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蘭日は公式…蘭日は公式……(洗脳電波)
「おい、日本。」
ぶっきらぼうながらも優しく、鼓膜に染み込むような低い声。
あぁ、夢だ。
咄嗟にそう思う。
「…オランダ、さん。」
かすれた声に、端正な顔が心配そうに歪んだ。
「すまん、無理させたか。」
「寝起きだからですよ。」
そうか、と安心したように頷いて、大きな影が離れていく。
ぼんやりと彼の痕跡が残る布団を見つめる。月明かりで布団のシワがよく目立つ。
しばらくそうしていると、鼻先をかすめる火の匂いに気付いた。
カチャカチャと陶器の擦れるような音がする。
「お煙草?」
以前話しながら絵を描いて盛大に失敗してからというもの、作業中の彼は手元ばかりに意識を向ける。
それが何だか面白くなくて、そう言って背中から腕を回した。
「…いや、今日はこれ。」
肩に顔を埋めると、彼の指先に器が見えた。
つやつやと透明感のある落ち着いた輝きを放つ、桜が描かれた染め付け。
「…聞香炉?」
「正解。」
香の匂いは『聞く』なんだってな、とオランダさんが呟く。
「よく知ってますね。嗜んでても『嗅ぐ』って言う人多いのに。」
唇の端が得意げに上がっているのを見て、思わず笑みが漏れた。
もうちょっと待てよ、と長い指が忙しなく動く。
くるくると香炉を回しながら火箸が中心に灰をかき集め、灰押さえに持ち替えた右手が灰の山を整える。
少し面倒だったのか、オランダさんはつまんだ銀葉…雲母製の板…で火窓を開いた。
刻まれた香木が慎重な手つきで松葉の上に鎮座させられる。
「ほら。」
「ふふっ。」
胡座をかいた長い足の上に座り、肩にもたれかかった。
オランダさんが湯呑みのような香炉の口を手で塞ぐ。
「いつものよりお上品な匂い。」
「よくわかるな。」
「ふふっ。五感の中で一番記憶に残るのは嗅覚だそうで。」
「インドネシアから持ってきたからな。ちょっと品種が違うらしい。」
「こっちのが好きです。」
ふわり、と少し開いた手の隙間から煙が立つ。
「そうだろうなと思った。」
タバコとは違い、漂うことなくスッと消えていく煙を眺める。
藍色の空に流れるそれは天の川のようで、掴めそうだな、とオランダさんが手を伸ばした。
不用心に晒された首筋に情事の痕を見つけ、腹が疼く。
「……猫が酔うのはマタタビじゃなかったか?」
期待で濡れる瞳に、揶揄うように笑うオランダさんが映る。
「…わかってるんだったら焦らさないで。」
***
頬に硬い感触。どうやらデスクで寝落ちしてしまったようだ。
慌ててファイル保存の確認をする。
「……ん?」
パサリ、と何かが落ちた。
「……ジャケット……?」
当然自分のものではない。今着ている上、そもそものサイズが永遠にお世話にならなさそうなものだ。
持ち主の手がかりを得ようとポケットを探ると、ふわり、と柔らかな甘い香りがした。
『五感の中で一番記憶に残るのは嗅覚だそうで』。
かつての自分が囁く。
香水によくあるような華美な花の香りではない。
しゃらしゃらと鈴の音がしそうな、静かで、優しくて、少しスパイシーな…人の手では作り出せない、複雑な香り。
白檀、と呟きが漏れた。
『いつか、離れてしまうんでしょうね。私たち。』
そんなことを言ったのは、確か、江戸の終わりの頃だった思う。
すっかり習慣になった優しい煙の香りを思い出す。
『…そこまでの仲だった、ってことだ。』
否定するでもなく、悲しむでもなく。そう答えた彼に貴方らしい、と笑った日が懐かしい。
あの時彼は、少し乱暴にキスをしてくれたっけ。
あの無骨な手も、少しだけ微笑む唇も、自分を前に昂る熱も。
もう何一つ、自分のものではないのだ。
立ち昇る香りが胸にたまり、消えない澱を作る。
駄目だ、と思いながら、どろりと肺にまとわりつく甘い毒を吸い込んだ。
「……早く、離して。」
幸せの残滓をかき集めるように、黒い布切れを抱きしめた。
箱庭での幸せな記憶は戻らないことを示すように、白と黒に色褪せている。
(終)