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胸が苦しい。
頭がズキズキする。
指先から伝わる痒みのような痛みが、ただただ不快。
なんで?
なんでこの子達は死んでしまったの?
お腹を空かせながら、ここの家に隠れ住んでただけなのに。
みんな、親に捨てられただけ。ただそれだけなのに。
悪いことなんてしていない。
毎日毎日、私のパンを楽しみにしていただけなのに。
今日も少ししか稼げなかったけど、ウイル君のおかげでお金はまだある。
だから、みんなにパンを配れたはずだった。
なのに、なんで?
なんで死んでしまったの?
みんな、もう動かない。
両脚が潰れてしまっている子。
胸に廃材が刺さっている子。
頭がくぼんでいる子。
痛々しいまでに、死んでいる。
全員、掘りだせたけど、それだけ。大人達に手伝ってもらえなかったから、朝までかかってたかも……。
みんな、もう冷たい。
動かない。
大人達は言ってた。
明日の朝、火葬場ってところに運んでくれるって。
私に出来ることって、何?
何も思いつかない。
見つけられない。
泣いてる私を見かねたのか、変な女の人が声をかけてきた。
だけど、断った。
女神教の勧誘だったから。
神様を信じる?
ありえない。そんなのいるはずないもん。
もしもいたとして、そんな人に……、女神なんかに頼むことなんてない。
だって、助けてくれないから。
この子達が、その証拠。
ううん、私達がその証拠。
神様なんて、ありえない。
もしも本当にいるのなら、その人は何もしてくれない。
そんなことはわかりきってる。
だって、今まで一度も助けてくれなかったから。
十五年前に、お父さんが殺された。
それから、お母さんが病気で死んだ。
私は独りぼっちになった。
家にお金はあった。
少しずつ使って、生き長らえた。
お金が底をついた。
商人の娘らしく、家具を売ってお金を工面した。
家の中が空っぽになった。
もう、家そのものを売るしかなかった。
助けを求めて、王国に来た。
行き着いた先が、ここ。
子供も、大人も、みんなお腹を空かせていた。
かわいそうだったから、みんなにパンを分けた。
いっぱいあったお金がすぐになくなった。
私は、諦めた。
四年前だったかな?
もう、いいかなって思った。
だけど、神様の代わりにその子が手を差し伸べてくれた。
私より、もっと小さな男の子。
その子も貧乏だったけど、少しずつ稼いで私に手渡してくれた。
だから、みんなにパンを配れた。
時々だけど。
それでも、その子のおかげで飢え死ぬ人はいなくなった。
たったそれだけのことでも幸せだと思えた。
代わりに病気で死ぬ人が増えたけど、そればっかりはどうしようもない。
そう、諦めるしかない。
全員を救えるはずがない。
だから?
この子達も仕方なかった?
貧困街には、まだまだ大勢の子供達がいる。
死んじゃったのは、その内の十二人。諦めるしかないの?
いつ壊れるかもわからない、倉庫みたいなボロボロの家。
窓はとっくに壊れて、ただの穴。
扉も壊れて、もう閉まらない。
雨が降れば中は水浸し。
風が吹けば寒いし、ガタガタうるさい。
こんなの家じゃない。
何十年、何百年も前に放棄された、みすぼらしい物置小屋達。
だけど、私達にとっては立派な家。
唯一の、居場所。
子供達は怖がるから、何人かで。
大人達は縄張りだと主張するように、一人で。
早い者勝ちで、選んで住んだ。
その子も、寝る場所を見つけられた。
だけど、その子は朝早くに出かけて、帰りも遅い。ううん、帰って来ない方が多いかも?
お仕事は傭兵らしい。魔物を倒して、お金を稼いでいるみたい。
すごい。あんなに小さいのに。
話を聞くと、エルさんって人のおかげみたい。いっぱい無茶もするみたいだけど、なんとかなってるって。
傭兵かぁ、私にもやれるのかな?
そんな甘い考えは傭兵試験であっさりと砕かれちゃった。
だけど、エルさんに助けてもらえて、その後も手伝ってもらって、今では草原ウサギなら倒せるようになっちゃった。
だけど、稼ぎは足りない。
足りるはずがない。
千イール。私の一日のがんばり。
こんなんじゃ、パンが十個ちょっとしか買えない。
全然足りない。
普通のお仕事なら、一日で一万イールくらいは稼げるらしい。
すごい。
羨ましい。
だけど、私には無理。貧困街に住んでるってだけで断られちゃうから……。
みすぼらしいし、汚いし、臭いもんね。
だったら、傭兵をがんばるしかない。
大変だけど。
お腹もペコペコだけど。
うん、頼ってばかりじゃだめだよね?
甘えたいけど、お父さんもお母さんも、もういない。
預かったお金を少しずつ使って、私もちょっとだけ稼いで。
今日も明日もみんなにパンを配って歩く。
見捨てない。
見捨てたく、ない。
だけど、この子達は見捨てられた。
ううん、切り捨てられた?
確かに、いつ崩れてもおかしくない家だった。
雨のせいでどこかが腐ってたのかも。
だけど、四角を作るように並んでいた四軒が、同じ日に?
