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白い天井がぼやけて見えた。機械の電子音が遠くで規則的に鳴っている。 目を覚ましたのは、何度目の朝だろう。自分がどこにいて、何者なのか、それすら曖昧だった。
「おはようございます」
女性の声。白衣を着た若い看護師がカーテンを開け、光が差し込んできた。
「あまり眠れませんでしたか?」
私はかすかに首を振った。夢を見ていた気がするが、すぐに霧の中へと溶けてしまった。
その日の夜、私は夢を見た。
そこは海辺だった。沈む夕日が金色の波を照らし、潮風が髪を撫でていく。
「やっと来たね」
声がした。振り返ると、そこに立っていたのは――彼女だった。
名前は思い出せなかったが、心が震えるほど懐かしいと感じた。
「ほら、こっちおいで。ずっと待ってたんだよ」
彼女は笑い、私の手を取った。その手の温もりは、夢にしてはあまりに確かだった。
私たちは何も語らず、ただ並んで砂浜を歩いた。
夢の中の時間は、現実よりも穏やかに流れていた。
目覚めたとき、涙が頬を濡らしていた理由は、まだわからなかった。
翌晩、私は再び夢を見た。
今度は、高台の公園だった。ベンチに座って、彼女がこちらを見ている。風が春の香りを運び、木々の葉がさわさわと揺れていた。
「ねえ、覚えてる?」
彼女はそう言って、小さな紙袋を差し出してきた。
中には、見覚えのあるクッキーが入っていた。――手作り。ハートの形に不格好なアイシングがのっている。
「これ…君が作ってくれた?」
私の声は少し震えていた。懐かしい感情が胸の奥でざわめいた。
「うん、初めてあげたバレンタイン。味は保証しないけど」
彼女は照れ笑いを浮かべた。その顔に、私は確信した。
――この人を、私は知っている。とても大切だった人だ。
しかし、目を覚ました瞬間、その記憶は霞のように薄れていく。
クッキーの味も、彼女の声も、あれほど鮮やかだった景色すら、輪郭を失っていく。
「また…夢、か」
私は自分の手を見た。現実のそれは、あまりに無機質だった。点滴の管が刺さり、包帯が巻かれている。
何が起きたのか、思い出せない。だが、あの夢だけが、私の心を確かに揺さぶってくる。
「記憶に関しては、個人差がありますから」
担当医はそう言って、カルテを閉じた。
「夢の中に出てくる人物や場所が、記憶を刺激することもあります。ですが、現実との境目があいまいにならないよう、注意してください」
現実と夢の境界。
それが最近、曖昧になっていることを自覚していた。
昼間もふとした瞬間に、あの笑顔が脳裏をよぎる。
夜になれば、また彼女が私を待っている気がして、眠りを恐れなくなっていた。
「君の名前は……なんていうの?」
夢の中で私は彼女に訊ねた。彼女は小さく首を傾げてから、
「忘れちゃったの?」
と、少し寂しそうに言った。
「でも、いいよ。思い出さなくても。ここでは名前なんて、必要ないから」
そう言って、彼女は私の手を握った。その温かさに、私は胸が締めつけられるのを感じた。
現実では、誰も彼女のことを知らない。
看護師に訊いても、医者に訊いても、「そういう人はいなかった」と言われる。
家族の面会もあった。母は私の頭を撫でながら、「あなたのことを愛していた人はいたわ。でも……もう、遠くへ行ったの」とだけ言った。
“遠く”とはどこなのか。彼女はどこに行ってしまったのか。
もしかして、私がまだ知らない「真実」があるのではないか。
夢の中で彼女と過ごす時間が増えていくにつれて、私は気づき始めていた。
この夢は、ただの夢ではない。
これは、彼女が私に「何かを伝えに来ている」――そう思えてならなかった。
夢の中で、私たちは海辺の町を歩いていた。細い坂道をのぼると、古びた喫茶店があった。看板には「珈琲とチーズケーキ」とだけ書かれている。私はその文字に見覚えがあった。
「ここ……来たことある気がする」
「あるよ。二回目のデート。雨の日だったから、ずぶ濡れで入ったんだよね」
彼女はそう言って、小さく笑った。私はふと、その笑顔の意味に違和感を覚えた。何かを我慢しているような、過去を抱えているような、そんな表情だった。
「ねえ」私は訊ねた。「君の名前を教えてほしい」
彼女は少し黙ってから、言った。
「私の名前は……『あおい』。でも、それを聞いてしまったら、君はきっと――目を覚ます」
「え?」
彼女は黙って私の手を握った。その手は、今までより少し冷たかった。
「あと少しだけ、このままでいよう。名前なんていらない。ここでは、君が私を“想ってる”だけで、それがすべてだから」
私は頷くしかなかった。彼女と過ごせるこの時間が、あまりにも幸せすぎて、何も壊したくなかった。
目が覚めると、病室の窓の外はまだ夜だった。時計の針は午前3時を指している。喉が渇いてナースコールを押そうとしたそのとき、ベッドの脇にノートが置かれているのに気づいた。
記憶がないはずの私は、思わずそのノートを手に取った。中にはびっしりと手描きの風景スケッチ。小さなカフェ、海辺の町、あおいが歩いた坂道――どれも私が夢で見た景色だった。
「これは……いつ描いたんだ」
手は勝手に震えていた。記憶がないはずの私が、なぜこれほど正確にあの場所を描ける?
