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それから二週間後、私は結局のところ、コミュニケーション能力の向上を行えないままに仕事へ向かうこととなってしまった。その事をシンに話しても、その取得には時間がかかるから、急な努力の必要性は無いと話す。それでも私は早期にコミュニケーション能力を高めておきたいと思ってしまう。昔からそういう人間なのだ。
「アンドレイ、おーい、生きてる?」
その言葉にハッとし、私は隣を歩くシンの方を見る。彼は不思議そうに私のことを見ていた。
「元気ならいいけど、緊張してるのかなって思って。俺もあんまり手伝いとかの経験ないし、初めから全て出来るなんて有り得ないんだから、もっと肩の力抜いていこうぜ」
それが可能ならば苦労はしないし、こんな思いもしなくていい。だが不可能故にこうなっているのだ。私は心が浮いたままに頷く。シンもそれに気付いているのだろうが、何も言ってこなかった。変わることは大変だと、彼も知っているのかもしれない。
「で、俺らが必要になった理由聞いてみたら、アンドレイと初めて会った時に、本当に来る予定だったお手伝いさん達があのカフェで話してたらしいんだ。それが殺されちゃったから、急遽ボランティアを頼んだって感じらしい」
「つまりはあなた方の殺した人の人数合わせ、という事ですか?」
私の問いに対して、意外な事にもシンは首を横に振って答え
「いや、偶然。なんか縁とかそういうの?って不思議だなーって思ってさ。まさか自分で殺した分の埋め合わせをするとはね」
シンは地図を見ながらそう話すと、歩く速度を上げていく。近年歩きながら何かをすることは危ないと言われているが、人波を上手く避けながら、赤レンガの街並みを上手く歩いていく。私はそれに遅れないように歩くので精一杯だった。駅に着くと、シンは慣れた手つきで切符をかって、地下鉄の迷宮を器用に通って行った。電車の中を無言で過ごすと、すぐに目的地のホテルへと着いた。ホテルで一番最初に出てきたのは、赤いエプロンをつけた十代くらいの若い女性だった。
「初めましてこんにちは!あなた達が来てくださった方ですね。ありがとうございます!来てください、仕事の内容を説明しますから!」
そう言い、歩き始める彼女に私は話しかけ
「まず、名乗ってもらわなければ信用ならない」
「あーはい、すみません。リカと申します」
私は宜しくと返したが、シンはその私の態度を良いと思わなかったのか、笑ってはいたが、何か不安げであった。落ち着いた赤い壁紙の通路を通り抜けると、短い草の生い茂る庭のような所へ出た。
「えーっと、お二人のお仕事は、ここで夜のパーティー用のセッティングを、私とやってもらいまーす!大丈夫、ちゃんとシエスタの時間もとるし、ご飯も出ますよ」
リカは私とシンにどのような構図にするのか書いた紙を渡すと、風船やテーブルクロスなどを沢山持ってくる。どうやら、真ん中に大きなテーブルを置いて、建物の壁に飾りは付けて、立ち食いをする形になるらしい。まあ、食事の必要のない私たちにとっては関係の無いことであるが。
「ではお二人の最初の仕事は、こっちにある机を運んでいただきます!」
私が返事するよりも前に、話を始めたのはシンだった。
「良いけど、その前に俺らも自己紹介させて貰えないか?一度きりの仕事だけど、互いのことを知っておきたいんだ」
あ!そうでした!と、赤毛の彼女は手を叩き
「じゃあ、お兄さん達も自己紹介どーぞ!」
「俺はシン、人の為になることってのが昔から好きで、それでボランティア派遣に参加してるんだ。ここは、お手伝いさんみたいな感じだけどな」
人の良い笑みを浮かべ、リカに必要最低限の内容をシンは伝えている。その言葉は人に良く思われる為の嘘なのか、事実なのかは分からないが、リカはかなり信じているようであった。
「じゃあ、そっちのお兄さん、自己紹介をどうぞ!」
「私は……アンドレイです。宜しくお願いします」
背筋を伸ばして、礼をしてそう言う。リカが宜しくお願いしますと同じように頭を下げるのが見えた。
「えーっと、それで机運びからだっけ?アンドレイ、行こうぜ」
案内してくれるリカに着いていくと、円形の大きな机が一つだけあった。質素で、どこにでも販売されている量産品の類だろう。他の仕事を手伝いに行くとリカが去ると、シンは二人がかりで運ぶことを想定されていた机を、片手で軽々と持ち上げる。
「よーし、力仕事は任せてくれ。アンドレイは風船膨らましたり、飾り付けとかの確認とかしたり、そういうのメインに頼むよ」
「えーっと、あー」
我々が人間の範疇を超えた力を出せるというのは目の前にいる彼から聞いていたが、流石に人のいるところでは普通の人間を装うものと考えていた為、私は驚きを隠せなかった。そのまま思考がまとまらず、言語にすら出来ない。
「まあ力のことは前話した通りだし、多分ちゃんと理解してるだろ。これはボランティアとして働く俺としての意見だけど、装飾に時間がかかると思うから、力仕事は早めに終わらせたい、いいか?」