そんな不運、認めたくない。
こんなの、それこそ神様の仕業としか思えない。
だから、女神に祈るなんて出来やしない。
したくもない。
さっきの人は女神教の信者だった。
私がめそめそ泣いてても、信者を増やすために声をかけてきた。
そういうところが、すごく気持ち悪い。
関わりたくないし、近寄ってきて欲しくない。
だけど、一人も嫌だ。
声を、かけて欲しい。
隣にいて欲しい。
女の人がいなくなって、足音すらも消えたから、聞こえるのは私の嗚咽くらい。
夜風が寒い。
暗くて、怖い。
街灯なんて届かない。
月明かりじゃ、全然足りない。
誰か。
助けて。
心が苦しい。
胸が痛い。
このままじゃ、二度と立ち直れない……。
「大丈夫?」
この声を、私は知っている。
廃墟のような暗闇の中でも、決して間違えたりはしない。
振り向いても、あふれ出る涙のせいで景色はぐちゃぐちゃで、その子の表情まではわからなかった。
でも、心配してくれているということだけは、なんとなくわかっちゃった。
「な、なんで……、もしかして、四つとも倒壊しちゃったの? あ、あぁ……、まさか、これって、ここに住んでた子達……」
うん。大人達が布をかけてくれたけど、みんな死んじゃった。
「その手、フランさんが掘りだした……の? みんな、下敷きに?」
私の手は汚い。普段から荒れてるし、今は土まみれだし、血だらけ……。
行く当てのない私にピッタリだ。この子に触れることさえ許されない。そう思いたくなる、私の手。
だけど……。
「一先ず、温まりに行こう」
泣き続ける私。
返答すら出来ない、情けない私。
だけど、この子の小さな手が、私の手を包んでくれた。
そればかりか……。
「はは、パオラよりは重たいや。あ、今の無しで……。すみません……」
自分一人では立って歩くことも出来ない。
心も体もそれくらい、無気力状態。
だから、今は少し甘えたい。
横向きに背中と太ももを抱きかかえながら、荷物のように運ばれる。
抱っこのようで、ちょっと違う。
泣き顔をおもいっきり見られてるけど、手遅れだし仕方ない。
私の方が大人なのになぁ。あ、でも、養ってもらってるから偉そうなことは言えないか。
「ギルド会館で手当してもらいましょう。こんな時間ですけど、夜更かししてる傭兵は多いですから、その手もキュアで一発です」
確かに、手が痛い。
指先やあちこちが、ズキズキする。
だけど、一番は心。
胸が張り裂けそうに、痛かった。
痛かった……。今は少しだけ、平気……かも。
ゆっさゆっさと運ばれながら、嗚咽を少しだけ我慢してみる。
「あ、もう食堂は営業終わっちゃってたっけ? まぁ、行ってから考えましょう。んで、今晩は大浴場に入るついでに宿に泊まるってことで。あ、宿代くらいは出しますよ。実は、実入りのいい依頼が丁度片付いたところで。僕も話をしますので、今日あったことを教えてください」
この子は、確か十六歳。
私は十八歳。
年上なのに。
大人なのに。
今は涙が止まらない。
子供のようにわんわん泣いちゃう自分が、やっぱり情けない。
だけど、悲しいだけじゃ、ない。
あたたかい。
そう感じる自分が、確かにここにいる。
今は君がいてくれる。
◆
未だ放置された、小山のような大量のがれき。廃墟のような街並みにおいても、その残骸は目立ってしまう。
子供らの死体は最優先に片付けられたが、朽ちた木材については後回しだ。四棟分の小屋が崩れたのだから、後始末には多数の人手が必要だろう。
変わり果てた光景を、フランは一人ポツンと眺め続ける。緑色の髪を後頭部で束ねており、その表情はいつもより険しい。
本来は白いブラウスだがすっかり麦色に変色しており、あちこちがほつれているのはハーフパンツも同様だ。
浮浪者のような身なりだが、事実そうなのだから受け入れるしかない。
(私に出来ることって何かあるのかな?)
貧困街において、彼女の貢献は偉大だ。出資源はウイルだが、寄与された金銭をパンに変え、均等に分け与えている。
そうであろうと、無力感を抱いてしまう理由は眼前の悲劇が原因だ。
子供達が大勢死んだ。
彼らの顔は今なお鮮明に思い出せてしまうため、フランは胸の痛みに震えてしまう。
普段なら狩りに出かけている時間帯だが、昨日と今日は休養に充てている。ウイルにそうした方がいいと言われたからだが、心身ともに疲れ切っており、どの道足は動かなかっただろう。
だからこその棒立ちだ。やることもなく、無気力ゆえ、眼前の痛ましい残骸を呆けながらも眺めるしかない。
案山子のようなフランだが、小さな足音が彼女へ歩み寄る。
「こんにちは」
この声を知っている。
ゆえに、条件反射で振り返ると、想像通りの人物がそこに立っていた。
見た目だけなら十二歳前後か。実際には十六歳ゆえ、大人ではないが子供とも言い難い。
灰色の髪は随分と短く、整えられてはいないがそれでも清涼だ。活発ささえにじみ出ており、彼女ほどではないが、着ている服はあちこちが傷んでいる。
小さな体には信じられないほどの力が潜んでおり、その身体能力は魔物を屠るには十分だ。
「ウイル君……」
「体の方は大丈夫なんですか?」
少年は歩み寄り、真似るようにボロ小屋の残骸を眺める。むわっと漂う木の匂いを吸い込みながらも、フランへの気遣いは欠かさない。
「私は……、うん、もう大丈夫。ベッドで寝たのって何年振りだったかな? うん、おかげで元気になれたよ」
嘘だ。心身ともに弱りきっている。
それでも、心配させまいとフランは出まかせを口にする。
もっとも、ウイルには効果ありだ。その言葉を聞けたことで、いくらか安堵する。
「無茶しないで下さいね。あ、お金持ってくればよかったか……。一昨日少し話したと思いますが、特異個体を狩ってけっこう稼げたんです」
「うん、いつもありがと」
ウイルに出来ることは金を稼ぐことだけだ。
フランはそれを元手にパンを購入、貧困街の住人に配り歩く。
王国が見捨てようと、二人だけは見捨てない。その意志が揺らぐことはなく、微力だと自覚しながらも、この行為を止めるつもりなどない。
ウイルにとって、ここは大事な居場所だった。
母を助けるため。
学校から逃げるため。
少年はそういった事柄を言い訳にして、家を飛び出した。
引き換えに帰る場所を失ったのだから、貧困街に行き着くのは必然だ。
朽ち果てた小屋を新たな寝床として、十二歳の傭兵は新たな人生を歩み出す。
河川を風呂替わりに。
併せて洗濯も済ませてしまう。
浮浪者の知恵だ。
