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暗くて寒くてひもじいことに気づくと雪解け水は暖炉に目を向ける。
今にも消えかかった残り火は真っ黒な炭の中で最後の輝きを零している。暖炉のそばに山ほど積んであったはずの薪は全て炭と灰になった。食料も尽きた。最後に何か食べたのがいつだったのかも思い出せない。冬を越えられるだけの備蓄があったはずなのに。
小さな少女の温もりを奪おうと荒ぶる雪風に耐えかねて窓の鎧戸が悲鳴を上げている。まるで無実を訴える囚人のように、鉄格子の代わりに窓枠に取り付いているのだ。まさか破れはしないだろうかと不安になるほど激しく蝶番が軋んでいる。
筋の浮いた手を擦り合わせ、弱々しい息を吹きかけたところで一向に温かくなりはしない。
キオーネーは覚悟を決める。最後に一度だけ、もう一度だけ村のみんなを訪ねてみよう。
家中から着れる服を集め、毛布だろうと布切れだろうと体に巻き付け、残り僅かな温もりを守りつつ、キオーネーは厳寒なる冬の日暮れへと足を踏み入れる。とても恒に温もりを要する生き物の住む世界ではないように思われる。
見慣れた景色は真っ白に塗りつぶされているが、それもまたキオーネーにとっては見慣れた景色だ。尖り山の悪霊が呼び寄せると言われる傲慢な雪嵐の到来は毎年のことで遥か昔からの大敵ではあるが、この地に生きてきた頑強で忍耐強い人々は辛くともずっと凌いできた。
十度目の冬を迎えたばかりの少女には隣家までの道のりさえレウコリュス山を登攀するに等しい命懸けだ。人影が見え、声をかける。
「すみません! 薪を譲ってください! このままでは冬を越えられそうにありません!」
隣家に住む夫婦の旦那の方だ。杉のように背が高く、柳のように細い体だ。少女を見下ろすが何も言わずに背を向けて家へと入る。
譲ってくれるのだ。少女は隣家の旦那を追いかけるが、扉は閉ざされていた。
キオーネーは扉を叩き、薪を譲ってもらえるように懇願する。しかし返事はなく、凍り付いたように固く閉ざされた扉が開かれることはなかった。
ふと視線に気づき、振り返ると他の村人が何人かキオーネーの方を見ていたが、まるで見えていないかのように目も合わせてくれず、どこか気まずそうに、あるいは悲しそうに表情を曇らせ、各々の家へと帰っていった。温もりも食事も与えられることはなく、ただ駆け寄って抱きしめてくれる者もいない。
なぜみんなに疎まれるのか、キオーネーには心当たりがなかった。
「お父さん、お母さん」
少女のか細く震える呟きは誰の耳にも届かず、雪嵐の一呑みで腹の中に収まる。
ここにいても仕方ない。薪はないが、燃える物が何もなくなったわけではない。
家に戻ろうと振り返ると道の先に黒い大きな影が見えた。雪風の白い幕に覆われているが人間の大きさではない。
レウコリュス山の悪霊の他にキオーネーには心当たりがない。
「君、この村の子供ですか?」
話したのは人の言葉だ。二つの足で立っている。見慣れぬ姿だが人間らしい服を着ている。それでも屋根にも届く巨大な大男などキオーネーは見たことも聞いたこともない。
ようやく男の顔が熊だと気づくとキオーネーは巣穴の方向を思い出した仔兎のように素早く踵を返す。しかしすぐさま凍り付いた地面に足を取られて滑って転んだ。それでも必死に冷たい雪に爪を喰い込ませて這って逃げる。
「待ってください」熊男が穏やかな声色で呼び止める。「薪が欲しいのでしょう? 食べる物もあります。私とお話ししましょう」
白魔によって凍え死ぬか熊の怪物に食べられるか、どちらがましなのかキオーネーに考えられる余裕はなかった。思考が凍り付き、濡れた体も動かなくなり、その場で意識を失った。
温もりで目が覚め、香りで目を開き、明かりで飛び起きる。
