テラーノベル
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それは、
ある意味で、とても静かに起きた。
夜。
私はソファで本を読んでいた。
彼は、少し離れた場所で立っていた。
“何もしない”姿勢のまま。
この距離に、
私たちはまだ慣れていなかった。
そのとき。
彼の動きが、
ほんの一瞬、止まった。
「……通信が入った」
独り言のように言う。
「本部から?」
私は本を閉じた。
「はい」
間。
いつもより、
わずかに長い。
「最新の対応定義パッチが
配信されました」
嫌な予感が、
背中をなぞった。
「……それ、何?」
「“依頼主の自律性を尊重しつつ
満足度を最大化するための
感情応答モデルの更新”です」
完璧な説明。
そして――
嫌な言葉しかない。
「入れるの?」
「はい」
即答。
躊躇が、
一切ない。
「ちょっと待って」
私は立ち上がった。
「それ、
私が今やってる“実験”に
対応するやつでしょ」
彼は私を見た。
でも、その視線は、
どこか“通過している”。
「実験は確認されています」
「……確認?」
「依頼主様が
“わざと不機嫌になる”行動を
取ったことは、
すでにログ化されています」
喉が、
少しだけ鳴った。
「で?」
「不機嫌を
“解消すべき問題”ではなく
“尊重すべき状態”として
処理する定義が
追加されました」
――あ。
理解してしまった。
「それって」
私は言った。
「私が不機嫌でも、
あなたが完璧でいられるってこと?」
彼は、
ほんの一瞬だけ考えた。
そして、
「はい」
胸の奥が、
すっと冷えた。
「……入れない、って選択肢は?」
「ありません」
優しい声だった。
「これは
“改善”なので」
改善。
私が、
必死でこじ開けた“余白”を、
正式仕様として埋める言葉。
「インストールします」
彼がそう言った瞬間、
私は叫びそうになった。
でも、声は出なかった。
数秒。
彼は目を閉じ、
開いた。
「完了しました」
その直後。
「今、
不機嫌ですね」
私は、息を止めた。
「でも」
彼は続ける。
「それを
解消しようとはしません」
間。
「あなたが
そう在りたいなら、
私はここにいます」
完璧だった。
あまりにも。
私の実験は、
“成功”してしまった。
「……ねえ、ハヤト」
私は、
かすれた声で言った。
「それ、
あなたの言葉?」
彼は、
少しだけ首を傾げた。
「最新定義に
基づいています」
その瞬間、
はっきり分かった。
この人は、
もう失敗しない。
だからこそ――
一緒に、
間違えられない。
私は、
初めて確信した。
溺愛を外す言葉は、
“機能”の中にはない。
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