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ベッドの上、遥はほとんど動けずにいた。体が重い。制服の前は半ば乱れ、腕の内側には赤く細い痕が浮いていた。
ボタンが一つ、床に落ちている。息を吸っても、肺の奥まで届かない。
──見られていない。
そう思うことで、かろうじて自我を保っていた。
教師も、他の生徒も、今この部屋には誰もいない。
このまま十分だけ眠れば、すべてなかったことにできる。
目を閉じた、その時だった。
静かに、保健室のドアが開く音。
足音は一人分。ゆっくりと、ためらいもなく、カーテンの内側へ向かってくる。
そして──視線。
刺すような目の感触が、閉じた瞼を貫いた。
遥は、はっとして目を開けた。
そこにいたのは、日下部だった。
遥の脳が、理解を拒んだ。
どうして。
どうして、ここに──。
彼は制服を着ていた。ここの制服だ。
転校してきた? いつ? なんで?
誰にも聞いていない。そんな話はなかった。
「……な、んで」
遥の喉はかすれていた。声になっていなかった。
言葉の形だけが口の中で崩れていった。
日下部は、何も答えなかった。
ただ、じっと遥を見下ろしていた。
その目は、かつてと同じ。人を“人”として見ない目。
冷たく、空っぽで、残酷なほど静かだった。
「……相変わらず、だな」
口元だけが動いた。
声は乾いていた。懐かしさなど一欠片もない。
ただ、「見下ろす」というための距離で発された音だった。
遥の背に、冷たいものが走る。
ここでは誰も、日下部のことを知らない。
クラスにも、教師にも、まだ紹介されていない。
それなのに──なぜ彼は、真っ先にここへ来た?
遥の視線が揺れる。日下部の目とぶつかりそうになって、逸らした。
見たら、もっと深く崩れる気がした。
「何も言ってないんだろ?」
日下部が言った。
それは、確かめるようでいて、確信めいていた。
「おまえが喋るような奴じゃないのは、昔から知ってる」
遥は、喉が痛くなるほど唾を飲んだ。
言葉が出ないのではない。出してはいけないと身体が判断していた。
日下部の言葉が何を意味するのか、遥にはわかっていた。
けれど、彼がどこまで知っていて、何を狙っているのかはわからない。
この保健室に、なぜ彼が現れたのかも、説明がつかなかった。
「……なにしに来た」
遥は絞り出した。
声は低く、かすれていたが、確かに怒りが混ざっていた。
混乱と恐怖を押し込めるように、声にした。
日下部は微かに笑った。
それは嘲笑というより、ただの確認だった。
「おまえがまだ、壊れてないかどうか、見に来ただけ」
そして、それだけ言うと、何も言わずに踵を返した。
足音が遠ざかる。ドアが閉まる音がして、再び静けさが戻る。
遥は身動きひとつ取れなかった。
瞼の裏に、日下部の目と声が焼きついていた。