傭兵も旅先では同じようなことをするのだが、王国内でもそうすることが出来ると教われたことは大いに役立った。
道を踏み外し路上生活者へ落ちぶれようと、死んでいないのなら生きていくしかない。そのことを子供ながらに理解した以上、ウイルはエルディアの背中を眺めながら魔物を狩り続ける。
そのような生活を送っていれば、心身ともに摩耗して当然だ。
日中は魔物との殺し合い。
夜は旅先もしくは貧困街で野宿。
地面は硬く、服や体は砂ぼこりで汚れ、果ては昆虫の死骸さえも転がっている。
風が吹けば体温は奪われ、雨が降れば最悪だ。
それでも、この少年は耐えられた。
一重にエルディアのおかげであり、彼女がどこまでも引っ張ってくれたからこそ、挫けることなく二本の足で立てている。
つまりは、支えてもらえた。
四年もの間、ウイルは傭兵として面倒を見てもらえた。
その成果が、一人前と言っても差し支えない実力と、その精神性だろう。
傭兵の階級でもある等級は三ながら、四もしくはそれ以上が相応しい。
性格に関しては年を重ねた分、やや大人びたか。実際には子供ながらに計算高さを持ち合わせており、その二面性を時に無自覚に、時に使い分けることを処世術としている。
貴族から傭兵へ。
十二歳の子供から十六歳の子供へ。
劇的な変化と、正当な成長。
イダンリネア王国においても稀有な存在であることは間違いなく、父の働きもあってエヴィ家に戻れたが、それでもなお、平然と言ってのける。
「ここの人達に必要なことって何なんでしょうね……。いや、何が足りてないのかって言った方がわかりやすいか」
貴族の地位はほぼ頂上だ。浮浪者など、見下しながら見捨ててしまってもよい。
財産も権力もあり、そのありようはまさに月とスッポンだ。大きな屋敷にはメイドさえ雇っており、食べるものに困ったことなどない。
貧困街に住み着いた彼らには、想像すら出来ない世界だろう。
生まれた時から全てを与えられる者。
衣食住がその手からこぼれ落ちた者。
対極だ。分かり合えるはずもない。
それでも、その狭間でウイルは揺らぐ。貧困街を見捨てれば己の使命に集中出来るのだが、何一つ手放さない理由はお人よしな上にわがままな性格ゆえか。
ここの人達も救いたい。絵空事だと自覚しながらも、子供ながらに夢を追いかけてしまう。
「足りないもの……。やっぱり、食べ物になるのかな」
フランはつぶやく。叶わないとわかっていながらも、隣人の問いかけに対して本心をこぼしてしまう。
傭兵として草原ウサギ狩りに励む彼女でさえ、食事は一日二回。それも、昼におにぎり一つと夜にパン一つ。
足りていない。
足りるはずもない。
ウイルの寄付によって今だけは潤っているものの、自分一人だけが満腹になることはルール違反だと考え、普段通りの食事を続けている。
それゆえに、空腹だ。貧困街に移り住んでから、一度たりとも満腹になった記憶がない。
一方、ウイルは今日だけでも二食分食べており、栄養バランスも含めて理想的な食事で腹を満たした。
夕食も豪勢なのだろう。
それゆえに、若干の負い目を感じながらも、現状把握を終えたことで口を開く。
「そうなると、やっぱりお金……ですよね。あ、でも、現物支給でもいいのか。う~ん……」
浮浪者には何もかもが足りないが、放棄された建物を確保出来ており、衣服に関しても一度拾えればなんとかやりくり可能だ。
ならば、食事事情が最大の懸念となるだろう。
魔物以外の生き物には欠かせない要素であり、命に係わる問題だ。
「それと、お薬とか包帯も……」
「あ、確かに……」
ウイルが貧困街に住み着いて以降、餓死する人間はめっきり減ったが、病死だけは減らせていない。
栄養が足りていない上、医療の恩恵を受けられないのだから、死因が変わっただけで毎月のように死体が転がってしまう。
(医者はいる。だけど、無料でここの人達を診断してくれるはずがない……。現状でも時間と人手が足りていないっぽいから、ボランティアなんて不可能だ。国からの補助があれば話は別だけど、それもありえないし……。なんとか薬だけでも確保出来たとしても、病気によって投与する種類が違うんだから、効果は薄くなっちゃう)
現状を把握すればするほど、少年はため息をついてしまう。わかっていたことを再認識させられただけなのだが、視線を落としてしまう程度には胸が苦しい。
訪れた静寂は二人の心情そのものだ。子供達を殺した廃材を、呆けるのように眺めることしか出来ない。
息苦しい沈黙だったが、フランが振り絞るように破ってみせる。
「もし、もし叶うなら……、私、もっと強くなりたい」
人間としても、傭兵としても、そう願ってしまう。
もっとも、理に適った願望だ。
草原ウサギの討伐数を増やせたのなら、稼ぎはその分向上する。
より強敵を仕留められれば、報酬もいくらか増すだろう。
傭兵だからこその理屈であり、稼ぎを増やすためには強くなることが最短ルートだ。
「あ、丁度僕も暇してるので、だったら明日から特訓しましょう。エルさんみたいにウォーボイス使えないけど、まぁ、今ならなんとでもなるか……。うん、手始めに、ジレット大森林でトラ狩りでもします?」
「え、トラ狩りって黒トラのことだよね? 無理無理無理!」
提案自体はありがたいが、内容があまりに非常識ゆえ、彼女も動揺を隠せない。
「草原ウサギはもう楽勝でしょうし、問題ないですって。がぶっと噛まれても死にはしませんし」
「い、イヤイヤイヤ! 死んじゃう死んじゃう! 私なんかじゃ一瞬でかみ殺されちゃう!」
このやり取りに関しては、フランの方が事実を言い当てている。
ジレット大森林の黒トラことジレットタイガー。腕に覚えのある傭兵にとっては最良の獲物だ。だからと言って弱いわけではなく、大きな牙は人間の体を容易く貫き、前脚の爪は傭兵の皮や肉を深々と切り裂く。
力強いだけでなく、俊敏だ。それゆえに侮ってはならない魔物だが、今のウイルは平然と言ってのける。
「僕も昔、エルさんに連れていかれましたけど、なんだかんだありつつもなんとかなりましたよ。腕噛まれた時は死を覚悟しましたけど。ぽっかりと穴が……」
「ひえぇ……」
今となっては良い思い出だ。以前は心的外傷でしかなかったが、それ以上の負傷を重ねた結果、エルディアとの楽しい冒険に昇華された。
「大丈夫です。僕が黒トラを半殺しにしますので、フランさんがぶすっとトドメを刺してください。あ、でも、あそこってまだ封鎖されてるのかな? 後で確認しとかないと……」
