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ひな
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「……僕がヨルです」
その文字を見た瞬間から、頭の中が真っ白になった。
12年間。
写真で見て。
動画で見て。
ステージで見て。
ずっと遠い存在だった人。
それが今、目の前にいる。
「……本当に?」
思わず、そんな言葉が口からこぼれた。
ヨルは少し照れたように笑って、頷いた。
そしてスマートフォンに文字を打つ。
『驚いた?』
私は何度も頷いた。
「驚きました……」
『ごめんね。突然言われたらびっくりするよね』
「いえ……」
何を話せばいいのか分からない。
12年間好きだった人が目の前にいるのだから、普通に話せるほうがおかしい。
しかも、私は彼の声を十分に聞き取ることができない。
緊張しているせいもあって、余計に言葉が頭に入ってこなかった。
ヨルはそんな私の様子を見て、またスマートフォンを手に取った。
『文字で話したほうがいい?』
その一言に、胸が少し温かくなった。
「……はい。お願いします」
ヨルは笑った。
『分かった』
たったそれだけのやり取りなのに、不思議と安心した。
⸻
雨はまだ降り続いていた。
窓の外を眺めながら、私は少しずつ緊張が解けていくのを感じていた。
ヨルは、私が聴覚障害があることをまだ詳しく知らない。
ただ、「聞き取りにくいんだな」と思っているだけなのだろう。
だから私は、簡単に説明した。
「私、耳が聞こえにくいんです」
ヨルの表情が少し変わった。
驚いたというより、ちゃんと話を聞こうとしている顔だった。
『そうだったんだ』
「はい」
『だから最初、僕が話しかけたとき……』
「聞き取れませんでした」
正直に答える。
『そっか』
ヨルは少し考えてから、
『じゃあ、これからは文字でも話すね』
と打った。
私は思わず笑った。
「ありがとうございます」
『でも、僕が文字を打つの遅かったらごめんね』
「大丈夫です」
『よかった』
また笑う。
その笑顔を見ていると、不思議な気持ちになった。
12年間、私はずっと「ヨル」という人を知っているつもりだった。
でも今、初めて分かった。
画面の中で見るヨルと、
目の前にいる一人の男性としてのヨルは、
少し違う。
⸻
しばらく話していると、雨が少し弱くなった。
私は時計を見る。
「そろそろ行かないと……」
名残惜しい。
でも、ここにずっといるわけにもいかない。
立ち上がろうとしたとき、ヨルがスマートフォンをこちらに向けた。
『また会えませんか?』
心臓が跳ねた。
「……え?」
思わず聞き返してしまう。
ヨルは少し恥ずかしそうに笑って、もう一度文字を見せた。
『また会いたいです』
胸の奥が熱くなった。
12年間。
ずっと遠くから見ていた人が、
「また会いたい」と言っている。
それが信じられなかった。
「……私も、会いたいです」
そう答えると、ヨルは嬉しそうに笑った。
そして、
『じゃあ、連絡先交換しよう』
とスマートフォンを差し出した。
「……はい」
手が少し震えた。
連絡先を交換する。
名前が画面に表示される。
それを見ただけなのに、現実感がなくなっていく。
――ヨル。
私のスマートフォンに、本人の連絡先が入った。
12年前の私に教えたら、きっと信じてもらえない。
そんなことを考えていると、ヨルから一通のメッセージが届いた。
『今日は会えてよかった』
私は画面を見つめた。
そして、ゆっくり返信する。
『私もです。夢みたいです』
少しして、返事が届く。
『夢じゃないよ』
その短い言葉に、思わず笑ってしまった。
⸻
カフェを出る。
雨上がりの街は、さっきまでとは少し違って見えた。
ヨルと別れる前、私は振り返った。
「今日はありがとうございました」
ヨルは笑って手を振った。
そしてスマートフォンに最後の文字を打つ。
『気をつけて帰ってね』
「はい」
歩き出す。
何度も振り返りそうになる。
でも、今日は振り返らなかった。
スマートフォンを見る。
そこには、さっき交換したばかりの連絡先。
そして新しく届いたメッセージ。
『また連絡するね』
私は小さく笑った。
「……本当に、夢じゃないんだ」
12年間の「好き」は、
今日から少しだけ形を変えた。
遠くから見ているだけだった人が、
私のスマートフォンの中にいる。
そして――
明日からは、彼と直接話せる。
そんなことを考えながら、私はホテルへ向かった。
まだ恋ではない。
まだ何も始まっていない。
ただ、
「また会いたい」
その気持ちだけが、二人の間に生まれていた。
第2話 終
コメント
5件
「また会いたい」の一言に全部詰まってましたね……。12年分の想いが少しずつ形を変えていく感覚が、繊細に描かれていてじんときました。聴覚障害の設定を、扱いづらくならず自然に物語に組み込んでいるのが素敵です。画面の中の推しと、目の前の一人の男性としてのヨルさんのギャップに気づく主人公の視点、すごく好きです。続きが気になります!