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理玖は私の話に表面上は納得した様子を見せ、それ以上深く訊ねてくるようなことはなかった。
「このマカロン、帰る時に忘れずに持って行ってね。まど香先生のために買ったものだから。とか言って、一つ食べちゃったけど」
笑いながら謝り、理玖は机に戻る。
私も急いで立ち上がり、彼の隣に座った。部屋の時計に目をやり、あと三十分くらいは時間があるなと思っていると、理玖が声をかけてよこした。
「ねぇ、先生。ご褒美のことなんだけどさ」
「うん?」
「あれ、決めたから」
「何がいいの?」
私は恐る恐る訊ねた。ファーストフード店と家庭教師のアルバイト代は、俊一への誕生日プレゼントに使ってしまったし、彼と一緒に働いていたファーストフード店はやめた。だから、今の私には自由にできるお金があまりない。理玖は高校生だから無理なことは言い出さないだろうが、できるだけ私の手が届く範囲のものでお願いしたい。
身構える私に理玖はにっと笑いかけた。
「まど香先生と遊ぶ時間がほしい」
「……へ?」
ひどく間抜けな声だったと思う。物をねだられると思っていた私にとって、それは非常に意外なお願いだったのだ。目を瞬かせながら私は聞き返す。
「遊ぶ?理玖君と?私が?」
「そう。ダメかな?」
「いや、ダメっていうか……」
私は瞬きを繰り返しながらさらに訊ねた。
「遊ぶっていうのは、どこかに行くっていうこと?」
「うん。具体的には、気になってる店があってね。そこに一緒に行ってほしいんだ」
「気になってるお店?」
「そ。そこのパフェが美味しいらしいんだ。でもさ、ちょっと男同士では入りにくいんだよ」
行ってみたいカフェがある、しかもそこのパフェを食べたいからとは、なんとも可愛い理由だ。しかしそういうことなら、友達同士で行った方が盛り上がるのではないか。
「男同士で入りにくいのなら、クラスとかの知り合いの女子でも誘えばいいんじゃない?理玖君が声をかけたら、喜んで付き合ってくれる女子はたくさんいるでしょ」
私の言葉に理玖は苦笑いを浮かべる。
「そんなことないって」
「だって、ほら、食べきれないほどのチョコだっけ?モテ伝説、聞いてるわよ」
「あれは小学生の時の話でしょ。それに俺、別にモテないからね。学校じゃ特に、女子はまず寄ってこないね。いつも男友達とつるんでるし、愛想も良くないから近寄りがたいらしい」
「愛想が悪い?誰が?」
「俺」
「えぇっ?」
私はまじまじと理玖の顔を見た。私はにこやかな彼しか知らない。だから無愛想な彼が想像できなかった。しかしもしもそれが本当だとしたら、これだけ整いすぎたルックスだ。気軽に話しかけるには、確かに勇気がいるかもしれない。私はしみじみとつぶやいてしまう。
「せっかくの美少年が、なんだか勿体ないわねぇ」
理玖は脱力したようにため息をつく。
「美和ちゃんもよくそんな風に言ってくれるけど、いったい俺のどこが、って思うんだよね」
「あ、美和がいるじゃない。美和と行けばいいんじゃない?」
「えっ、やだよ。絶対からかわれるに決まってる」
「そうかなぁ。サクッと付き合ってくれそうだけど」
「とにかく、嫌ものは嫌なの。だからそんなわけで、俺につき合ってくれそうな人はまど香先生しか思い浮かばないんだよ」
しかし、言った傍から理玖の表情が曇る。
「あぁ、でも、先生には彼氏がいるんだよね。俺と二人で出かけるっていうのは、やっぱ、まずいか」
「いないよ」
今さらごまかす必要もない事実だからと、私は即答した。俊一の顔が思い出されて胸の傷がうずいた。気持ちを逸らすために、ぎゅっと胸元をつかむ。
私の表情の揺らぎに理玖が気づいた様子はない。