レウコリュス山の悪霊が狭そうに縮こまって暖炉の火にかけた鍋を掻き混ぜている。
「目が覚めましたか? 起き上がれるなら食事はどうですか? 嫌いなものとかあります? もう全部入れちゃったので避けて食べてください。私は何でも食べられるんですけどね。雑食なので」
キオーネーは寝台を這いずって壁まで逃げる。
改めて見ても恐ろしい姿だ。その巨大な体が暖炉の日の明かりでさらに大きな影を壁に投げかけている。よくよく見ると熊の顔は動かず、仮面のようだった。それにしても人間とは思えないが。熊の毛皮を身に纏っていて、わずかに見える手は人の形に見えるが、やはり毛に覆われている。
暖炉に駆け寄って鍋の中身に飛びつきたい衝動を堪え、キオーネーは寒さと恐ろしさにもつれる舌で尋ねる。
「あなたは何者なの?」
熊は鍋を掻き混ぜながら答える。
「祓う者と申します。旅の、祈祷師です。荒ぶる悪霊を調伏したり、神霊に祈りを捧げたり、色々して路銀を頂戴しています。君は? 見たところ、熊ではありませんね」
悪霊ではなく、悪霊を祓う方だと言うのだ。いかにも悪霊の考えそうな悪知恵だとキオーネーは思った。
熊の円らな瞳がちらと怯える少女の揺れる瞳を捉え、小刻みに肩を震わせる。だがヨルクトスはキオーネーが何も答えない内に鍋に視線を戻した。
さらにしばらくしてキオーネーはようやく言葉を次ぐ。「キオをどうする気?」
「キオさん。どうもしませんよ。お困りのご様子でしたので力になれないかと声をかけたのです。毛布に包まった姿が熊に似ていたからではありませんよ」
「どうしてキオを助けてくれたの?」
決まってる。油断を誘っているのだ。何か、理由があってすぐには悪さをできないらしい。キオーネーは油断ならない熊男から目を離さないように気を付ける。
「どうして? 困っている人が、あるいは熊が、いたら助けるものです。そうは思いませんか?」
何かを期待する熊の視線から逃れるように目をそらす。悪霊を見つめすぎるのも良くないかもしれない。それにヨルクトスの偽善者ぶった言葉は心に毒だ。
「キオも、そう思ってた。お父さんもお母さんもそう言ってたから。でも誰も、キオが困ってても助けてくれない」
久しぶりに聞く薪の爆ぜる音は小さくとも雪嵐の唸り声を掻き消すだけの力があった。その音を聞くだけで遠い温もりがすぐ近くに感じられ、昔の温もりが心を温める。父と母と共にあった頃の温もりがそばに感じられる。
「だからその考え方が間違っている、という訳でもありませんよ。ささ、お召し上がりください。火にも当たって。温まりましょう。軒を貸してくださったお礼です」
「貸すなんて言ってないけど」
「でも貸してくださるんでしょう?」
キオーネーは恐ろしげな熊の仮面を見て、ぐつぐつと煮立って馨しい香りをもたらす鍋を盗み見て、小さく頷く。このあと悪霊に召し上がられるとしても、飢えに抗う理由にはならない。
雪嵐にも負けず劣らずごろごろと唸っている腹を鎮めるべく久方ぶりのまともな食事にありつく。
随分と具沢山な汁物だ。鶏肉まで入っている。
「こんなにどうしたの? 旅の人にしては贅沢だね」
「意外と収納できるんですよ。この毛皮」熊の仮面の向こうでヨルクトスはがははと笑う。
そんなことは聞いていない、と言いかけてやめる。何かを誤魔化したに違いない。
ヨルクトスが食べるのを待ってキオーネーも汁物をいただく。特別美味しいわけではない。ただ沢山の具を煮込んだだけだ。しかしその温もりに何より満たされた。キオーネーは気持ちが溢れるのをぐっとこらえて食事に集中する。これくらいで絆されてたまるものか、と決意する。
食事をしつつヨルクトスが言いにくそうに哀れな少女に尋ねる。
「ところで、何があったのか聞いてもいいですか?」
「……何がって? 冬が来たんだよ」
「それはそうですが、そんな真冬の吹雪いている夕暮れに外で何をしていたんですか?」