前職の性なのか、目的を説明されると条件反射で返事をしてしまう。別に否定的な意見は持っていないので問題は無いが、あまり過去の自分のことや祖国のことはもう思い出したくないのだ。
「ありがとう、んじゃ素敵なパーティーの為にもがんばろうぜ!」
シンは扉や部屋の角を上手く避けながら机を運び、予定されている位置に置いた。それから、シンに指示されるがままに机にテーブルクロスを引き、それが飛んでいかないようにする花瓶を置き、その他飾り付け用のリボンや風船を指定されたようにかたちを変えてはまた決められた場所へと置いていく。誰かのために、誰かの決めたようにとものを置いていく。まるで私の生きてきた道のようにも思えた。子供の頃から軍人になることを期待され、彼らの言う祖国の為のことをこなしていく。しかし祖国亡き今、私の行った殺戮は正しかったのだろうか。夢を見て貧富のある世界へと走った彼らは本当に悪だったのか。どれほどに考えても、あの頃、あの場所ではそれは悪であった。私はそれを消しただけでありそれ以上でもそれ以下でもない、なんていう罪を逃れたいようなことしか思えない。
「だから、それはもう少し上に括りつけて。聞いてるか?アンドレイ」
「すまない、少しぼーっとしていた」
「大丈夫か?外の作業だし、もしかして気分悪くなったとか?辛かったら、リカさんに伝えて休ませて貰えるようにしてくるけど」
「大丈夫だ、で、これをどうしろと」
半ばシンの発言に被せるようにそう聞くと、腑に落ちない様子ではあったが、もう一度同じ指示を私に出す。リカが昼食の時間だと伝えに来るまで、シンの指示を聞いて私が所定の位置に飾りをつけていくのを続けていた。
「お二人共仕事が早いですね!予想よりも早く終わりそうですよー」
昼食ということで、私たちは食堂に呼ばれた。そこではリカの両親と彼女の兄の若い男性、それに私たちとは別のところから派遣されてきたボランティアの人達が座っていた。リカが全員に魚介類のオイルで味付けされたパスタを運んでくると、いただきますの挨拶をして、皆がパスタを食べ始める。隣に座っているシンも、さも当たり前のようにパスタを食べて談笑している。しかし私には、後から吐き出さないといけないことと、食道が動かないことで、作業の拍子に吐き出すことを懸念して、フォークを握る手を動かせないでいた。その様子にすぐにリカは気づき、私に英語を使って声をかけてきた。「アンドレイさん大丈夫ですか?もしかしてアレルギーとか、調子悪いとか……?」
「いや、大丈夫だ。しかし、」
流石に食べれないと言えば理由を聞かれてしまう。体調不良を理由にすれば乗り切れそうであるが、毎回のように食事の時体調不良ですをやれば、会社の耳に入ってしまう。そうすればクビにされる可能性は高いだろう。一応立場は大学生のアルバイトとは異なっているのだから。
「ごめん、アンドレイは少食で残すのも苦手だから食べ切れるか不安なんだと思う。せっかく盛り付けてくれたのに悪いけど、少し減らしてやってくれないか?」
シンは私が言葉に詰まったのに気づくとすぐに私の肩を持ちすらすらと話す。リカは納得した様子で私のパスタの皿を持つと、トングを使って量を減らしていた。
「アンドレイさん気使わずに言ってくださいねー」
リカはそう言って私の前に量を減らしたパスタの皿を置き、シンもその言葉にうんうんと頷いていた。それでも不安は残るが、これ以上言っては失礼にあたると考えて、フォークにパスタを絡めて、口に入れる。魚介類の香りを感じながらパスタを噛んでいると、シンが私の方にメモ用紙を机の下から渡してくる。そこには私がすぐに読めるようにか、他の人が読めないようにか、ロシア語で書かれていた。
“吐いてしまうんじゃないかって思うならよく噛んで細かくしてみてくれ。胃の中の異物感が減る。それと困ったら直ぐに俺に言ってくれ。一人で何でも頑張りすぎないで欲しい”
私はシンに小さく頷くと、そのメモをポケットに入れておく。言われた通りにパスタを長く噛み続ける。傍から見ても、食べるのが遅い少食な人間としか見えていないようであった。そのまま細かく切られた具材には気づかないフリをして食事を終えると、次は音楽機材の機能をチェックする仕事に入った。延長コードを三つも使い、室内から音楽を再生するプレイヤーをコンセントと繋いだ。
「ナイス延長コード!」
リカはそう言って手を合わせる。元々は彼女の提案にも関わらず、すごく嬉しそうにしている。シンが何か言うよりも前に、私は持ったこの疑問を彼女へぶつけてみることにした。「元々成功することが分かっていたはずなのになぜそうにも嬉しそうに?」
リカは浮かべていた笑みを失い、私を不思議そうにまじまじと見つめていた。これではすかさずシンがなにかフォローに入るかと思って彼を見ても、別の方向を向いて頭を掻くばかりだった。