ページの最後に、走り書きのような文字があった。
>「あおいはまだ、ここにいる。君が思い出すまで、何度でも夢に来るって言ってた」
自分が書いたとは思えなかった。文字の筆跡も違う。
だが確かに、これは“あおい”の存在が現実にも何かを残している証拠だった。
翌朝、担当医の川島が病室に来た。私は思い切って訊ねた。
「“あおい”って人……知ってますか?」
彼の表情が、一瞬だけ凍った。
「どうして、その名前を?」
私は、夢の話、ノートのこと、覚えていた景色の断片をできる限り伝えた。川島はしばらく沈黙したあと、小さく息を吐いた。
「……君が事故に遭った日、一緒にいた女性がいた。恋人だったそうだ。君の両親も知ってる。でも……彼女は、亡くなった」
言葉がうまく飲み込めなかった。目の前がぼやける。けれど、どこかで――わかっていた気もした。
「その人の名前は、“あおい”だったんじゃないですか?」
川島はゆっくりと頷いた。まるで、重たい蓋が開いたような音が、心の奥で響いた。
あおいは死んでいた。
でも、私の夢の中で、あおいは生きていた。微笑み、話し、手を握ってくれた。あの時間は幻だったのか?
私は自分の胸に手を当てた。そこに、あおいの笑顔が確かにある。ぬくもりが、まだ残っている。
夜が来るのが、怖くなかった。むしろ、また夢で会える気がした。
だけど、その夢はもう――永遠には続かないかもしれない。
“あおいは死んだ”
その言葉が頭の中で繰り返されるたび、心臓がきしむ音が聞こえた気がした。
だけど、あの夢の中での彼女の笑顔や、手のぬくもりは現実よりも確かなものだった。
「じゃあ……私が見ている“あおい”は……?」
現実にはいないはずの彼女が、夜ごと夢に現れる。まるで私を待っていたかのように、やさしく迎え入れ、当たり前のように隣を歩いてくれる。
私は、彼女のいない世界を生きている実感が持てなかった。むしろ、夢の中にこそ“本物の世界”がある気すらしていた。
その夜。
私はまた、あおいの夢を見た。
今度は小さな湖だった。静かな水面に、満月が映っている。あおいは、桟橋の端に腰掛け、足を水に浸していた。
「来てくれて、ありがとう」
彼女は私を見るなり、にっこりと笑った。
「……あおい」
その名前を口にした瞬間、空気が微かに揺れた気がした。あおいは驚いたように、でもすぐに穏やかな表情に戻って、言った。
「思い出したんだね」
私は頷いた。
「夢の中で、君を何度も見た。名前を訊ねても、教えてくれなかった。でも、今日、現実で……聞いたんだ。君の名前。君のこと」
あおいは静かにうなずいた。湖の水面に、月が揺れている。
「本当はね、全部教えたかった。でも、君が覚えていないままの方が、少しだけ長く、ここにいられる気がしてた」
「“ここ”って……」
あおいは水面を見つめながら、少し間を置いた。
「私は、君の中に残った“想い”なの。ちゃんと言えば、“記憶のかけら”……いや、“願い”に近いかもしれない」
「願い……?」
「君が私を忘れないでいてくれること。それが、私をここにとどめていた。でも、思い出しちゃったね。私がいない世界を。私が、もういないってことを」
私は胸が詰まって、言葉が出なかった。あおいは笑っていたけれど、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「この夢は、もう終わりに近い。でも、大丈夫だよ。私が消えるわけじゃない。君の中に、生き続けるだけだから」
「そんなの……寂しすぎるよ」
私は震える声で言った。目の前の彼女が、今にも風に溶けてしまいそうだった。
「夢でまた会えるって、そう思ってた。でも、もう……」
あおいは立ち上がり、私の手を握った。そのぬくもりは、やっぱり優しくて温かくて、涙が止まらなかった。
「ねえ、最後に一つだけ、お願いしてもいい?」
「……何?」
「どうか、生きて」
その言葉を聞いた瞬間、景色が波打ち、世界が崩れていくのが分かった。あおいの姿が、白い光に包まれて溶けていく。