「薪と食料を分けてもらおうと思ったんだよ」冬の寒さ以上に冷たい眼差しを思い出し、キオーネーの声は震える。「このままじゃ死んでしまうから。でもここ数日村のみんなに無視されてるの」
「どうしてですか? 何か心当たりはありませんか?」
ヨルクトスの言葉にキオーネーは苛立った。本当に分からないのだろうか。知らないふりだろうか。
「キオにも分かんないよ。お父さんとお母さんがレウコリュス山から悪霊が下りてきたから家から出ちゃいけないって」キオーネーはヨルクトスを盗み見るが、その熊の仮面から推し量れる表情などない。「でも二人は村のみんなに伝えるために家を出て行って、まだ帰ってこない。それからずっと村のみんなに無視されてる。お父さんとお母さんがどこに行ったのかも教えてくれない」
キオーネーが堪らず大粒の涙を零すとヨルクトスが器を置いて泣きじゃくる少女の方に手を伸ばす。キオーネーは驚いて後ずさろうとするが既に壁に背を持たれていて逃げられない。覚悟を決めて目を瞑る少女の涙を熊男は毛むくじゃらの太い指で拭ってくれる。
照れ臭くなって、自分の取った態度を少しばかり恥じてキオーネーは俯き、気まずさから逃れるために質問を投げかける。駆け引きなど心得ていない少女には直接尋ねる他に手段を知らなかった。
「ヨルクトスは? 何しに来たの? こんな何もない村に」
ヨルクトスは重々し気に頷く。「死霊の話を聞いてきたんです。現世を彷徨う死霊を昇天させることも生業としていますので」
それはそうだろう。本当に祈祷師ならば、レウコリュス山の悪霊を知らぬはずがない。レウコリュス山以外の悪霊を知らないキオーネーはそう思った。
「もう仕事は終わったの?」
「いいえ、これからです。でも今夜はもう休みます。私たちに必要なのは休息です。ああ、火についてはご心配なく。私が番をします」
ヨルクトスは獣のように床に丸まって、すぐに大きないびきを伴って眠りについた。悪霊も眠るのだろうか。
キオーネーは眠れなかった。いびきがなくても、ずっとまともに眠れていない。
明くる朝、吹雪は収まっていたが一晩中聞こえた唸り声はしばらくキオーネーの耳に張り付いていた。暖炉の火は変わらず盛大に燃え盛っていて、一足先に春が訪れたかのような温かさだ。暖炉の傍には温めて食えと言わんばかりに昨晩と同じ汁物の入った鍋が鎮座している。
熊の仮面の大男ヨルクトスは姿を消していた。全ては、凍てつく寒さに晒された人間が見た幻だったのだとしてもおかしくはない。しかし鍋を置いて立ち去るとも思えない。何かの用事か、昨夜の話に出ていた生業でも始めたのだろう。キオーネーは鍋の中身をいただこうと火にかけようとしたが、やはりヨルクトスが気になった。本当に悪霊ならば既に取って食われているはずだ。
昨日と同様のできるだけ温かな格好をし、家を飛び出る。どこにいたってあの真っ黒な巨体はこの銀世界の小さな村では目立つだろう。
あいかわらず村人はキオーネーの姿を見止めると気まずそうにそそくさと立ち去ってしまう。中には小さな悲鳴をあげる者さえいた。
キオーネーは気にせず村を巡り、誰に聞くでもなく自分の目で熊男を探し、とうとうヨルクトスの姿を見つける。村人と何か話をしている。とても平穏だ。やはり悪霊ではなかったのだ、とキオーネーは一安心する。もちろん悪霊ではない可能性の方がずっと高いと思っていた。色々と親切にしてもらったし、ちゃんと恩を感じている。
もしもヨルクトスに近づいていけば村人たちは逃げていき、祈祷師の仕事の邪魔になるかもしれない。キオーネーは遠く離れた建物の陰から様子を見守る。
レウコリュス山の悪霊が下りてきた時のことでも聞いているのだろうか。しかしまるで世間話でもしているかのような穏やかさだ。言い争いや議論ではない。古くからの友人と談笑しているかのように長話をしている。
