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5
レジの前で、少し待たされた。
前の客が、バッグの中を探っている。
ポイントカードが見つからないらしい。
彼女は、腕時計を見る。
急いでいるわけじゃない。
ただ、待つ理由がないと思った。
——前だったら。
そう思いかけて、止まる。
前だったら、
誰かが代わりに並び直してくれたかもしれない。
誰かが店員を呼んでくれたかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、
胸の奥に、わずかな違和感が走る。
「……あ」
声にならない音が、喉で止まる。
自分は、
いつも“してもらう側”に立っていたんじゃないか。
ほんの一瞬、
そういう言葉が、形を持ちかける。
前の客が会計を終え、
レジが進む。
店員がこちらを見る。
「お待たせしました」
彼女は反射的に笑う。
「いえ」
その笑顔は、
考えを終わらせるための合図だった。
袋詰め台で、商品を詰めながら、
さっきの感覚を探す。
もう、ない。
考えるほどのことじゃない。
誰だって、順番は待つ。
世の中が、そういう仕組みなだけ。
*
店を出る。
外は明るい。
ベンチに座って、スマホを見る。
通知はない。
少し前なら、
ここで誰かにメッセージを送っていた。
「今、ちょっと時間ある?」
その文面が、頭に浮かぶ。
でも、
送らない。
返事が来なかったときの顔を、
想像してしまったからだ。
それは、
自分が弱くなったみたいで嫌だった。
*
立ち上がる。
バッグを肩にかけ直す。
歩き出しながら、
もう一度だけ、さっきの考えが戻ってくる。
——もし、誰かの番を待たせていたとしたら。
すぐに、打ち消す。
そんなつもりはなかった。
頼んだだけだ。
無理なら、断ってよかった。
それが、大人の関係だ。
*
信号が変わる。
人の流れに乗る。
立ち止まらなければ、
考えなくて済む。
彼女は歩く。
その違和感を、
足並みの中に紛らせながら。
6
目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。
カーテンの隙間から、朝の光が入っている。
悪くない天気だ。
起き上がって、スマホを見る。
通知はない。
しばらく眺めてから、
「まあ、朝だし」と思う。
洗面所で顔を洗い、
鏡に映った自分を見て、
特に何も感じなかった。
*
朝食は簡単に済ませた。
テレビをつける。
音だけが部屋に流れる。
誰かに話しかける必要はない。
今日の予定を共有する相手もいない。
静かで、楽だと思った。
*
外に出る。
駅までの道を歩きながら、
無意識にスマホを確認する。
何も来ていない。
前なら、
ここで誰かに「おはよう」と送っていたかもしれない。
でも、
今日は送らない。
理由を考えなくても、
自然にそうなった。
*
昼。
一人で食事をする。
店内は混んでいて、
隣の席では二人組が話している。
声が少し大きい。
前だったら、
「誰か誘えばよかったかな」と思ったはずだ。
今日は、思わない。
一人でいることが、
特別な状態じゃなくなっていた。
*
午後。
用事をいくつか済ませる。
書類を出す。
買い物をする。
移動する。
全部、自分でできた。
少し疲れただけで、
困ることはなかった。
「案外、平気」
その言葉に、嘘はなかった。
*
夕方。
空が暗くなり始める。
どこかに寄ろうかと考えて、
やめる。
用事は終わっている。
連絡する相手も、特に思いつかない。
まっすぐ帰る。
*
夜。
部屋の明かりをつける。
靴を脱ぐ。
静かだ。
テレビを消し、
ソファに座る。
一日、
誰とも話していない。
その事実に気づいたのは、
もう寝る準備を始めてからだった。
「……別に、困ってないし」
そう言って、
スマホを伏せる。
誰かに確認してもらう必要はない。
*
ベッドに入る。
電気を消す。
暗闇の中で、
今日の出来事を振り返る。
特別なことは、何もなかった。
それが、答えだった。
周りに誰もいないことは、
いつのまにか、
確定していた。
それは、
彼女がより好んだ結果だった。
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