「ありがとう、私を愛してくれて。忘れないでくれて。本当に、幸せだった」
私の手から、あおいの指先が離れていく。必死に掴もうとするが、届かない。
「さよなら……」
彼女の声が、風に溶けた。
目が覚めると、まぶしい朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
涙が頬を濡らしていた。嗚咽を漏らしながら、私は天井を見上げた。あおいはもう、夢には現れないかもしれない。
けれど、その言葉が私の胸に刻まれていた。
――「どうか、生きて」
私はベッドの横に置かれていたノートを開いた。最終ページに、あの文字があった。
>「生きていくってことは、私の分も笑ってくれるってことだよ」
涙が、止まらなかった。
でもその朝、私は初めて、自分の足で起き上がる決意をした。
退院の日、空は晴れ渡っていた。
白い病院の壁から外に出ると、日差しが眩しくて思わず目を細めた。
周囲の景色はあまり変わっていないように見えたが、私の心はずっと動揺していた。
あおいのこと。夢の中で何度も会った彼女のこと。
そして、現実で初めて聞いた彼女の名前。
「行かなくちゃ」
私は心の奥底で決めていた。彼女と過ごしたあの街へ、記憶の断片を探しに行くのだ。
駅から出ると、風がそよいだ。
街は相変わらず古くて、小さな商店が軒を連ねていた。
通りの角を曲がると、懐かしい香りが鼻をくすぐった。コーヒーと焼きたてのパンの匂い。
まるであおいが隣にいるみたいだ。
「この町には何があるんだろう」
私はリュックからノートを取り出した。夢の中で描いたスケッチと、病室にあった手書きのページ。
そこには、あおいと歩いた坂道、二人で入った喫茶店、小さな湖が描かれていた。
「あの場所を全部、見てみたい」
最初に向かったのは、小さな喫茶店だった。
外観は夢で見た通りで、白い木枠の窓に「珈琲とチーズケーキ」と手書きの看板がかかっている。
扉を押すと、木の香りとコーヒーの深い香りが混ざった空気が迎えてくれた。
店内は静かで、数人の客が本を読んでいた。
カウンターの奥にいる女性が顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
少し驚いたような表情を見せたが、にっこり笑った。
私は勇気を振り絞って言った。
「すみません、この店のことを教えてもらえますか?昔、ここで誰かとよく来ていて……」
女性は一瞬考えてから、店の名刺を差し出した。
「この店は、昔は“ラズベリー”という名前でした。もう10年ほど前に閉店して、今は私が別の名前で営業しています」
「そうですか……」
少し肩を落とした私に、彼女は優しく言った。
「でも、近くの公園の坂道に、小さな手作りケーキのお店がありますよ。あそこはまだあります。もしかしたら、その店が夢に出てきたかもしれませんね」
次に、私は教えてもらった坂道の小さなケーキ屋へ向かった。
店はこじんまりとしていて、カウンターの奥から店主が顔を出した。
「何かお探しですか?」
私は答えた。
「あの、昔ここに住んでいた女性のことを知りませんか?名前はあおい。彼女がよく作っていたクッキーがあって……」
店主の目が少しだけ曇った。
「ええと……その名前は聞いたことがあります。でも、何年も前に引っ越したと聞いていますよ」
「どこに行ったか、ご存じですか?」
店主は首を振った。
「それは分かりません。でも、彼女の作ったクッキーは評判でした」
夜になり、私は公園の桜の木の下に座った。
ノートに夢のスケッチを広げていると、ふと視線を感じた。
小さな子どもが近づいてきて、こう言った。
「あなた、あの人を探してるんでしょ?」
驚いて顔を上げると、子どもはにっこり笑って言った。
「おばあちゃんが、ずっと前に話してくれたんだ。あおいさんは、空に行ったって」
私は胸が詰まった。
「空に?」
子どもは頷いた。
「うん。だから今は、ここにはいないよ。でも、あなたが覚えていてくれるなら、おばあちゃんは喜ぶと思う」