魔物を倒せば、強くなれる。この世界の原理であり、その仕組みまでは解明されていない。それでも、傭兵なら誰もがその事実を経験で知っている。
腕立て伏せのようなトレーニングよりも効率的に身体能力を高められるため、ウイルの提案は的外れではない。
もっとも、実現性は二の次なため、フランは青ざめながら食い下がる。
「し、死んじゃうって、私……」
「ご心配なく。二、三体のトラに襲われたとしても、全部返り討ちにしてみせます。ちょっと遠いのが面倒ですけど……。朝一番に出発すれば、問題ないか」
ジレット大森林は遠方の土地だ。イダンリネア王国から目指す場合、いくつもの地域を渡り歩く必要がある。
徒歩なら十日前後はかかるだろう。往復ならその倍だ。
日帰りの旅であるはずがない。そのはずだが、ウイルは夜までには帰国するつもりで旅のスケジュールを練る。
「ということで、目的地が変わっちゃう可能性はありますが、明日の朝、迎えに来ます。エルさんほどスパルタじゃないので、その点はご安心を。ではでは」
言いたいことだけを伝え、少年はこの場を後にする。
一方、残されたフランは口を大きく開いたまま、微動だに出来ない。
(あわわ、どうしよう……)
不安だ。ウイルが同行してくれるのだからそこまで危険ではないのだが、彼女にとっては未知の場所と魔物ゆえ、足がすくんでしまったとしても無理はない。
(みんなにパンを配ったら、すぐに寝ないと……)
明日は人生最大のイベントだ。少ない体力を無駄使いするわけにはいかないと考え、早寝早起きを心掛ける。
(と言うか、私、等級一なんだけど……)
ジレット大森林に赴くのなら、出来れば等級三以上であるべきだ。複数人で挑むのなら等級二でも構わないが、それでもジレットタイガー相手には分が悪い。
そういった事実がフランに恐怖心を抱かせるも、先ほどまでの絶望感と比べれば、息苦しくは軽減された。
貧困街と自分達の境遇を嘆く余裕すらない。そう表現出来てしまうことも事実だが、それでもなお、彼女の心は前を向けた。
本人にその自覚はなく、ウイルも機転を利かせたわけではない。
単なる偶然だ。
そうであろうと、気が紛れたことは事実であり、彼女は明日に向かって歩き始める。
(パン、買いに行こっと)
ジレット大森林のトラ狩り。
この提案が吉と出るか凶と出るか。
答え合わせは明日、行われる。
◆
「さぁ、到着です。だけど、ここからが本番です。この調子でもう少し奥まで進みましょう」
見渡す限りの木、木、木。
その森に一歩でも踏み入れば、迷路のような世界が方向感覚を狂わせる。
土と草と樹木の匂いが濃厚なまでに混じり合い、ここが大自然の中心なのだと錯覚したとしても不思議ではない。
「あっさり、着いちゃった……。まだお昼前なのに」
ウイルの後方で、フランが怖気づくように感嘆する。
当然だ。二人はものの数時間でジレット大森林に到着した。ウイルにとっては想定通りであろうと、彼女には受け入れ難い状況だ。
「監視哨でもうちょっと足止めされるかと思いましたが、今回はあっさりと通してもらえたのでそのおかげですね。軍人さん、なぜかよそよそしかったけど、何でだろう?」
ジレット監視哨。この森の入り口に設けられた軍事基地であり、現在は封鎖されている。
ウイルは以前と同様、四英雄のギルバルド家に助力を乞い、一筆したためてもらうことで通行を許可された。
前回は駐在していた軍人との腕試しを強要されたが、今回は通行手形代わりの封書を手渡すだけであっさりと済まされた。
実は、ウイルだけが知らない。
ギルバルド家の当主、正しくは当主代理だが、プルーシュ・ギルバルドが既にこの基地へ根回し済みだ。仮に封書を見せずとも通してもらえただろう。
ましてや、それだけではない。
ウイル・エヴィ。この名を知らぬ軍人はもはやいない。ギルバルド家のお墨付きでこの地に現れた以上、彼らが委縮するのも当然だ。
(まぁ、プルーシュ様がギルバルド家だとしても、軍人さんだったら頭が上がらないってことなのかな……)
王国軍はウォーウルフ家が管轄しており、ギルバルド家に軍隊を動かす裁量権など与えられてはいない。
そうであろうと対処のしようはある。
ただただシンプルに、ギルバルド家がウォーウルフ家に頼めば済む話だ。
ウイルはプルーシュ・ギルバルドに手紙を書いてもらっただけのつもりでいるのだが、裏では大勢の大人達が動いていることを知らない。
「ウイル君。あの、疲れて……ないの?」
「はい、大丈夫です」
「す、すごいね……」
フランの表情が引きつる。
イダンリネア王国を出発して以降、最初の数十分は二人で並走するも、彼女の体力があっさりと底をついた。いかに傭兵であろうと、その身体能力は隣の少年ほど向上してはいないため、そうなることは最初からわかりきっていた。
しかし、少年は怯まない。むしろ好都合と捉え、フランを背中に担ぐや否や、常軌を逸した速度で走り出す。
だからこそ、午前中にたどり着けた。
もっとも、この地はゴールではあるものの、帰るにはまだ早い。
ここからが始まりだ。ウイルは意気揚々と森の中を突き進む。
「離れずについてきて下さいね」
「う、うん」
王国から一歩でも外に出れば、そこは魔物の縄張りだ。
ましてやここはジレット大森林。その数はマリアーヌ段丘のそれよりも幾分か多い。
そうであろうと、実は関係ない。
ウイルにはジョーカー・アンド・ウォーカーという天技があり、周囲に魔物がいるかどうかが手に取るようにわかってしまう。
方角も、数も、正確な位置さえもリアルタイムで把握出来るのだから、フランがどれほど呆けていようとその身に危険が及ぶことはない。
「ということで、早速一体目いきますよ。あそこ……、黒トラがこっち見てます」
「え? え?」
左前方を指差すウイルだが、その姿は城下町で遊ぶ子供そのものだ。腰から短剣を一本ぶら下げており、それがかろうじて傭兵らしい見栄えを演出するも、それに気づけなければ森の中を散歩する少年でしかない。
先の特異個体狩りにて、革鎧が完全に破壊されてしまった。安物ではあったものの、現在の所持金では買い直すことは不可能なため、防具もつけずに遠征中だ。
「ちなみに周囲には四体の魔物がいますが、どれも遠いので気にせずあいつに集中しましょう」
走りはしないが、早歩きで。ウイルはグングンと森の中を突き進む。
人間側も、魔物も、相手を認識しているのだから距離が縮まれば次のステップは明白だ。
「あ、唸ってる……」