「えーっと、アンドレイさんは真面目なんですね。そうですねー、やはり頭では成功が分かっていても、実際に見ると嬉しくなっちゃうというか、凄いなーって」
しかしどうなるかはわかっている筈だ、と続けようとする私に対して、シンが咄嗟に口を挟み
「つまりは情報量の差って事だよな。脳内でのシミュレーションが現実として出力されることで、視覚情報としてそれが認識できて、幸福という信号が多く分泌される。そんな感じ?」
その意見に私は納得する。確かに、人を殺さねばならないと言われた時と初めて人を撃った時は感覚が異なっていた。どのような訓練よりも、実戦は恐ろしかった。そのようなものなのか。
「そう!まさにそうです!シンさん語彙力ありますね!頭いいでしょ」
「まさか、それらしい言葉並べてるだけだぜ」
そう答えてシンは声を出して笑う。其の姿は、至って普通の若い人間だった。
それから、いくつか機械の動作の確認や、操作方法の確認を行い、パーティの始まる少し前には仕事は終わった。一緒に参加しないかとリカに誘われたが、これ以上食べ物を胃に入れたくないという私の意図を読み取ってか、シンが上手く断ってくれた。リカが大きく手を振って私達を外まで見送り、今は地下鉄で家のあるヴェネツィアまでの帰路についているところだ。
「どう?ボランティアは?楽しかったか?」
他の人の迷惑にならない程度の声量で隣に座っているシンは、私の顔をのぞきこんで尋ねる。まずは離れるように頼み
「そうだな……今までやった事のないことばかりな上、あなたに頼りきりだった。申し訳なく思っている」
「つまり楽しくなかった?俺も昔から人に必要以上に介入しちゃうけど……」
「なんというか、分からないんです。楽しいなんてものとは無縁の生き方だったので、今日得た感情が楽しいというものだったのか」
私はそう答えて、シンの顔を見る。アトラのように育ちが良さそうと言った感じではないが、笑顔の映える顔立ちをしているようには思える。
「良かった!俺が迷惑かけてたんじゃないかって心配だったんだ。まあ俺も若い頃は楽しいとかそういうことよく分からなかったし、何を楽しいと思うかはこれから決めていけばいい。また次の仕事頼まれるまでは俺やアレクシア、アトラとセレンとみんなで遊ぼうぜ!」
シンは私の肩の方に手を回し、こちらに近づく。あまり人に近づかれると、どこか刺されそうな気がして落ち着かないが、どうせどこを刺されても死なない。慣れるしか無さそうだ。
「出来ればコミュニケーションの練習などしてみたい。私は……常にどんな話をしたらいいのかすぐさま判断できない。今も、そのことをあなたに咎められるとばかり」
「俺はアレクシアじゃねーんだから、そこまで新入りいびったりしねーよ。それに、分かってることを俺から言ったって意味ないだろ?最初からコミュニケーションの上手いやつなんていないんだから、少しづつ慣れていこうぜ」
時間はいくらでもあるんだから、と笑うとシンは足を組む。その目はどこか遠くを見ていた。
「そういえば、アンドレイっていい名前だよな。あのイエスの弟子のペテロの兄弟で、殉教者。あるいはトルストイの戦争と平和の主人公。両親もなかなかセンスのある人なんだな」
「なんだ、いきなり。この名は元は兄の名だ。私の名前ではない」
「でもお前がアンドレイと名乗る以上、今のお前はアンドレイだ。いや、なんというか俺らの仲間って殆ど古風な名前しか持たないから、キリスト教の影響受けた名前の人って新鮮で」
「そういえば、あなたの名前に何か意味はあるんですか?英語では罪悪、ロシア語では青を指す言葉ですが」
синь、sinとはスペルは違うが、ロシア語の発音ではシンに近くなる。ブルガリア語ではсинで息子の意味を持つと祖父が言っていたと思う。
「そうそう、英語だと罪ってことになるから、会う人会う人に怪訝な顔されたよ。まあ本当の由来は幼い頃の記憶が無いから分からないけど、俺はtruth、真実って意味だと思ってるんだ」
「英語とは真逆ですね、どうして」
するとシンはメモ用紙とペンを取り出して、おそらく外国の言語と思われる字を書いた。見覚えがあるから、形的に昔住んでいた中国の文字だろう。
「この字で日本語だとシンって読むんだけど、これが真実とか飾らない気持ちとか、そういうのを指すんだ。それで、もしかしたら俺の名前もこの字から取られてて、まっすぐ生きて欲しいとかそういう意味があればなーって」
「あなたが生まれたのは日本の成立より前では?流石にありえない」
「辛辣だなー……それでも、俺はこの名前、あんまり悪い意味じゃないように思ってるんだ」
話の意図は全く分からないが、一応頷いてはおく。シンはそのようすを満足そうに見て
「まあ、こんな感じに、俺にだって分からないことはある。人間なんて特に、俺は外側からしか見れないから」
長く生きてても人生って終わりが見えないんだぜと、シンは笑うと目を閉じる。確かに少し疲れが出たように感じる。私も目を閉じ、嬉しそうに笑うリカの顔を思い出した。