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#御曹司
うめぼっち

633
鷹槻れん/鷹槻うなの

36,051
#白い結婚
夕凪ゆな
373
うめぼっち

1,598
六時二十分。
ことはは、シャッターの鍵を外した。
大寒。一年で一番寒い朝だと、暦に書いてある。石の道は、まだ暗い。街灯が、商店街の端に二つ。息が、白かった。
日曜も、この場所に立った。来なかった。母が「あんたがいる日は来ないのねえ」と二階から笑って、咳をした。今日は、母は何も言わない。眠っている。
シャッターを上げた。音が通りに響く。十月に聞いた音と、同じ音。
台に、藍色の紙を敷いた。今朝の豆大福を、一列に。源さんが工房で、父が椅子で、二階で母が咳をしている。店先には、ことはだけ。
六時二十八分。
六時三十分。
通りの端で、何かが動いた。
ことはは、手を止めた。
黒いコートだった。背が高い。帽子を、目深に。街灯の光が、後ろから当たっている。顔は、影の中にある。
歩いてくる。ゆっくりではない。速くもない。毎朝歩いている足だった。
戸の前で、止まった。
ガラス戸の向こうに、ことはがいる。台の内側に。母の立つ場所に。
男の手が、戸に掛かる。掛かって、止まる。
ことはを、見た。
影の中の顔が、こちらを見ているのが分かる。見えなくても、分かる。
戸は、開かない。
手が、戸から離れかけた。
「いらっしゃいませ」
ことはは、言った。声が、店先に落ちる。
男の手が、止まる。
それから、戸を引いた。
冷たい空気が、入ってくる。男は、戸口に立つ。中に入って、台の前には来ない。戸口で、こちらに背を向けた。
背を向けたまま、手を出す。
黒い、革の手袋。
手袋の手が、台の端に、硬貨を置いた。百円が二枚。十円が三枚。釣りが出ないように。
ことはは、豆大福を一つ、紙に包んだ。
手は、震えていなかった。包んで、台の端に、置いた。硬貨の隣に。
手袋の手が、それを取った。
取って、コートの中に入れた。
男は、まだ背を向けていた。街灯の光が、背中にある。背が高い。コートの肩の線。帽子の縁。
「毎朝」
ことはは、言った。
「毎朝、ありがとうございます」
男の背中が、一瞬、止まった。
止まって、動いた。
戸を開けて、出て行った。戸が、閉まる。冷たい空気が、残っている。
ことはは、台の内側から出る。戸を開けて、通りに出た。
誰もいない。
商店街の角を、黒い車のライトが、曲がって消えた。
ことはは、通りに立っていた。大寒の朝。息が、白い。手に、硬貨の冷たさが残っていた。手袋の手が置いた、二百三十円。
顔は、見なかった。
見なかったけれど、見た。背中と、肩と、手袋の黒と、置き方を。
工房の戸が開いて、源さんが顔を出した。
「来たか」
「……来た」
源さんは、それ以上聞かなかった。ことはは、店に戻った。台の上の硬貨を、銭箱に入れた。入れる前に、少しだけ、手の中で握った。
◇
昼、絹江が来た。
鈴の音。黒いコート。店先で、試しに作った花びら餅を一つ見た。明日の朝に仕上げる二十個の、試しの一つ。
「明日、十一時に本店の玄関で。遅れないで」
「はい」
「催事部の娘さんは、あなたを見たら乱入だと言うわ。言わせておきなさい。わたしの客よ。――社長さんから、同伴は誰だと聞かれたから、柳町の柊屋の娘だと答えておいた」
社長が、聞いた。ことはは、その言葉を頭に置いた。
絹江は、試しの一つを割って、食べた。
「社長さんは、黙って食べる人。あとは、味よ」
「……はい」
「あなた、怖い顔してる」
絹江は、鈴を鳴らして笑った。
「それでいいわ。怖い顔の職人の菓子は、おいしいから」
帰って行った。ことはは、工房を見た。明日の朝、二十個。氷川の社長の前に、柊屋の名で置く。遼の名ではなく。
工房で、源さんが花びら餅の餡を見ていた。箸の先を舐めて、黙る。黙ってから、言った。
「いい」
明日の二十個分の餡を、源さんは、今朝の常連のことを一度も聞かずに炊いた。
◇
門の灯りが切れていると、芘沢が言った。ことはは、見に出た。
石畳の上。コートを着ずに。灯りは、切れていた。見に出て、そのまま、待った。遼を。
避けられている。玄関で「行くな」と言われた夜から、遼は、ことはと顔を合わせない時間に帰り、合わせない時間に出た。芘沢がそう言った。言わなくても、分かっていた。
今夜、言うことがあった。明日のこと。行くこと。言っておきたかった。
九時過ぎ。車の音。
遼が、門から入ってきた。黒いコート。ことはを見て、足が止まった。
「何をしている」
「待っていました。明日のことを」
「聞いた。叔父から」
「……そうですか」
話が、終わった。
遼は、ことはの横を通ろうとした。通る前に、止まった。ことはの手を、見た。素手。大寒の夜の、石畳の上で。
遼は、コートを脱いだ。
脱いで、ことはの肩に、掛けた。
十月の、あの車の中と同じ重さだった。重くて、黒くて、遼の体温が残っている。
「中に入れ」
言って、先に玄関を入った。階段を上がる足音。
ことはは、石畳の上に立っていた。
コートの重さが、肩にある。
手を、袖の中に入れる。寒い。ポケットに、手が触れる。ポケットの中に、紙がある。
紙を、出した。
藍色だった。
畳んである。きれいに、まっすぐに。白く抜かれた、柊の葉。二枚。
開いた。小豆の匂いがした。紙の端に、小さなシールが貼ってある。店で、朝、包むときに貼る、消費期限のシール。母が刷って、ことはが貼る。
一月二十日。
今日の日付だった。
コメント
1件
わあ……読み終えて、しばらく動けませんでした。大寒の朝の冷たさが、そのまま胸に染みました。 ことはさんが「毎朝、ありがとうございます」と言ったところ、あの声の出し方、すごく好きです。顔を見なくても通じ合っている時間の積み重ねが感じられて。それにラスト、コートのポケットに入っていた藍色の紙……今日の日付のシール。あれ、きっと遼さんなりの「見てるよ」の証なんですよね。小豆の匂いまでする包み紙を、彼がいつ持って帰って、いつポケットに入れたのか。想像するだけで切なくて温かい気持ちになりました。 源さんが何も聞かずに餡を炊き続けるところも、絹江さんの「怖い顔の職人の菓子はおいしい」も、どの台詞も粒が立っていて、一行も無駄がなかったです。草原草原さんの描く距離感、本当に繊細で美しい……次の話が待ち遠しいです🌷