「後ろにいてくださいね」
この状況がフランを萎縮させる。
初めてのジレット大森林。
初めてのジレットタイガー。
前方の大トラは遠目からでもその大きさが把握出来てしまう。周囲の木々が比較対象となってくれるからだが、夜空よりも黒いその毛色は人間に恐怖心を植え付けるには十分な迫力だ。
ましてや、その口には大きな牙が二本はみ出している。上顎から伸びるそれは凶器そのものゆえ、噛まれてしまったら最後、軽傷では済まない。
それでも、ウイルの足取りは鈍らないばかりか、迷いなく地面を踏みしめる。
獲物が警戒するように低姿勢へ移行しようとも。
歯茎を見せながらグルルと唸ろうと。
問題ない。この傭兵は一直線にジレットタイガーを目指す。
「ギャウ!」
戦闘開始だ。
無謀にも近づいてくる人間に対し、巨体が覆いかぶさるように飛び掛かる。
前脚にも鋭利な爪が備わっており、体格差も相まって出遅れたウイルに勝算などあるはずもない。
そのような常識は、フランの眼前でいともたやすく否定される。
筋肉隆々な前脚が振り下ろされるよりも先に、少年は半歩進み、真っ黒な腹部に拳をめり込ませる。
単なる殴打ながらも、その威力は絶大だ。その証拠に、巨大なトラは悲鳴を上げながらドスンと地面に倒れ、わずかに痙攣しながらも起き上がる素振りすら見せない。
「フランさん、どうぞ」
「う、うん……。本当に、ウイル君なら楽勝なんだね」
「三年前からちょこちょこと狩ってましたしね。その頃はエルさんがいましたけど……」
促され、フランはアイアンダガーを鞘から引き抜くと、死にかけの黒トラに歩み寄る。
近づくとその大きさに改めて生唾を飲まされる。尻尾を含めずとも、長身の大人よりも巨大だ。苦しそうに横たわっていようと、普通の人間ならば怖気づいて近寄るさえ出来ない。
しかし、彼女は傭兵だ。魔物を殺すことにも抵抗はないため、逆手に持った短剣をその首元に突き入れれば、命のやり取りは終了だ。
「先ず一体目~。この調子で次々と倒していきましょう」
これで満足するわけにはいかない。
旅の目的は、金策も兼ねたフランの特訓だ。魔物を倒すことで人間が成長するのだから、時間が許す限り、ジレットタイガーを乱獲するつもりでいる。
「ふうぅ、何もしてないのにドッと疲れちゃったよ~」
「最初はまぁ……。でも、すぐ次行きますよ。あ、ついでに牙の回収お願いします」
「うん。あれ、どうしよ……。ウイル君からもらったこのアイアンダガーだと、うまく切れない」
長大な牙は黒トラの大事な武器だが、傭兵にとっては貴重な戦利品だ。
売却価格は一本で五百イール。ジレットタイガーを一体殺せば、一度に二本得られることから千イールの儲けとなる。
多いようで少ない金額だが、実はからくりがある。
ジレットタイガーの牙は様々な用途に用いられることから、需要が非常に高く、その結果、傭兵組合へ収集依頼が申請されることが多い。その際は一本当たりの金額が倍に跳ね上がることもあり、そういった背景から傭兵は掲示板を日々チェックし、依頼を受領した後にジレット大森林へ遠征する。
「あ~……、年季がすごいですもんね」
ウイルが関心するほどには、彼女の短剣はボロボロだ。刃があちこち欠けており、本来は灰色のはずだが錆びてしまったのか濁ってしまっている。
通常ならば、鉄製の短剣でもこの牙は切断可能だ。
しかし、フランが握っているアイアンダガーは黒色の毛皮を貫くことは出来ても、丈夫な骨を切り落とすには至らない。
この短剣はウイルがフランにプレゼントしたものゆえ、彼女は大事に使い続けてきた。相手が草原ウサギならば別段問題なかったが、今回ばかりは役目を果たせない。
肩を落とすフランだが、落ち込む必要はないと言わんばかりに、少年が右手を差し出す。
「だったら僕のと交換しましょう。またアイアンダガーで申し訳ないですけど、ほぼほぼ新品……、新品でもないか。まぁ、でも、サクッと斬れるはずです」
「え、でも……」
「僕だったら大丈夫です。最近は素手で戦うことばかりなので。素手だときつい相手だったら、そもそもアイアンダガーなんか全然通用しませんしね。それに、今はこれがあるので……」
短剣を手渡し空っぽになった少年の右手。それが鞄の中から引っ張り出した長物は、銀色の鞘に収まった片手剣だ。
「それって……」
「ミスリルソードです。拾い物な上に折れちゃってますけど。それでも、武器としては申し分ないです。むしろ、短剣使いの僕には丁度良かったり……」
左手で支えながら引き抜くと、半分に折れたブレイドがその姿を現す。
悲惨な光景だが、ウイルは前向きだ。切れ味自体は落ちておらず、ダガーのように扱うのなら十分過ぎる性能だ。
デメリットは鞘を含めると大きいため、短剣のように腰からぶら下げるにはいささか邪魔なことか。刀のように携帯することも出来るが、この少年は隠すようにマジックバッグの中にしまっている。
「あ、ありがとう……。本当に、いいの?」
「はい、どうぞどうぞ。実際のところ、包丁代わりに使うことしかなかったので。さぁ、牙を切り落としたら、ドンドン行きますよ」
フランは厚意を素直に受け止め、催促された通りに牙を上顎から切断する。
白色のそれは金属のように硬いが、骨ゆえにそれほど重たくもなく、先端は針ほどには尖っていないが人間の命を絶つには十分な鋭さだ。
生暖かささえ感じる理由は、切り離した直後だからか。
彼女はその重みに重量以上の何かを感じつつも、二本目も素早く切り落とす。
この段階れで稼ぎは最低でも千イール。フランがマリアーヌ段丘を走り回ってやっと得られる日給だ。
傭兵の稼ぎは実力に比例する。わかってはいたが、改めてそう実感せずにはいられなかった。
「あっちにもこっちにも、うじゃうじゃいますよ。よりどりみどり、しかも独占。こんな機会、早々ありません……、テンションあがる」
ウイルの言う通り、この森には多数の魔物が息を潜めている。
ジレットタイガーはその内の一種でしかないが、傭兵ならばそれらの生息域を経験からある程度把握可能だ。駆け出しの新人には難しいが、四年の歳月は本物ゆえ、少年の足取りは踊るように軽快なステップを踏む。
その結果、昼食休憩までのわずかな時間で、二人は五体の獲物を討伐してみせた。
この状況がウイルの鼻息を荒くする。
「普段なら二本で千イールだけど、供給がゼロになったことを受けて相場が跳ね上がってるはずだから、そうだな……、倍の二千イールだとして、だとしたら、もう一万イール⁉ あぁ、狩場を独占出来るって本当に素晴らしい」