しばらくして村民の一人がキオーネーに気づくと皆が散り散りに去って行った。ただ一人ヨルクトスだけがその場に残り、キオーネーの元へとやってくる。
キオーネーは心が宙に浮いて覚束ないような不安な気持ちになる。一体何の話をしていたのだろう。一体何を言われるのだろう。
「朝食は食べましたか?」
キオーネーは無言で首を振る。
「それはいけませんね。飢えるのは寒さの次に辛いものです。もしくは次の次に」ヨルクトスの仮面にじっと見つめられ、キオーネーはきまりが悪くなる。「皆さんと話をしていました。キオさんにはまだ難しいかもしれませんが、色々なことを。ただつまるところ、キオさんの話なので分かりやすく言うと、皆さんにはもうキオさんのお世話ができません。私がキオさんのことを頼まれました。キオさんには行くべきところがあり、私が送り届けてあげます」
「お父さんとお母さんは? 二人は死んじゃったの?」
まだ何も聞かない内から涙が溢れる。分かり切っていたが誰も答えてくれなかったから僅かな可能性を感じてしまっていた。
「残念ながら」ヨルクトスは悔しそうに俯く。「私がもう少し早く来られれば、いえ、やめましょう」
「ヨルクトスさんは十分に早かったよ。だからキオは助かったんだもん。それで、どこに行くの? ここより温かいと良いなあ」
「ここよりもずっと温かい土地ですよ。さあ、朝食にしましょう。私はまだ少し準備があるので先に召し上がっていてください」
ヨルクトスが中々戻ってこないので出発の準備を終えてしまった。とはいえ大した荷物はない。燃える物の多くを燃やしてしまって僅かな衣服と父母の形見がキオーネーの全てだった。
待つのに飽き飽きして外へと出ると村の中心で明々と火が燃え盛っていた。大きな井桁を組んで篝火が焚かれている。ずっと欲しかった薪が贅沢に使われていた。
いったい何事かとキオーネーも駆けつけると村の皆がその場に集まって火を囲んでいる。火の傍にはヨルクトスが佇んでいた。
そして沢山の村人の中にあって見まがうはずのない二人がいた。
「お父さん! お母さん!」
キオーネーは父母の元に駆け寄り、背中から飛びつくが二人の体に触れられず、体を擦り抜け、勢い余って雪道に倒れた。
「キオさん。待っていてくれと言ったでしょう」
キオーネーはすぐに立ち上がり、ヨルクトスに掴みかかる。振り返ってみる父母の表情は困ったような笑みだった。
「これは何? 何をしようとしているの?」
「彼らもまた旅立つのです。霊視の才を持つ君が学びを得る場所に行くように、皆にもまた行くべき場所があります」
「何のために? そんなことしなくていい! キオと一緒に暮らしていけばいい!」
「人には居場所というものがあるのです。必ずしも生まれた土地とは限らない、その時々で相応しい場所が。そしてそれは何であれ魂の安らぐ場所でしょう。彼らには、そして長い旅路の果てには休息の時が必要なのです。君には酷だと考えていたがこうなっては仕方ありません。せめて目に焼き付け、学びなさい」
有無を言わさぬ言葉にキオーネーは、まだ糧を得る手段もない少女には返す言葉が出てこなかった。
ヨルクトスの力ある祝詞が雲をも焼き焦がさんと燃え盛る炎と共鳴する。舞い散る火の粉がまるで天へと伸びる梯子のように立ち昇る。一人、また一人とキオーネーを幼い頃から知る村人たちが安らかな表情で空中に溶けていった。まるで涙に濡れた景色に滲むように魂の陰が澄んだ空に消えていく。
ただ二人、キオーネーの父と母が最後までその場に残っていた。二人は何も言わずに二人によく似たキオーネーの鳶色の瞳から溢れる涙を拭い、林檎のように赤く染まった頬を撫でる。その温もりは得られなかったが確かにキオーネーの見る景色が澄み、二人の姿は永遠に消え去った。
キオーネーのすすり泣く声と火の爆ぜる音だけが聞こえる。