テラーノベル
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病気の事を、
私は最後まで詳しく話さなかった。
「ちょっと体が弱いだけ」
そう言って、
いつも通りに笑った。
その笑顔が、
あまりにも自然だったから、
彼は疑わなかった。
― 疑いたくなかった。
病院に行くと言われても、
「すぐ戻るから」と言って、
それ以上は聞かなかった。
選び直した時間は、
穏やかで。
穏やか過ぎて、
終わりを想像する余地がなかった。
倒れたのは、
何でもない午後だった。
約束していた時間。
コーヒーを買って、
少し歩こうって話していた日。
連絡が来ない事を、
最初は気にも留めなかった。
「疲れて寝てるのかな」
そう思って、
もう1度だけメッセージを送った。
返事は、
来なかった。
病院からの電話で、
世界が崩れた。
医師の声は、
丁寧で、冷静で、
残酷だった。
「…残された時間は、長くありません」
理解出来る形になるまで、
彼には時間が必要だった。
病室で再会した私は、
驚くほど静かだった。
管に繋がれて、
それでも、
彼を見つけると笑った。
「…来てくれたんだ」
「当たり前でしょ」
声が、
震えていた。
「…ごめんね」
私が、
先に謝った。
「何が」
「…言わなかった事」
彼は、
何も言えなかった。
言えなかったから、
手を握った。
冷たい。
あの頃から、
ずっと冷たかった指。
「…覚えてる?」
私が、
小さく聞く。
「何を」
「…最初に会った日」
忘れる訳がない。
記憶がなくても、
戻っても、
何度でも思い出す。
「…あの日、あなたは何も持ってなかった」
天井を見つめたまま、
言う。
「名前も、居場所も」
少しだけ、
彼を見る。
「…でも、ちゃんと生きてた」
彼の胸が、
痛むのが分かる。
「…私ね」
息を吸って、
吐いて。
「選び直せたって、思ってる」
「…」
「記憶がなくても、戻っても」
小さく笑う。
「…もう1回、好きになれた」
その言葉で、
彼の心が壊れた。
「…俺は、何も守れなかった」
首を振る。
「違うよ」
ゆっくり、
でもはっきり。
「…私を、生かしてくれた」
短くても、
幸せだった。
その夜、
私は眠るように、
静かに息を止めた。
苦しそうじゃなかった。
ただ、
音が消えるみたいに。
彼は、
その場で泣かなかった。
泣けなかった。
葬儀の日、
空は不思議なくらい晴れていた。
彼は、
私の部屋に戻った。
もう誰もいない部屋。
ピアノの前に、
1枚のメモがあった。
「忘れても、それでも、音は残るよ」
彼は、
鍵盤に触れた。
震える指で、
1音だけ鳴らす。
それは、
私がよく弾いていた音。
拍手も、
歓声もない。
それでも、
確かに響く。
― 拾った音。
私は、
もういない。
でも、
選び直した時間は、
消えなかった。
失っても、
終わりじゃない。
それを、
私は教えたかった。
彼は、
その音を抱えたまま、
生きていく。
忘れないためじゃない。
生きるために。
― 完。
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