テラーノベル
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放課後の校舎は、まるで肺の空気をすべて入れ替えた別の生き物みたいに匂いが変わる。
開け放たれた窓から、グラウンドの乾いた土ぼこりの匂いが風に乗って届く。すれ違う運動部の生徒たちからは、熱を帯びた汗と制服の柔軟剤が混ざった匂い。そして、私が一番落ち着く、少しだけツンとする床ワックスの匂い。
高校二年生の春。クラス替えをしてからというもの、私は放課後、すぐに帰路につくことができなくなった。
新しいクラスは、決して居心地が悪いわけではなかった。いじめられているわけでも、露骨に仲間外れにされているわけでもない。ただ、いくつかの女子グループが形成されていく過程で、私はどの輪にもうまく入り込むことができなかった。
お昼休みに、机をくっつけて食べるお弁当。休日の過ごし方。誰がかっこいいだの、あの先生がムカつくだのといった、絶妙に空気を読み合い、相槌のトーンまで合わせなければならない会話。それに必死についていこうとする自分が、ひどく滑稽で、途方もなく疲れてしまったのだ。
だから私は、教室の空気が緩み始める放課後になると、逃げるように自分の席を立つ。透明人間のように息を潜めているのが一番楽だった。
図書室が閉まる午後五時。そこから下校時刻までの約一時間、誰もいない西棟の三階廊下を歩くのが、私の密かな日課になっていた。西棟は特別教室ばかりで、放課後はほとんど人が寄り付かない。
「……あ」
その日も、夕日が差し込むオレンジ色の廊下を一人で歩いていた時のことだ。
長い廊下の先、窓枠から切り取られた四角い夕明かりの中で、規則正しいリズムを刻んでいる人がいた。
シャッ、シャッ。
一定のペースでモップを滑らせている、広い背中。
色褪せた青色の作業着。少し猫背気味の姿勢。清掃員のおじさんだった。
実は、何度か見かけたことはあった。いつも無精髭を少し生やしていて、生徒たちがふざけ合いながら横を通り過ぎても、気にする素振りも見せずに黙々と床を磨いている人。生徒はおろか、教師たちでさえ、彼を風景の一部のように通り過ぎていく。
モップ掛けの邪魔をしてはいけない。そう思い、私は足音を忍ばせて壁際をすり抜けようとした。
その時だった。
カチャリ。
小さな、けれど静かな廊下には不釣り合いな金属音が響いた。
スクールバッグにつけていた、お気に入りの星型のキーホルダー。その留め具が甘くなっていたらしい。よりによって、彼がモップをかけているすぐ目の前に、それは転がってしまった。
「あ、すみま……」
慌てて拾おうと身を屈めた私より一瞬早く、節立った大きな手がそれを拾い上げた。爪の先が少しだけ白くなった、働き者の手だった。
「……落ちましたよ」
低くて、少しだけかすれた、けれどよく通る声だった。
振り向いた彼の顔を、私は初めて至近距離で見た。思ったよりも日に焼けていて、目尻には年齢相応のシワが刻まれている。三十代の後半、お父さんよりは少し若いくらいだろうか。前髪の隙間から覗く瞳は、ひどく凪いでいて、静かだった。
「ありがとうございます……あの、床、汚しちゃってすみません」
ワックスをかけ直している最中だったのかもしれない。申し訳なさで縮こまる私に向かって、彼はクスリとも笑わずに、ただ淡々と言った。
「いや。君が落としたのは星だけだ。泥じゃないから」
からかわれたわけでも、気の利いた冗談を言おうとしたわけでもない。本当にただの事実として言ったようなその奇妙な表現に、私は思わず毒気を抜かれてしまった。張り詰めていた肩の力が、ふっと抜ける。
「……ふふっ。星、落としちゃいました」
「ええ。気をつけて帰ってくださいね」
彼は拾い上げた金色の星を私の掌にそっと乗せると、再びモップの柄を握り、何事もなかったかのようにオレンジ色の廊下の奥へと進んでいった。
シャッ、シャッ。
規則正しいその音が、なぜか私の胸の奥で、いつもより少しだけ早く跳ねた心臓の音と重なっていた。
掌に残るキーホルダーは、彼の体温のせいか、それとも西日のせいか、ほんの少しだけ温かかった。彼が背を向けた時、胸元に『田中』という白い名札がついているのが見えた。
翌日も、私は五時を過ぎてから西棟の三階へ足を運んだ。
別に、用事があったわけじゃない。ただ、あの静かなモップの音と、ワックスの匂いがする廊下を歩きたかっただけだ。と、言い訳のように、図書室で借りた文庫本を抱えながら。
廊下の角を曲がると、今日も彼はそこにいた。
昨日と同じ青い作業着。昨日と同じリズム。まるで時間がそこだけ止まっているかのような錯覚に陥る。
私は少し離れた場所で立ち止まり、彼が通り過ぎるのを待つふりをして、その横顔を盗み見た。
誰とも話さず、ただ黙々と床の汚れを見つめる瞳。大人たちはみんな、スマホを見たり、しかめっ面で忙しそうに歩き回ったりしているのに、田中さんはただ、今、目の前にある床を綺麗にするということだけに全身全霊を傾けているように見えた。
その姿が、クラスで透明人間になっている自分の姿と重なったのか、それとも全く対極にある芯の強さに見えたのか、私には分からなかった。ただ、ずっと見ていられる気がした。
「……今日は、星は落ちませんか」
不意に声がして、私はビクッと肩を揺らした。
いつの間にか、田中さんが私の数メートル先まで進んできていた。モップを持つ手は止めていないが、顔だけはこちらを向いている。
「あ……はい。今日は、しっかりつけてきたので」
私はカバンを抱え直して、ぎこちなく笑った。
「そうですか。それは良かった」
またしても、彼は表情を崩すことなく、淡々とそう言った。冷たいわけではない。ただ、感情の波風が立たない、静かで平坦な声だった。
そのまま通り過ぎようとする彼の背中に向かって、私は思わず声をかけていた。
「あのっ!」
ピタリと、モップの音が止まる。振り返った彼に、私は口を開いたものの、何を言うべきか分からず言葉に詰まった。
「……いつも、綺麗にしてくれて、ありがとうございます」
絞り出した言葉は、優等生が言うような薄っぺらいものだった。けれど、田中さんは一瞬だけ目を丸くした後、今日初めて、ほんの少しだけ目尻を下げたような気がした。
「仕事ですから。……気をつけて帰って」
それだけ言うと、彼はまた西日の射す廊下の奥へと消えていった。
その日から、放課後の西棟三階は、私にとっての逃げ場所から、一日に一度だけ訪れる楽しみな場所へと、少しずつ形を変え始めていた。
それが、どうしようもなく苦しくて、甘い痛みの始まりだとは、十六歳の私はまだ気づいていなかった。
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夏目萌*優しい彼~コミカライズ
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コメント
1件
読み終えました……🥀 すごく、好きな作品です。 放課後の校舎の匂いとか、クラスで透明人間みたいになってる主人公の心情とか、全部がリアルで胸がぎゅってなった。 特に「星だけ落としたんだ」って田中さんの言葉、めちゃくちゃ印象に残ってる。 あの一言で、張りつめてた空気がふわっとほどける感じがした。 静かな背中と規則正しいモップの音。 たったそれだけの日常が、彼女にとって特別なものに変わっていく過程が、丁寧で美しかったです。 続きがすごく気になる。