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教室の扉を開けた瞬間、空気が変わった。鼻の奥を刺すような静けさ。
何かが、昨日までと違う──いや、また一段、深化していた。
遥は黙って教室に入る。
歩き方は平然としたものに見えるが、よく見ると、片足をかばうようなわずかな引きずりがある。
頬には、まだうっすらと赤い跡が残っていた。
だが、それを隠そうとはしなかった。
誰かが、机をコツンと叩く。
その合図のように、いくつもの視線が遥に集まる。
「──昨日のさ、あれ……ほんとすごかったよね」
女子が笑った。笑っているが、目は笑っていない。
「ていうかあれ、“仕込み”? それとも“アドリブ”?」
遥は、ゆっくりと振り返る。
そして、片手で制服の襟をゆるく引いて、赤くなった首元をさらしてみせた。
「どっちだと思う?」
声は小さく、だがはっきりと通った。
「“見てくれるなら”、なんでもいいけど」
その一言に、笑いが起きる。
気味の悪い、同意のない拍手のような空気。
誰かが椅子を引いた。
誰かがスマホを構えた。
「ね、今日の“台詞”は? 昨日の『もっと壊して』って、アドリブだったんでしょ?」
遥は、机の端に腰を下ろし、片膝を抱えた。
その姿勢は防御的にも見えたが──背筋だけは、まっすぐ伸びていた。
「今日は、“もっと笑って”がいい?」
その声は笑っていたが、まったく楽しそうではなかった。
──命令される前に、言葉を差し出す。
──身体より先に、“壊される場面”を口にしてみせる。
それが、今の遥だった。
地面に敷かれた意味のない言葉。
選ばされているのに「自分で選んだ」と言い張る滑稽さ。
誰よりも早く、“自分を壊しに行く”者の虚ろな尊厳。
生徒たちは、その儀式を受け入れていた。
誰も異を唱えず、誰も“加担している”という自覚さえ持たないまま──ただ楽しんでいた。
日下部は席の背後から、それを見ていた。
(……ひどくなってる)
遥の声が、笑いが、仕草が、すべてが“痛みを含んで美しく”なっていた。
“完成されていく演技”を見せられている気がした。
そして、遥は気づいていた。
日下部の視線に。
こちらをちらりと見て、唇の端だけで呟いた。
「──まだ、足りない?」
誰に向けた言葉だったか、わからない。
だがその“差し出し方”こそが、今の遥だった。