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その日は何事もなく過ぎていった。いや、何事もなくと言っても休暇前らしくバタバタと忙しなくはあったが……特に大きな問題もなく1日が過ぎたということだ。
夕方、空が暗くなり寒さが厳しくなり始めた時刻。坪井は客先から会社へと戻った。
デスクで軽く首を捻りながらコキコキ鳴らしていると「坪井くん部長が呼んでるよ」と、小野原の声。それにたいして「わかりました」と短く答える。
(帰ってきて早々何だよ〜、今日は平和だったはずだけど)
疲れた身体がさらに重くなった気もするが、よいしょと立ち上がり高柳のデスクに向かった。
「お疲れ様です、今戻りました」
デスクで忙しなくパソコンを操作している高柳に声をかける。手を止め、坪井を見た。
「……今日は特にミスなく、川口が取りこぼした仕事までカバーしたそうじゃないか」
「え、まぁ、カバーというか」
手が空いていたから川口からのSOSの電話に応えただけだ。自分の周りが円滑にまわってなければ真衣香に迷惑が及ぶこともあると、学んでの行動で。
「お前、あとは見積もりと報告書が残ってるくらいだろう? これを総務に提出してきてくれるか」
「え? 総務?」
聞き返しているあいだに書類の束を手渡された。
「八木くんに今日までと言われていた書類なんだが、俺は手が空いていないからな」
「……え、空いてそうに見えるんですけど」
見たまんまを伝えると、メガネの奥の切れ長で鋭い瞳が、さらに鋭利になった。今にもビームが出てきて心臓貫かれそうな殺気を感じる。
……これは、有無を言わせる気がない。おとなしく言うことを聞くに限る、我が身可愛ければ。
「あ、はい、わかりました。持って行ってきます」
「……行くなら最初から気持ちのいい返事をしろ」
「すいません……」
若干理不尽さも感じるが、言葉選びの問題か。恐らくは高柳なりの”労い”のつもりなのだろう。坪井は渡されたクリップ留めされている書類を手にエレベーターに乗り込んだ。
(いや、嬉しいっちゃ、そりゃ嬉しいんだけど……立花の迷惑も考えてやってくださいって!)
高柳への抗議をひっそり胸の内、響かせながらエレベーター内の壁に軽く頭を預けて、そんなに高くはない天井を眺めた。
――総務には、八木の目もあり用がなければなかなか足を運べない。高柳はそれをきっと分かっているし、気をかけてくれたのだけれど。
真衣香へ掛ける迷惑を別にしても、手放しには喜べない。
何故って、簡単だ。今朝のテンションで真衣香に会ってしまうと、何とか持ち直し続けてる自分の心があっけなく折れてしまいそうで少し怖いから。
はぁー、と気怠さ満点の息を吐きながら。エレベーターを降りて総務へ向かっていると、ちょうど近くのミーティングルームからトレー片手に出てきた真衣香が見えた。
……お茶でも出してやってたんだろうか。
優しく丁寧な手つきで会議室のドアを閉めて、振り返った真衣香が「……ぎゃっ!?」と、驚きの声を上げた。
続いて「つ、坪井くん何でこんなとこに……外出中じゃ」と、ぼそぼそ呟く。
あげく、目を合わせたくないと言わんばかりに、ささっと下を向かれてしまった。
(ぎゃっ!? って、待て待てマジで待って、ゴキブリ見た時の女の声じゃん……)
ちょっと顔色が悪くなってるかもしれない。顔面から、さーっと血の気が引いた感覚がする。きっと、ある意味恐怖を感じてしまっているからだ。
何で恐怖心を覚えたかと言えば、笹尾の一件だ。
……どう前向きに考えても。
あの時の真衣香は、タイミング的にただ動揺していただけなのだろう。見せてくれた僅かな執着、少しだけ射した希望の光。それらは幻だったようで。
「ははは、ごめん。びっくりさせた?」
(……会いたくなかった感じ、めちゃくちゃわかるんだけど)
好きな女に姿を見られた途端、悲鳴をあげられ、その上わかりやすく近付きたくないオーラを出されては……貼り付けてる笑顔も落ちていきそうだし、メンタルも粉々に割れ落ちそうだ。
「あ、ううん、ごめん。誰もいないと思ってて……坪井くんがいた、から。ビックリして」
「そっか……」
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