・・お前の言葉には金の重みがあるな」
嘘など言わないお前の言葉は素直に信じられると、不意に訪れた睡魔に負けそうになっている声で囁いた慶一朗は、分厚い胸板を通して聞こえてくる鼓動が遥か昔に経験したものと似ていると気付くが、それが何であるのかを思い出す前に眠りに落ちてしまう。
「ケイ・・・?」
不意に己の顎の下から穏やかな寝息が聞こえてきたことに気付いて名を呼んだリアムは、返事がないことに小さく欠伸をし、己にも睡魔の誘いがあったことに気づいてもう一度欠伸をして一足先に眠ってしまった恋人を守るように抱きしめ、こめかみにキスをして目を閉じるのだった。
病院で仲が良いと言われていた二人だったが、この日を境に子供たちからも楽しそうに踊っていた仲の良いドクター達と好意的に揶揄われるようになってしまい、踊るほど仲が良いし一緒に踊っていると楽しいんだとリアムなどは答えてしまい、流石にそれには慶一朗が呆れたように肩を竦めてしまうのだった。