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北陸鉄道石川線の踏切を渡った交差点角に西村が住む|10階建ての高層マンション《ダイアパレス金沢》がある。西村がダイアパレス金沢を購入するに至った経緯は勤め先の北陸交通本社まで徒歩10分と通勤の利便性が高く、また、この10月から通い始めた息子の|洸《こう》の幼稚園も近かった。
北陸交通株式会社本社は西村のマンションの斜向かい、低層マンションやテナントビル、私立高等学校が並ぶ住宅街の一角にある。社屋外観は打ちっぱなしのコンクリート3階建で敷地内には洗車場と5階建ての鉄筋コンクリートの立体駐車場があり140台のタクシーを停める事が可能だ。
社屋の3階は社長、部長、佐々木次長が机を並べる事務室、2つの会議室、労働組合。2階は運行管理事務所、配車センター、ドライバーの売り上げ精算所があり、1階にはドライバーの休憩所、喫煙室、トイレ、個人ロッカーがある。
住宅街に隣接という立地条件から”タクシー洗車は静かに”が基本原則だが所有台数を考えればそこそこ賑やかしく、周辺住民からは度々苦情が寄せられていた。
ところが今日は物々しい雰囲気で静まり返り、立体駐車場1階、その一角には黄色い規制線が張られ2人の巡査が仁王立ちしていた。奥の暗がりには106号車と124号車の2台のタクシーが並び、女性リポーターがマイクを片手に”川北大橋タクシードライバー強盗殺人事件”の第一報をすっぱ抜こうと今か今かと待ち構えている。
そんな時、大通りの交差点では信号が赤になり、矢印信号機で右折した1台のシルバーグレーの捜査車両がガコンと路肩の段差に乗り上げて敷地内に進入した。車内の助手席では口元をへの字にした竹村が飛び上がった。
「久我、安全運転と言っただろう」
「申し訳ありません、猫が」
「あぁ。猫な、猫なら仕方ないか、な訳ないだろう。気をつけろ」
「申し訳ありません」
捜査車両から降り立ったのは久我警視正と竹村警部だった。カメラのフラッシュが瞬く中、敬礼する巡査たちに|それ《敬礼》は必要ないと手を下げさせ、社屋の裏手にあるドライバーの休憩室に面したアルミ製のドアノブに手を掛けた。
建物内に足を踏み入れた瞬間、何とも表現し難い男臭さとモッタリと纏わりつく加齢臭。また、非喫煙者の2人はそのニコチン臭にも閉口した。
天井の細長い電灯は節電の為だろう、休憩用の長机とパイプ椅子、飲料自動販売機周辺以外はスイッチが消されていて全体的に暗い。薄汚れた壁にはいつ頃に貼られたか分からない”STOP THE スピード違反”のポスターが色褪せ、その奥のロッカー室は真っ暗で底が知れない。
「こりゃあ、酷いな」
「はい」
窓ガラスから差し込む陽の明かりにテカテカと光るビニール製の緑の床、所々に靴底で擦った跡が付いている。滑り止めが剥がれ掛けた階段、2階の運行管理事務所を覗くと管理者の山田が軽くお辞儀をした。
隣の配車センターでは配車依頼の入電、ドライバーからの無線と慌ただしい。
4台の長机では数人のドライバーがその日の売り上げ金を運行管理表と照らし合わせながら精算作業に勤しんでいる。
気が付いた1人が久我の顔を見て怪訝そうな顔をした。竹村が指で上の階を指すと、管理者の山田が銀縁眼鏡を指でくいっと上げて”そうです”とばかりに頷いた。
「おふたりさんは3階だそうだ」
「そのようですね」
106号車と124号車以外の4台は”川北大橋”から全く離れた場所から駆けつけて来ていた。それはドライバーの証言やタクシーに内蔵されていたSDカードの録画録音、配車センターGPS配車の記録にも合致し4人のドライバーは指紋採取の後、帰された。
残る2台、2人のドライバーには《《尋ねたい事》》が幾つかあり|篩《ふるい》に残った。
「久我、お前、誰と《《挨拶》》したい?」
「竹村さんは誰と」
「俺は第一発見者の106号車だな」
「では、私は一番初めに駆けつけた124号車のドライバーの聴き取りですね」
「頼むわ」
「はい」
竹村の革靴の音に久我が続く。3階の踊り場では階下の喧騒は嘘の様に静まり返り、空気も幾らかマシになった。
「話によっちゃあ、明日にでも署までご足労願わんといかんな」
そして2つのドアが開かれた。
(・・・・朱音、朱音だ)
これから警察の事情聴取を控える西村は、殺人を犯した人物が山下朱音では無いかと大凡の見当は付いていた。然し乍ら、自身の不倫行為が明るみに出る事を恐れ、その件を警察官に話す事は躊躇われた。
ただひとつ、その事ばかりに気を取られていた西村は重大な事を失念していた。山下朱音の自宅は西村の住むマンションの目と鼻の先だった。