彼は満面の笑みを浮かべて、嬉しそうに身を乗り出した。
「それなら一緒に遊んでも構わないってことだよね」
「でも……」
まだぐずぐずと返事をためらっている私に、理玖はふっと表情を曇らせた。
「俺と遊びに行くの、そんなにイヤ?」
「そういうわけじゃ……」
「だったらいいよね?そのお店に付き合ってよ」
直視するのが恥ずかしくなるほど理玖の瞳が間近に迫り、私はぱっと目を伏せた。
「私でいいのかしら。気が引けるわ」
「どうして?」
「だって、自分ではそうじゃないって思ってるみたいだけど、理玖君って本当にきらきらしているのよ?周りから注目を浴びること必至の人と一緒にカフェだなんて、周りの目が恐いんだけど……」
「何なの、それは」
理玖は呆れた顔をする。
「先生って、自己評価が低いんだね。そんなこと全然ないのに。それよりも、そろそろ返事ちょうだい。これをご褒美にしてくれるんなら、俺、これまで以上に頑張れる自信があるんだけど」
理玖は期待を込めた目で私を見ている。
熱心な彼のおねだりに気持ちが強く揺さぶられ、やはりと言おうか、最終的に彼に押された形になって頷いてしまう。
「……分かった。だったら、条件の点数上げようかしら」
「えっ、それはだめだよ!後出しじゃんけんみたいじゃないか」
「分かったわよ。じゃあ、条件は最初に言った通り、七十点以上で」
理玖の目が輝く。
「絶対に七十点以上、いや、こうなったら平均八十点以上を目指して頑張るよ」
やる気に満ちた理玖が微笑ましくて、口元が綻ぶ。
「もしも平均点が八十点を超えていたら、リクエストをもう一つ聞こうかな。もちろん私にできる範囲で、だけど」
「そんならもう一つ考えておかなきゃ」
彼は胸元で拳を握り、嬉しそうににっと笑う。
その様子を眺めていた私は、ふと浮かんだ疑問を投げかけた。
「思うんだけど、その『やる気』を普段からもっと出せれば、家庭教師なんていらないんじゃない?」
「何を言い出すの」
理玖は不満そうに頬を膨らませた。
「家庭教師がまど香先生だから、やる気が出るんだよ」
理玖の言葉の真っすぐさに照れてしまう。
「嬉しいことを言ってくれるのね」
「本当のことだからね」
理玖はにっこり笑い、私の顔をのぞき込んだ。
「少しはいつものまど香先生らしくなってきたみたいだね」
「え?私らしく?」
言われて気づく。マカロンだとか、ご褒美だとか、まるで私を振りまわすかのような会話を彼と交わしているうちに、あれほどずしんと重かった心が確かにだいぶ軽くなっている。
「今日うちに来た時と比べたら、かなり表情が和らいだように見えるよ。いつものような笑顔を見せてもらえるようになるまでは、もう少し時間が必要みたいだけどね。まど香先生の弱い部分、俺にはいくらでも見せてくれていいからね」
理玖の優しさに胸の奥が熱くなり、涙がこみ上げてきそうになった。それを抑えて微笑もうとして、なんとか成功する。
「理玖君って優しいんだね」
私の声が震えていたことに気づいたはずだ。しかし彼はあえてなのか、冗談めかして言う。
「今頃気づいたなんて、遅すぎだよ。それに『意外と』っていう言い方は心外だな。最初からずっと、俺はまど香先生に優しかったでしょ?」
彼は柔らかく微笑む。
「だから今も、我慢しないで泣いてもいいよ」
彼の一言に、涙腺が崩壊するかと思った。けれど耐えた。生徒である彼の前で簡単に涙を流すわけにはいかないと、私なりのプライドを守る。笑顔を貼り付けて、理玖に倣って私も軽い口調で言う。
「ありがとう。そういう時が来たら、そうさせてもらうわ」
今度は声が震えることはなかった。
「さて、と。あんまり時間は残っていないけど、ぎりぎりまでやろうか?」
「うん」
理玖は私の言葉に素直に頷き、英語の問題集を机の上に広げた。