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最終話 寿命のあるとびら
春の終わり。
柔らかな風が桜の花びらを運び、
日野澪は再びアパート「ひかり荘」へと足を踏み入れた。
二年ぶりの建物は相変わらず少し傾き、
階段の軋みは昔のまま。
ただ一つ違っていたのは――
灰色と紫の二色だった扉が、今は灰色一色に塗り直されていることだった。
手すりにもたれていた大家が、ゆっくりと顔を上げる。
灰色の作業服に白髪が混じる髪、
やわらかい笑い皺が刻まれた目元。
長年ここを見守ってきた男の声は、
まるで記憶の奥に沈む音のように低かった。
「もう、あの部屋も終わりだよ」
「……みんな、どこへ行ったんですか」
澪が尋ねると、大家は古い帳面を開き、ゆっくりと読み上げた。
「猫を飼ってた青年は、あの猫を抱いて出ていった。
近くの公園で見つかったが、どちらも眠るように寄り添っていたよ。
インコちゃんは寿命。
料理の男は……夜中に姿を消した。
祭り好きの若いのは、灯りの中でそのまま倒れた。
湯の男は最後まで湯を絶やさず、ある朝、湯気だけ残して消えた。
賭け事の青年は、駅前で見たって話もあるが……真偽はわからん。
絵描きは、自分を描いたあと、ふっと消えた。」
淡々と語られるその声に、澪は目を伏せた。
胸の奥が、ひとりひとりの“気配”で満たされていく。
「あなたは、あの部屋で何か感じたかい?」
大家が静かに問う。
澪はゆっくり首を振った。
「……いいえ。ただ、誰かが生きていたような気がして。
誰かが、まだそこにいるような」
澪は灰色の扉の前に立つ。
風が通り抜け、塗装の端が剥がれ、
わずかに紫がのぞく。
指先でその境をなぞると、冷たさと温かさが混ざり合う。
そこに、みんなの気配が残っている気がした。
「……ねえ、聞こえる?」
誰もいないはずの部屋の奥から、
かすかな声が風に混じって届いた。
——「ありがとう」
——「にゃあ」
澪は目を閉じた。
頬を伝う涙が、風に触れて消える。
それが悲しみなのか、恋の余韻なのか、もうわからない。
足元の灰皿には、
猫の毛のような羽が一枚落ちていた。
澪はそれを拾い、そっと胸にしまう。
掌の中が、じんわりと温かくなった。
外に出ると、夕空は水色から緑がかった黄昏へと変わる。
風が髪を揺らし、
まるで8人分の「行っておいで」が重なったように頬を撫でた。
澪は微笑み、鞄を持ち直した。
この二年間の出来事が夢のようでもあり、
確かに“生きた時間”だった。
——寿命のあるとびら。
それは、人と人との出会いのように、いつか消えるもの。
けれど、扉がなくなっても、
その向こうにいた誰かの想いは、風となって残る。
澪はもう一度だけ振り返り、
灰色の扉に小さく頭を下げた。
その瞬間、
風の中で“おはよう”と“またね”が重なり、
澪の髪をそっと撫でた。
そして彼女は歩き出す。
もう二度と戻らない道を、
誰かの“ありがとう”を胸に抱いたまま。