「相場ってそんなに変わるもんなんだ?」
「はい。くぅ、昨日の内に確認しておけば良かったな、迂闊……」
帰ってからのお楽しみだ。そう自分に言い聞かせ、ウイルは背負い鞄から次々と昼食を取り出す。
その光景は、フランの両目を丸くさせるには十分だった。
「ウイル君ってそんなにいっぱい食べるんだ……」
「え、僕はエルさんほど食いしん坊じゃありませんよ。どちらかと言えば小食なので。これらは二人分です。さぁ、食べましょう」
「ええ⁉」
シートの上に並べられた品々は、決して豪勢ではないものの、それでもなお光り輝いている。
海苔付きのおにぎりが四個。
籠に入れられたサンドイッチ達。
小さくて丸い、ライ麦ロールパンの集団。
干し肉、二切。
そして、緑色の饅頭は薬草が練り込まれた草餅だ。
「炭水化物ばっかりですが、傭兵らしいと言うことで……。半分こにしましょう。あ、おにぎりは四つとも海老おにぎりです。いや~、奮発しちゃいました、どんな味なんでしょうね。ぶっちゃけ、想像出来ちゃいますけど」
説明を終えるや否や、少年は茶色いロールパンをつかみ、口に運ぶ。丁度良い硬さと所々に潜むライ麦の歯ごたえ、何より素朴な味わいを気に入っており、飽きることなく毎日のように食べ続けている。
一方、フランは狼狽したまま、問いかけずにはいられなかった。
「いいの?」
「はい。むしろ断られちゃうと、僕のお腹が爆発しちゃいます。だから、どうぞどうぞ」
無理をすればウイルの胃袋にも収まるかもしれない。
しかし、そのような努力に意味はなく、なにより二人分のつもりで調達したのだから、食べてもらえた方が嬉しいに決まっている。
「じゃ、じゃあ、いただきます……」
「お、海老おにぎり、思ってたよりも美味しい。マヨネーズが良いアクセントに……。やるなぁ、傭兵組合」
ピクニックのような光景だが、事実、ウイルはこの時間を心底満喫中だ。
ここまでは計画通りに物事が進んでおり、なにより眼前には傭兵らしい昼食達。リラックスせずにはいられない。
対照的に、フランは多少の緊張感を抱き続けている。ここはジレット大森林ゆえ、いつ黒トラに襲われるかわからない。彼女の心理状態こそが正常だ。
そうであろうと、そのおにぎりを口に含めば不安など一瞬で吹き飛んでしまう。
(あ、具のあるおにぎりってこんなに美味しいんだ……。お米の味に海苔の風味が加わって、ウイル君の言ってた通り、マヨネーズがすごい。小さな海老さんもプリプリしてて……)
自然と顔がほころんでしまう。
二人は会話も最小限に、眼前の食べ物を次々と食す。空腹も相まって、紛れもなく至高の時間だ。
「あ~、干し肉の塩っ辛さと海老おにぎりって、ちょっとだけ相性良くないですね。やっぱり、素おにぎりもありなんだな」
「安いもんね」
「あの安さは僕達の味方です」
口数が少なければ、並べられた料理達はあっという間にいなくなる。
押し寄せる満腹感と満足感。どちらも幸福に直結するため、彼女としてもこの空気に浸りたくなってしまう。
しかし、この少年は草餅ほど甘くはなかった。
「じゃ、あっちにいる黒トラ倒しに行きましょう」
「えぇ⁉ もう⁉」
この俊敏性はエルディアの影響だ。一にも二にも魔物狩りを優先する彼女に鍛えられたため、ウイルもすっかり染まってしまった。
完食したため片づけもあっという間に済み、二人は食後の余韻すら省略し、森の中を走り出す。
午後もやるべきことは明白だ。
ジョーカー・アンド・ウォーカーが指し示す方角へ進み、ジレットタイガーを発見後、手早く弱らせ、フランがとどめを刺す。
この繰り返しだ。
淡々と、大きなミスもなく、順調に狩り続ける。
失敗を挙げるとするならば、ウイルが勢い余って何匹か殺してしまったことくらいか。相手も生き物ゆえ、死ぬか死なないかの絶妙な手加減が常に成功するわけもなく、そうであろうと牙集めは滞りなく進むのだから、落ち込むことなく次の獲物を目指せばよい。
空気の気温がわずかに下がったことを受け、少年が口を開く。
「ぼちぼち帰りましょうか」
この提言が狩りの終わりを告げる。
ただでさえ薄暗い森の中が黒ずみ始めた頃合い、切り上げるには丁度良いタイミングと言えよう。ここは王国から随分と離れているため、日が沈んでからでは遅すぎる。
「ヒー、ヒー、疲れダよぉ……」
「お疲れ様です。帰りもおぶりますね」
フランの疲労は最高潮だ。足は棒のように動かず、薄茶色のブラウスは首元や脇付近が汗ですっかり変色してしまっている。
(なんか……、ねっちょりしてそうで、ちょっと気持ち悪いな)
ウイル・エヴィ、十六歳。全身汗まみれで湯気を放つフランに対し、率直な感想を心の中で述べる。彼女の顔は汗以外にも鼻水と涎で汚れており、誰であろうと同じ感情を抱くはずだ。
「えっと、今日だけで黒トラを三十体も倒せましたし、稼ぎとしては上々ですよ。普段の二倍だと仮定しますと、なななんと、六万! 美味しい!」
ありえない稼ぎだ。一般的な王国民の日給が一万イール前後なのだから、本日の出稼ぎは大成功と言っても過言ではない。二人で挑んだことから山分けにはなるのだが、それでも十分過ぎる成果だ。
ましてや、今回の遠征はフランの修行も兼ねており、こちらの成果についてもウイルはわずかな手応えを感じている。
(途中から、フランさんの足が速くなってたような気がしたけど……、うん、きっと勘違いじゃないはず。無茶させちゃったから、今はご覧のあり様だけど……)
少年は罪悪感を抱きながら、二歳年上の女性を眺める。
口を大きく開いており、両手を両膝につけてゼエゼエと苦しそうに呼吸中だ。目はどこを見ているのかわからず、鼻水を拭き取る余力すらも残ってはいない。
「あの……、帰り道の監視哨で、お風呂借ります?」
「はぁ、はぁ……、うん……、そうしたい……」
有料だが、やむを得ない。本当はそのまま寝てしまいたいのだろうが、貧困街で夕食のパンを配らなければならない以上、わがままは言えない。
二人の隣には、先ほど殺したばかりの黒トラがドシンと横たわっている。牙を失ってもなお、迫力は健在だ。
フランが二個目の死体へ成り下がる前に、ウイルは彼女を背中に担ぎ、足早に立ち去る。腹を空かせて待っている者達がいるのだから、帰りは早ければ早いほど良い。
(いっきに稼ぐ……、大チャンスな気がする。同業者を出し抜くようで悪いけど、僕達の背中には貧困街みんなの命運がかかってるんだし……。今はヌレヌレなフランさんを背負ってるけど……)
