テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
※注意
今話以降、夏目漱石の「こころ」のネタバレが多くあります。嫌な方は、ここでブラウザバックを推奨します。
それではどうぞ。
—————————————————————————————————————————
西棟の三階に通うようになってから、私の日常は少しだけ色を変えた。
相変わらず教室の空気は息苦しかったけれど、六時間目のチャイムが鳴るのを待つ時間が、ただの苦痛からの解放ではなくなったのだ。早くあの静かな廊下に行きたいという、明確な目的へと変わっていた。
田中さんは、毎日同じ時間に西棟に現れるわけではなかった。一階のトイレ掃除をしている日もあれば、体育館の裏手でゴミの分別をしている日もある。だから、彼が西棟の三階にいるのを見つけた日は、それだけで当たりくじを引いたような、得体の知れない高揚感があった。
五月の半ば。その日の放課後は、少し蒸し暑かった。
いつものように西棟へ向かった私は、廊下の角を曲がる手前で足を止めた。モップが床を擦る、あの規則正しい、シャッ、シャッという音が聞こえなかったからだ。
今日は外れの日か。そう落胆しかけた時、廊下の突き当たり、非常階段へと続く踊り場の隅に、青い作業着の背中を見つけた。
田中さんだった。
彼は清掃用具のカートを傍らに置き、窓枠のわずかな段差に腰を下ろして休憩しているようだった。足元にはプルタブが開け放たれた缶コーヒー。そして、少し前かがみになった彼の手の中には、一冊の文庫本があった。
私は息を潜め、少しだけ身を乗り出して彼を観察した。
無精髭の生えた横顔は、モップを掛けている時と同じように真剣で、静かだった。ページをめくる指先は荒れていて、関節が太い。その無骨な手が、小さな文庫本を大切そうに包み込んでいるアンバランスさに、私はなぜかひどく惹きつけられた。
背表紙の色が褪せた、岩波文庫の古い本。
夕日が差し込む角度が変わった瞬間、表紙の文字がかすかに見えた。
――こころ。
夏目漱石だった。現代文の教科書で一部だけ読んだことのある、あの有名な小説。清掃員のおじさんが、休憩時間に古い純文学を読んでいる。その事実が、彼をただの風景から物語を持った一人の人間へと、私の中で決定的に変えてしまった。
「……こころ」
声に出さずに唇だけでそのタイトルをなぞると、私は足音を立てないようにゆっくりと後ずさりし、そのまま図書室へと駆け出した。
薄暗くなりかけた図書室の奥、日本文学の棚。古い本のインクと紙が酸化した特有の匂いの中で、私は同じ岩波文庫のこころを見つけ出した。貸し出し手続きをしてくれた図書委員の女の子が、「珍しいの読むんだね」と少し驚いた顔をしたけれど、私は曖昧に笑って誤魔化した。
その夜、自室のベッドに寝転がりながらページを開いた。
旧字体の混じる古い言葉遣い。人間のエゴイズムや、嫉妬、そして先生(こころの登場人物)の抱える暗い過去。正直に言って、十六歳の私には難解で、少し退屈だった。ページをめくるスピードに慣れきった頭には、その一行一行が重たかった。
それでも、私は読むのをやめなかった。
今、あの田中さんもこの同じ文字の羅列を目で追っているのかもしれない。彼が見ている世界を、少しでも覗き込んでみたかった。同じ景色を見ていれば、いつか彼と話す理由になるかもしれない。不純な動機だったけれど、それは私にとって、必死の背伸びだった。
それから一週間後。
私は西棟三階の空き教室の前にある、木製のベンチに座っていた。膝の上には、半分ほどまで読み進めたこころが開かれている。
遠くから、聞き慣れた足音と、カートの車輪が転がる音が近づいてきた。
心臓が、ドクン、ドクンと嫌なほど大きく鳴り始める。活字の上を滑る私の目は、もう完全に文章を捉えられなくなっていた。
音が、ベンチの数メートル手前で止まった。
「……まだ帰らないんですか」
頭上から降ってきたのは、低くて、少しだけかすれたあの声だった。