静かな夜空の下、私は空を見上げた。
あおいはもうこの世にはいない。だけど、私の中に生きている。
夢の中で笑っていた彼女は、確かにここにいたのだ。
明日も私は、あおいの足跡を辿り続ける。
翌朝、私は薄く霧がかかる街の路地を歩いていた。
昨夜の子どもの言葉が、胸の奥でまだ響いている。
「あおいは、もう空にいるんだ……」
だが、私はその言葉だけでは満足できなかった。
彼女のことをもっと知りたい。もっと近くで感じたい。
ふと思い立って、昔住んでいたマンションの前まで足を運んだ。
建物は少し老朽化しているが、まだ人が住んでいる様子だった。
インターホンのボタンを押す。しばらくして、年配の女性の声が響いた。
「はい?」
「すみません。かつてここに“あおい”という女性が住んでいたと聞きまして……」
「……ああ、あの子ね。あおいちゃん」
ドアが開き、優しい表情の女性が顔を見せた。
「入ってください。よければお茶でも」
その女性は、あおいの隣人だった。名前は佐藤さん。
話を聞くうちに、あおいのことが少しずつ浮かび上がってきた。
「あおいちゃんは、本当に優しい子だったわ。誰にでも笑顔で、いつも周りの人を気遣ってた」
「でも、時々、すごく寂しそうにしてた」
「彼女はね、大切な人を失ったばかりだったの。誰にも言わなかったけど、私たちにはわかった」
佐藤さんは一枚の写真を見せてくれた。
若いあおいが微笑んでいる写真。手には小さな花束を持っていた。
「この写真は、彼女が亡くなった恋人さんと撮ったものよ」
私は写真をじっと見つめた。あの夢の中で見た彼女と同じ表情だった。
「その恋人の方は……」
佐藤さんは声を落とした。
「事故で亡くなってしまったの。あおいちゃんも、その後体調を崩して……それでも笑っていたのよ。強い子だった」
私は沈黙したまま、写真を手に取った。
彼女の過去、想いが胸にずしりと重くのしかかる。
「ありがとう……」
声にならない感謝を伝え、私は部屋を後にした。
外に出ると、空は曇り始めていた。
雨が降る前の空気の匂いが鼻をくすぐった。
「まだ、あおいのことを全部は知らない」
私はそう呟き、次の目的地へと足を向けた。
それは、街の図書館だった。
私はあおいの名前を手掛かりに、過去の新聞記事や町の記録を調べ始めた。
そこには、小さなニュースがあった。
【地元で人気の若い女性が事故で亡くなる】
「地元の花屋の娘、あおいさん(25歳)が不慮の交通事故で命を落とした」
記事には、彼女の明るい性格や、地域のボランティア活動に熱心だったことが書かれていた。
私は胸が熱くなった。
図書館の窓の外に目をやると、雨が静かに降り始めていた。
「夢と現実の間で、あおいはどこにいるんだろう……」
私はしばらくその場に立ち尽くした。
その夜、夢の中でまたあおいに会えるだろうか。
不安と期待が入り混じる。
でも、一つだけ確かなことがあった。
彼女の足跡は、確かにこの世界に残っている。
翌日、目覚めたとき、私はまだあおいのことを考えていた。
夢の中のあの湖の夜景、彼女の優しい笑顔と最後の言葉が胸に響いて離れなかった。
だが、現実は冷たく、厳しかった。
私はあおいの足跡を追いながらも、どうしても彼女の死の事実に押しつぶされそうになっていた。
午前中、私は街の古い商店街を歩いていた。
傘を持たずに歩くと、まだ雨が降っていなかったが、空は曇り空。
通りを抜けたところに、小さな公園があった。
そこは桜の木が数本立ち並び、花びらがまだ少しだけ残っていた。
私はあおいと過ごしたあの季節を思い出そうと、ベンチに腰を下ろした。
ふと、公園の端に置かれた古びたベンチに目が留まった。
それは小さなプレートが付けられていて、そこにはこう書かれていた。
『あおいちゃんのためのベンチ』
驚いて立ち上がり、プレートを触ると、そこには小さな手書きの文字が添えられていた。
「ここでみんなと笑っていたよね」
涙があふれた。
その時、公園の入り口から年配の男性がゆっくりと歩いてきた。
