亡くなった猫は
飼い主の元へ帰ってくる。
山を超え海を超え
時に時空をも超える。
どんなに道が険しくとも
決して歩みを止めることはない。
これは1匹の猫が
ご主人様の元に帰るために
時空を超え思い出を集める物語。
「またね、ご主人様。」
僕が死んだ日
はじめてご主人様の涙を見た。
ご主人様はどんなに苦しくても
悲しくても辛くても
僕の前では涙を見せることは無かった。
そんなご主人様は今
冷たくなりもう動かない僕を優しく
抱きかかえ静かに涙を流している。
ポツポツとまた1粒
涙が頬を伝って床に落ちる。
床に落ちた涙はどんどん広がり
次第には大きな水たまりへと姿を変える。
はじめて見たご主人様の涙は
死んだ僕のために流したものだった。
そんな僕は今ご主人様のことを
静かに見つめることしか出来ない。
僕はもうご主人様の瞳に
映ることが出来ないからだ。
ゆっくり目線を落とし自分の手足を見る。
僕の手足は半透明で今にもこの世界から
消えてしまいそうだった。
だから僕は
ご主人様の瞳に映ることは出来ないし
ご主人様に触れることも出来ない。
だから待っててね。ご主人様。
また僕にご主人様の
輝いた笑顔を見せて欲しい。
そんなことを考えていたら
僕の体がキラキラと光りだした。
僕は絶対に
ご主人様の元に帰ってくるから。
ご主人様はここで待ってて
僕におかえりって言って欲しい。
だから僕は
さようならを言わない。
「またね、ご主人様。」
またご主人様に
会えることを知っているから。
ーはじめてのよろしくー
夢を見た。
僕とご主人様が過ごした記憶が
僕じゃない誰かとご主人様が
過ごした記憶になる夢。
僕がご主人様に会ったあの日から
僕がご主人様に別れを告げたあの日までの
すべての記憶が僕の脳裏を駆け巡る。
忘れたくても忘れられない記憶のはずが
何か大切なものが思い出せない。
僕とご主人様を繋ぐ大切な記憶。
突然遠くの方から
ご主人様の声が聞こえた。
僕が聞き間違えるはずがない
ご主人様の声は
僕じゃない誰かを呼んでいる。
分からない。
僕の記憶には僕とご主人様が居るのに
まるでご主人様の記憶には
僕が居ないみたいだった。
ご主人様は僕が居ない場所に向かって
僕が知らない名前を声に出す。
ご主人様が見ていた僕は
最初から僕ではなかったのではないか。
分からない。分からない。
分からないが増えていき
ご主人様は僕から
1歩また1歩遠ざかっていく。
暗闇に1人で居る僕は
知らない誰かと歩くご主人様の背中を
見つめることしか許されない。
またあの時と同じだ。
このままでいいわけがない。
なんのために
さようならを言わなかったのか。
なんのために
またねを言ったのか。
ご主人様の隣は僕じゃなきゃ嫌だし
ご主人様の隣は僕だけの特等席だから
僕はご主人様の元に帰らなきゃいけない。
だからこんなところで
諦めるわけにはいかないのだ。
1歩また1歩と遠ざかっていく
ご主人様の後を追いかける。
弱虫な僕とはここでお別れだ。
だから僕は走る。
たくさん走った。
それなのにご主人様は
僕の目の前で消えてしまった。
悲しげな表情を浮かべながら。
長いようで短い夢だった。
僕がご主人様に
さようならを言いわなかったのは
ただいまを言うためにだった。
だから諦めず前に進むしかない。
もうご主人様に
悲しい顔はさせない。
重い体を起こし
周りを見渡してみると1匹の子猫が居た。
小さな体に短い手足
甲高い鳴き声は昔の僕に似ていた。
似ていると言うか
僕そのものだった。
そして見覚えのある懐かしい
この場所は僕がはじめて
ご主人様に会った場所だった。
僕はすべて思い出した。
僕は野良猫だったのだ。
物心ついた頃から1人ぼっちで
毎日を生きていくだけでも大変だった。
そんな僕がご主人様に
会った日は土砂降りの雨が降っていた。
ポツポツと降り出した雨は
次第にバケツをひっくり返したような
大雨へと姿を変えた。
僕はひたすら走り回り
雨をしのげる場所を探した。
1時間2時間と時間が過ぎていく。
それでも雨をしのげる場所は
見つけられなかった。
しだいに体が冷え
手足の感覚が無くなり
1歩も動けない僕の前に
1人の人間が現れた。
もうだめだ
と思った僕の前に現れた人間は
希望の光だった。
人間は動けない僕をじーっと見てから
大きな体をわざわざ折り曲げ
僕に傘を差してくれた。
だから僕は今出せる限りの大きな声で
たすけてと精一杯鳴いた。
すると人間は優しく微笑み
汚れることも濡れることさえも躊躇せず
僕のことを抱きかかえ走り出した。
「僕が助けてあげる。」
そう簡潔に1言だけ
僕は安心して意識を落とした。
この日が
僕がはじめて人間に触れた日であり
1人の人間がご主人様になった日だ。
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