ジレット大森林は封鎖中だ。本来ならば、傭兵に立ち入り許可など出るはずもない。
しかし、ウイルだけは例外だ。
貴族であり、なにより独自のツテがある。
姑息なやり方かもしれないが、背に腹は代えられない以上、この境遇を利用すべきだと考え、ある計画を思いつく。
しかし、今は口にしない。一仕事終えたばかりゆえ、故郷への帰還が最優先だからだ。
フランの生暖かな吐息を首筋に感じながら、少年は風よりも早く森の中を突き進む。
「ごめん、吐いちゃうかも……」
「や、止めてー!」
激しい振動が彼女の三半規管に襲い掛かった結果だ。
叫び声すら追い越して、その足は力強く走り続ける。
◆
翌朝、フランはまたもジレット大森林へ連行された。
筋肉痛で動けない。そのような主張はあっさりと無視され、連れ去られるような形で運ばれてしまう。
「今日から一週間、モリモリ稼ぎましょう。フランさんの鍛錬も兼ねて」
ウイルは今日も元気ハツラツだ。その証拠に、清涼な声が森の中を賑わす。
到着と同時に地面へ下されたフランだが、移動の間に説明を受けたため、諦めるように右腕を突き上げる。
「お、お~、がんばろ~……」
トラ狩りは二日目に突入だ。
それどころか、明日以降も続けたいとウイルは考えている。
「昨日だけで、なんとなんと九万イール! この森を独占出来る今、稼がない手はありません」
鼻息の粗さは意気込みの表れだ。
普段ならば三万イール程度に落ち着くはずだった。この金額ですら十分だが、供給が完全に止まっていることを受け、牙の相場は三倍にまで跳ね上がっている。
ゆえに、昨日だけで九万イールも得られてしまった。フランだけでなく、ウイルにとっても嬉しい誤算だ。
普段ならば牙集めの傭兵と出くわしてしまうのだが、監視哨が封鎖されているため、その心配はなく、ジレットタイガーを好きなだけ狩れてしまう。
ギルド会館の掲示板を眺めている場合ではない。
その必要すらない。
足しげくここへ通えば、そしてジレットタイガーを倒して牙を集めれば、大金が確実に得られる。
つい先日、オーディエンの差し金で謎の魔物が出現してしまったが、それも討伐済みなため、この地はウイルにとって問題ない狩場だ。
「先ずは一体目、行きますよー。うおおぉぉぉ!」
「既視感があると思ったら、エルさんにそっくり……。ウイル君って案外傷つきやすいから、言わないでおくけど……。って、置いてかないでー!」
徒競走のように駆け出す二人。当然ながら、ウイルが大きく先行中だ。
二日目ということもあり、要領を得ていることから狩りは順調に進む。
ジレットタイガーも、今回ばかりは相手が悪かった。
迫り来る人間を爪で切り裂こうとしても、牙を突き立てようとしても、全てが空振りに終わる。
そればかりか、次の瞬間には頭部や胴体を殴られ、その結果、骨が砕かれ内臓さえも破壊されるのだから、一方的と言う他ない。
「手加減もだいぶ慣れてきました」
「すごいよね、黒トラがギリギリ死なない程度のパンチ……」
もしくは肘鉄か。どちらにせよ、この少年は打撃だけで魔物を無効化している。
その後、フランがナイフを突き立て、牙を切り落とせば、討伐は完了だ。
二人は休むこともなく、足早に次のジレットタイガーを目指す。
昨日と何ら変わりない流れだ。昼食の献立さえも大差ない。
しかし、異変は日没後に訪れる。
本来ならば、夜の静けさが大森林を包むはずだ。二人の傭兵がこの地を去るのだから、魔物や動物、昆虫達は各々の時間をゆっくりと過ごせば良い。
そのはずだが、この森はまだまだ大賑わいだ。
「必殺……」
暗闇の中、銀色の刃がすれ違いざまにジレットタイガーを切り刻む。
頭部以外が一瞬で細切れになった理由は、腕の動作が超常的に素早いためだ。
「ヴィエン・サレーション……。一人でやると、ちょっと恥ずかしい……」
時刻は午後八時。枝葉が邪魔で夜空は見えづらいが、太陽の代わりに真ん丸の月が浮かんでおり、その周辺には多数の星々が煌めいている。
魔物さえ積極性を失うこの時間帯において、狩人はまだまだ元気いっぱいだ。
当然だろう。天技が魔物の位置を正確に探知してくれる上、それらを一体倒せばそれだけで三千イールも稼げるのだから、イダンリネア王国への帰還に時間を割きたくはない。
勝者は肉片の集まりから頭部だけをピックアップし、両顎の牙を大根のように切る。
(変化が欲しくて切り殺しちゃったけど、汚れたくないからやっぱり殴ろう)
完全な暗闇の中、ウイルは鞄に牙をしまうと、いそいそと走り出す。
先ほどまでと違い、フランの姿は見当たらない。安全のため、なによりスタミナが尽きたため、彼女の鍛錬は夕方に切り上げられ、ジレット監視哨へ送り届けた。
そこでなら食事も寝床も提供されるため、王国へ戻らずとも夜を明かせる。
だからこそ、だ。
フランという足枷から解放されたことで、ウイルは手加減なしに走り回れる。
わずかな月明りでは前後左右がほとんど見えないが、傭兵に常識は通用しない。目が慣れた頃にはオオカミよりも速く走っており、樹木を避けながらであろうとその速度を維持可能だ。
魔物からすれば恐怖だろう。ジレットタイガーも優れた視力を誇るが、その人間は暗闇であろうと関係なしに索敵可能な上、狙われたら最後、逃げることすら叶わない。
人間が魔物を狩り、遺体の一部を素材として活用する。これもまたウルフィエナの事実であり、弱肉強食のルールは誰にでも当てはめられる。
ジョーカー・アンド・ウォーカーに導かれ、夜の森を賑わす傭兵。
これは生きるか死ぬかの戦いではない。一方的な乱獲だ。
確実に。
手早く。
闇に溶け込む黒色の大トラを有無を言わさず討伐し、戦利品の牙を入手する。
その繰り返しだ。
残虐な行為に映るかもかもしれないが、その認識は正しい。魔物であろうと生きているのだから、命を奪っていることに変わりない。
もっとも、批判されたとしてもこの少年は狩りを続ける。
それが傭兵だ。
自由を求め、王国の外へ飛び出した愚か者達。
本来ならば、魔物に太刀打ち出来るはずがない。
赤ん坊と大人では、力比べすら成立しないように。
ウサギが果敢に挑んだところで、トラに食い殺されてしまうように。
考えるまでもない。勝敗は明白だ。
そうであろうと、彼らはがむしゃらに歩くしかない。
その結果の一つが、ウイル・エヴィという存在だ。
背が低く、太っていたあの頃。この少年は学校の同級生達から陰湿な暴力に晒されていた。
イジメだ。