「こんにちは」
私は声をかけた。
「このベンチについて知っていますか?」
男性は少し驚いた様子だったが、すぐに穏やかな笑顔を見せた。
「ええ、あおいちゃんの父です」
彼は静かに自分の話を始めた。
「娘は花屋を手伝いながら、地域の人たちにとても愛されていました。あの子は、笑顔で皆の心を癒してくれる子でした」
「事故で突然、彼女を失った時は、私も妻も深い悲しみの底にいました」
「でも、彼女が遺した優しさを伝え続けるために、このベンチを作りました。ここに座って、彼女のことを思い出してほしいと」
私は父親の言葉に、胸が締めつけられた。
「夢の中で、あおいに会いました。彼女は、僕の中にずっといると……」
父親は涙をこらえながら、静かにうなずいた。
「それは、彼女の望んだことかもしれませんね」
「君が彼女のことを覚えていてくれること、それが彼女の生き続ける証だと思います」
雨が降り始めた。
私は傘を持っていなかったが、気にせず雨に打たれながら歩き出した。
濡れたアスファルトが光り、街灯がぼんやりと灯っていた。
彼女の足跡は、消えることなく私の心の中を照らしている。
夜になり、私は小さなホテルの一室でノートを開いた。
あおいとの思い出や、今日会った人々の言葉を書き留める。
手が震えるのを感じながら、ページをめくった。
その夜、夢にあおいが現れた。
湖のほとりではなく、静かな街の路地裏だった。
彼女は少しだけ笑っていた。
「来てくれて、ありがとう」
私は何度も何度も彼女に会いたくて、夢を探した。
でも、それはもう特別な時間になっていた。
「ねえ、覚えてる?この町で一緒に見た夕焼け」
あおいが微笑む。
「君が泣いていたあの日も、ずっとそばにいたよ」
私は涙を流しながら、彼女の手を握った。
「ありがとう、あおい」
夢が消える直前、あおいは静かに言った。
「どうか、これからは自分のために生きて」
私はうなずきながら、目を覚ました。
朝日が部屋に差し込み、暖かく包んでくれた。
彼女はもうここにはいない。
だけど、その優しさは確かに私の中に生きている。
雨が上がり、街に朝の光が差し込んだ。
私は少し冷たい空気を吸い込みながら、あおいが好きだったという小さな花屋へと向かった。
花屋はまだ開店準備の最中で、店主が店の前で鉢植えを並べていた。
「こんにちは」
私は声をかけた。
店主は振り返り、少し驚いた様子でこちらを見た。
「何かお探しですか?」
「すみません、あおいさんという女性のことを聞きたくて……」
店主の顔が柔らかくなる。
「ああ、あおいちゃんね。よく店を手伝ってくれてたよ。明るくて優しい子だった」
「彼女のことを知りたいんです」
店主は一歩店の中に入ると、小さなアルバムを取り出した。
「あおいちゃんの写真もあるよ」
写真の中のあおいは、カメラに向かって笑っていた。
その笑顔は、夢の中で見たものと同じで、胸がぎゅっと締めつけられた。
「彼女は……」
店主は言葉を詰まらせた。
「事故があったあと、だんだん元気がなくなってね……」
「でも、いつも店に顔を出して、周りを明るくしてくれた」
私は店主の話を聞きながら、心の中にぽっかりと空いた穴を感じていた。
あおいは確かにこの街に生きていた。
私が夢の中で会ったのは、過去の彼女の残像だったのかもしれない。
午後、私は町の図書館に戻り、さらに資料を探した。
古い新聞の切り抜きを見つけた。
【花屋の娘あおいさん、事故で急逝。地域に惜しまれる若き笑顔】
記事には、彼女がいつもボランティアで人助けをしていたこと、
そして彼女が亡くなった日のことが詳しく書かれていた。
記事を読みながら、私は涙をこらえきれなかった。
彼女は生きている間にたくさんの人を救い、支えていたのだ。
私が夢で感じた彼女の温かさは、決して嘘じゃなかった。
夜になり、また夢の中で彼女に会えた。
今度は、彼女が花屋で働いている姿だった。
「また来てくれたんだね」
彼女は照れくさそうに笑った。
「私はもういないけど、こうして会えるのは嬉しいよ」