顔を上げると、田中さんがモップの柄に両手を重ね、不思議そうに私を見下ろしていた。相変わらず表情は平坦だったが、少しだけ困ったような色が瞳に浮かんでいる。
「あ……はい。本、読んでて。ここ、静かだから」
声が震えないように必死だった。私は膝の上の文庫本を、少しだけ彼の方へ傾けて見せた。
田中さんの視線が、表紙のタイトルに落ちる。その瞬間、彼の細められた目が、わずかに見開かれたのがわかった。
#シークレットベビー
夏目萌*優しい彼~コミカライズ
1,381
宇津Q
2,059
鷹槻れん

53,214
「……漱石」
「はい。……田中さんも、読んでましたよね。先週、踊り場で」
言ってしまってから、しまった、と思った。「覗き見していました」と自白しているようなものだ。顔から火が出そうになる私を見て、田中さんは小さく息を吐いた。
「見られてましたか。……お恥ずかしい」
「恥ずかしくなんてないです!」
勢いよく否定した私の声が、誰もいない廊下に響いた。田中さんは少し驚いたように私を見た後、自嘲気味に、本当にわずかにだけ口角を上げた。彼が笑ったのを、私は初めて見た。
「渋い趣味ですね、高校生なのに」
「……実は、結構難しくて。まだ『先生と私』のところなんですけど」
「ああ。あの、先生が鎌倉の海で出会った青年に、妙に冷たく当たるあたりですか」
「そうです! 先生って、なんだかずっと壁を作ってますよね。親切なのか、冷たいのかわからなくて……」
田中さんはモップから手を離し、壁に軽く寄りかかった。彼が清掃の手を止めて誰かと話すこと自体が、奇跡のように思えた。
「先生は、他人を信じていないんですよ。……というより、自分自身を一番信じていない。だから、純粋に慕ってくる若者が、いつか自分を裏切るんじゃないかと恐れているんです」
夕暮れのオレンジ色の光の中で、田中さんの声はひどく静かに、けれど深く響いた。その言葉は、ただ小説の解説をしているだけのはずなのに、なぜか彼自身のことを語っているように聞こえて、私はハッとした。
「……大人って、そういうものなんですか?」
「さあ。どうでしょうね」
田中さんは視線を外し、窓の外のグラウンドへ目を向けた。野球部の金属バットの音が、遠くからカン、と響く。
「少なくとも、君たち高校生が思っているほど、大人は立派でも、賢くもありませんよ。ただ、自分のずるさや弱さを隠すのが上手くなるだけです」
それは、教師たちが言うような、大人になればわかるといった上からの説教ではなかった。私を子供扱いせず、一人の人間として対等に言葉を投げてくれている。それが、どうしようもなく嬉しかった。
教室で交わされる、誰が誰を好きだとか、どのリップの色が可愛いかといった会話よりも、今この薄暗い廊下で、清掃員のおじさんと交わす古い小説の立ち話の方が、私にとっては何百倍も鮮烈で、本物だった。
「……私、最後まで読みます」
私が真っ直ぐに見つめてそう言うと、田中さんは少しだけ困ったように眉を下げた。
「無理して読む本じゃありませんよ。暗いですし」
「無理してません。……読み終わったら、また、感想を聞いてくれますか?」
心臓が口から飛び出そうだった。これは明確な約束の要求だ。拒絶されたらどうしよう。痛い女子高生だと思われたら。
数秒の、永遠にも似た沈黙の後。
田中さんは壁から背中を離し、再びモップの柄を握り直した。
「……仕事の邪魔にならない程度なら」
それだけ言い残して、彼は再び床を見つめ、シャッ、シャッと規則正しい音を立てながら廊下の奥へと進んでいった。
残された私は、ベンチに座ったまま、熱くなった自分の頬を両手で包み込んだ。
ワックスの匂いと、古い紙の匂い。
これが恋なのだと、私はついに認めるしかなかった。
コメント
1件
ああもう、マジで胸がぎゅーってなったよ……!!😭💕 不器用な大人と不器用な高校生が、『こころ』をきっかけにちょっとずつ心を重ねていく感じ、尊すぎんか!? 「仕事の邪魔にならない程度なら」って、田中さん優しすぎるし、それでいて距離感わかっててエモい……。 思わず自分も『こころ』読み返したくなったよ〜📚✨ 続きが待ちきれん!