人格を否定され、文房具を隠され、しまいにはエヴィ家さえも見下されてしまった。
耐えられるはずがなかった。
その結果、ウイルは十二歳の若さで死ぬことを選び、その方法を模索し始める。
その矢先に起きた、悲劇と奇跡。
ウイルはそれらを言い訳にして、エヴィ家と学校から逃げ出す。
なんの力も持たない子供が傭兵になると啖呵を切るも、待ち受けていた現実は非情だった。
最も弱いと定義づけられている魔物、草原ウサギ。見た目こそ、やや大きなウサギでしかないが、それでもれっきとした化け物ゆえ、鼻から勝てるはずもなかった。
ナイフ片手に挑むも、傷一つつけられないばかりか、反撃の飛び蹴りで腕の骨を折られてしまう。なんとか逃げ出すも体力は早々に尽き、あっさりと追い付かれてしまう。
死を覚悟せずにはいられなかった。
それでもこうして生きている。
一重にエルディアのおかげだ。
彼女が助けてくれなかったら、あの時あの場所で完膚なきまでに殺されていた。
魔物は躊躇しない。人間を殺すためだけに存在しているのだから、相手が小さな子供であろうと手心を加えるはずがない。
この世界の真理の一つが、殺すか殺されるか、だ。
ウイルは十二歳の若さでそのことを学ぶことが出来た。
学んでしまった。
それゆえに、格下の魔物相手にも容赦なく拳を打ち込める。日中はフランのために手加減したが、あえて瀕死の状態に追い込むという行為は即死よりもむごたらしいと言えるだろう。
(よし、今日はこれくらいで切り上げよう。フランさん、もう寝てるかな? まぁ、当然か)
さすがのウイルも満足げだ。わずかな発汗は運動量に見合っていないが、疲労感も去ることながら睡魔がすぐそばまで迫って来ている。
遭難者のように森の中で野宿しても良いのだが、どの道フランと合流しなければならないため、監視哨への帰還が賢明だ。
昆虫さえも寝静まったジレット大森林に、小さな足音だけが響き渡る。
(途中から数えるの止めちゃったけど、多分、昨日の倍どころじゃないはず……。す、すごい)
成果を振り返ると、自然とテンションが上がってしまう。
たった一日で二十万イール近くもの大金を稼げた計算だ。月給のような金額ゆえ、走りながら、かつ障害物のような木々をすり抜けながら、口元が笑みを作る。
(傭兵がトラ狩りに励むわけだ。エルさんでさえ、やることなかったらここを選んでたんだし……。ライバルが多いとその分美味しくなくなるけど、それでもある程度は見積れるんだから、うん、特異個体狩りだけじゃなくここも選択肢に入れよう)
傭兵は毎日が金策だ。
食事。
宿代。
消耗品の購入。
そして、武器や防具の新調。
生きていくためにも、仕事を続けるためにも、金がどうしても欠かせない。
その点、ウイルは恵まれている。
以前は貧困街で寝泊りしており、今は我が家に帰宅出来る。
大食漢ではない上、好き嫌いがないことから、旅先でも質素な食事を嗜み、なにより装備品がとても安上がりだ。
単純に、高額な武器防具に手が届いていないだけでもあるのだが、なんにせよ、少ない収入でやりくり出来ているのだから、その点においても傭兵の適正は高い部類だろう。
(いっぱい稼がないと……。今回は無茶するために出費もすごかったから……)
実は、所持金は残りわずかだ。
特異個体狩りと昨日の乱獲で小金持ちになれたのも束の間、牙収集に専念するためには必要経費を支払う必要があった。
イダンリネア王国に戻らない以上、貧困街の住民達がおろそかになってしまう。
それを避けるため、傭兵組合へ依頼という形でパンの配給を頼む必要があった。
依頼料とパン代は決して安くはなく、ウイルと職員は見知った間柄ではあるのだが、情に頼ることはせず、きちんと対価を支払って代行してもらうことにした。
出費はこれだけではない。
ジレット監視哨は軍事基地であり、傭兵にベッドや食事を提供する宿屋ではない。
そうであっても、料金を支払えば個室での寝泊りと食堂での食事が可能だ。
この料金が、案外高い。
ここは僻地ゆえ、食材は軍人によって運ばれる。そういった部分が金額に反映されるため、傭兵の多くは野宿もしくは王国への帰還を選択する。
ウイルとしてもそうしたいところだが、今回はフランが同行しているため、監視哨の利用は必須だった。
ここ数日で稼いだ金が吹き飛んでしまったが、後悔はない。その何倍、何十倍の収益が見込み以上、今回は勇気を出してベットした。
大金が稼げて、フランの修行にもなる。
まさに一石二鳥だ。石がぶつかる相手は鳥ではなくトラだが、ウイルは魔物に慈悲を持たない。明日以降も狩り続ける腹積もりだ。
(やってることは、エルさんの真似事なんだけど……。というか、冷静に考えてみると、僕の方が厳しかったりしないかな?)
フランのためを想っての乱獲なのだが、振り返ってみると、彼女は小鹿野のように震えていた。
鍛錬にしてもやり過ぎてしまったのか?
問題なかったのか?
答え合わせは当人に尋ねるしかないのだが、第三者が客観的な意見を述べたことで少年は顧みる。
(私から見ててもかわいそうだったよ?)
(う、そう……でしたか……。明日からは改善します)
白紙大典の言葉が、ウイルにグサリと突き刺さる。
体力差が彼女を苦しめてしまった。それに気づかされた以上、走りながらも反省が必要だ。
(ウイルって上官には向いてなさそうだよね~。そういう意味だと、エルって上手にやってたんだなぁ)
(それはないです。僕達が何回死にかけたか知ってるでしょ……)
(でも生き延びれたじゃん)
(運が良かったのと、自画自賛みたいであれですけど、僕が必死にカバーしたからです……。こうなったら、意地でもフランさんを鍛え上げてみせる)
やる気を推進力に置き換え、少年はグングンと夜道を走る。
まだ二日目が終わったばかりだ。明日以降も、この森で狩りを続ける。
好機を逃すほど、ウイルは愚かではない。
お人好しではあるだろうが、長所だと開き直れば済む話だ。
(少し、お腹減ったな……。夜食って買えるのかな? さすがに食堂閉まってるか)
それほどに遅い時間帯ゆえ、わがままは言えない。軍人さえも夢の中だろう。
間もなく、今日という一日が終わる。
そして、入れ替わるように明日が訪れる。
彼らにとっては怒涛の日々かもしれないが、この世界にとっては普段通りの繰り返しだ。
ウイルとフランも繰り返す。
明日以降も、狩り続ける。
金を稼ぐため。
強くなるため。
傭兵として生きていくためには必要な通過儀礼だ。