私は強く手を握り返した。
「ずっと忘れない。君のこと」
彼女の目が潤んで、静かに言った。
「ありがとう。でもね、そろそろ私を解放してあげて」
「これからは、自分の人生を大切にしてほしい」
その言葉が胸に刺さった。
私は何度もうなずいた。
夢が消えた後も、心はまだあおいに包まれていた。
翌朝、私は決心した。
あおいの思い出を抱きしめながら、前に進もう。
この街での足跡を辿り続ける旅は終わりではなく、
新しい始まりなのだと。
その朝、私はゆっくりと目を覚ました。
あおいの夢は、もう現実の中に溶け込んでしまったかのようだった。
彼女の笑顔は、まだ私の胸の奥にあり、切なくも温かかった。
街は静かで、朝の光が建物の壁を淡く染めていた。
私はリュックを背負い、歩き出した。
目的はもう一つあった。
あおいが愛したという小さな図書館の裏庭だ。
図書館の庭は、小さな草花が咲き乱れ、
かつてあおいがここで本を読んだのだろうかと思わせる静けさがあった。
私はゆっくりと庭の奥に進んでいくと、そこにはベンチが一つあった。
そして、その背もたれには小さな彫刻があった。
「希望」
そう刻まれた文字を見つめながら、私は座った。
あおいがここで何を想い、どんな未来を夢見ていたのか、考えた。
あの夢の湖の夜景の中、彼女が最後に言った言葉を思い出す。
「どうか、これからは自分のために生きて」
私の心はその言葉を繰り返していた。
ふと、ポケットの中に入れていた彼女の小さなメモ帳を取り出した。
ページをめくると、あおいの字で書かれた短い詩があった。
「風に乗って、君のもとへ
届くかな、この願い
遠く離れても
心はつながっている」
その詩を読みながら、私は涙が溢れて止まらなかった。
彼女の想いは、夢の中だけでなく、確かにここにあった。
しばらく静かに座っていると、図書館の職員が声をかけてきた。
「ごめんなさい、閉館時間が近いので……」
私は感謝の気持ちを伝え、立ち上がった。
帰り道、街の風景が少し違って見えた。
あおいの温もりが染み込んでいるような、不思議な安らぎがあった。
ホテルの部屋に戻ると、私はあおいとの思い出をノートに書きつづけた。
夢の中での会話、街で出会った人々、あおいが残した足跡。
それは悲しみだけでなく、彼女の生きた証を感じる旅だった。
その夜、眠りに落ちる直前、再びあおいが夢に現れた。
「ありがとう」
彼女は優しく微笑みながら言った。
「あなたが私を忘れずにいてくれることが、何よりの宝物」
「だからもう、悲しまないで」
私は静かに目を閉じた。
「うん。ありがとう、あおい」
夢の中での再会は、もう特別なものではなかった。
それは心の中の灯火となり、私の人生の支えになっていた。
朝の光がまた差し込み、私は新しい一日を迎えた。
あおいの足跡を辿る旅は続く。
でも、今度は彼女のためだけじゃない。
私自身のために。
季節はゆっくりと移り変わり、街は新しい色に染まっていた。
私の心もまた、少しずつ穏やかさを取り戻していた。
あおいのことを思い出すたび、胸の奥が痛むけれど、
それはもう悲しみだけではなかった。
ある日、私はあおいが好きだった桜の木の下でひとり立っていた。
満開の花びらが風に舞い、まるで彼女が微笑んでいるかのように見えた。
遠くで子どもたちの笑い声が響き、
私はその声に少しだけ安心した。
「ありがとう、あおい」
私は小さくつぶやいた。
夢の中での再会は、私にとって大切な宝物だった。
そして今、彼女はもう悲しみの彼方へと旅立っている。
けれど、彼女の存在は消えない。
その笑顔、優しさ、そして希望は、私の中で輝き続けている。
それは、私がこれから歩んでいく道を照らす光。
「これからは自分のために生きて」
あおいの最後の言葉を胸に、私は新しい一歩を踏み出した。
過去の痛みを抱えながらも、未来に向かって。
夜空に輝く星のように、あおいの記憶は永遠に消えることなく、
私の心の中で生き続ける。
そしていつかまた、夢の中で再会できるその日まで――。