コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
朝が訪れた喫茶 桜は
まだ静寂が残っていた。
普段であれば
ソーレンは朝の準備を
淡々とこなしているはずだが
この日は少し違っていた。
カウンターに立ちながらも
視線は空を彷徨い
コーヒーミルを回す手も
どこかぎこちない。
耳に聞こえているのは
昨夜のレイチェルの笑い声や
繋いだ手の温かさ——。
その感覚が
まだ自分の掌に
残っているような気がして
手を開いてみても
当然ながら何も残っていない。
「くそ⋯⋯」
思わず小さく呟いて
ソーレンは自分の頬を軽く叩いた。
だが
それでも意識は切り替わらず
考えがまとまらないまま
仕事の段取りが
頭からすっぽり抜け落ちている。
「ソーレン?
このモーニングセット⋯⋯
ゆで卵、忘れてるよ?」
「あ?⋯⋯あぁ、わりぃ」
背後からレイチェルに声をかけられ
慌てて卵を取り出す。
その時
レイチェルが隣に立って
トレイを並べ始めた。
ほんの少し
手が触れ合った瞬間——
「ーーっ!」
ソーレンは反射的に手を引いた。
驚いたようにレイチェルが振り向く。
「どうしたの?
今日はなんか、変だよ?」
「⋯⋯別に、なんでもねぇ」
そっけなく答えたものの
視線を合わせることができない。
——何なんだ、俺。
こんな風にドキドキするなんて
馬鹿みてぇだ。
ただ手が触れただけなのに
心臓が跳ねる。
こいつの顔が見られないなんて
俺らしくもねぇ。
昨日までは
普通に話せてたのに——
——昨日までは⋯⋯
あの時
手を繋いでしまったのが
全ての原因かもしれない。
レイチェルの手は
温かくて柔らかくて——
そのくせ
俺の手を離そうとしなかった。
あれが⋯どうにも頭から離れねぇ。
ーレイチェルが
男として俺を意識してるのか?ー
「⋯⋯っ、くそ」
また思い出して
無意識に髪を掻き毟る。
レイチェルは
そんなソーレンを
少し不思議そうに見ていた。
「ソーレン、本当に大丈夫?
なんか今日、ぼんやりしてるよ?
あ⋯⋯もしかして、二日酔い?」
「うるせぇ。俺はいつも通りだっつの」
腹が立ってる訳では無い。
なのに⋯⋯苛立つ。
「そうかなぁ⋯⋯」
レイチェルは小首を傾げ
じっとソーレンの顔を覗き込む。
「⋯⋯っ、近ぇ!」
「え、そう?」
不意に距離を詰められ
心臓が跳ねる音が自分にも聞こえる。
何をやってんだ、俺は——。
本当に情けねぇ。
「ほんとにどうしたの?
なんか私、嫌われた?」
レイチェルの声が、少し弱々しくなる。
「⋯⋯いや、そんなんじゃねぇよ」
焦ったソーレンが
誤魔化すように
コーヒーを注ぎ始めると
急いだせいで
カップから少し溢れてしまった。
「わぁっ、大丈夫?」
「ちっ、しくった」
慌てて布巾で拭き取るが
指先が微妙に震えている。
「ソーレン、今日は休んだら?
もしかして
昨日も⋯無理して付き合ってくれたの?」
心配そうに声をかけるレイチェルに
また謎の苛立たしさが込み上げた。
「うっせぇ!
俺は別に大丈夫だっつってんだろ!」
怒鳴った瞬間
レイチェルの表情が一気に曇った。
「あ⋯⋯ごめん。
私、余計な心配だった⋯⋯?」
声が小さくなり、レイチェルが俯く。
そして、小さな背中が厨房へ消えていく。
しまった——
そう思った時には、もう遅かった。
怒鳴るつもりなんてなかったのに
反射的に声を荒げてしまった。
「⋯⋯っ、悪ぃ」
もう居ないレイチェルに
謝ってみても
それでも言葉がうまく続かない。
自分でも
どうしていいかわからず
思わず拳を握り締めた。
(俺は⋯⋯)
レイチェルを傷つけちまった。
ー愛を知る、良い機会かとー
時也の言葉が、思い起こされる。
(俺は⋯⋯愛なんて、知らねぇ)
どうすりゃいいのか
わかんねぇよ。
どうすりゃ、知れるんだよ?
理解できんだよ。
大切にしたい気持ちはあんのに
どうやって
大事にすれば良いかも
⋯⋯わかんねぇ。
(そんな俺が⋯⋯愛せんのかよ)
心が、ぎゅっと締め付けられる。
愛するって⋯どうすればいいんだ?
もっと、優しく
しなきゃいけねぇのに——
そもそも、優しくって⋯⋯?
アイツも、こんな俺じゃなくて
もっと愛を知る
〝普通の男〟の方が⋯⋯
ちくしょう。
なんで、他の男に笑いかける
アイツを想像すると
さらにイラつくんだよ⋯⋯っ!
なんだこれ
なんだこれ
なんだ⋯⋯これ⋯⋯?
わっかんねぇ⋯⋯。
「⋯⋯⋯くそっ」
歯噛みをしながら
ソーレンは小さく呟いた。
先程の
小さくなったレイチェルの背中が
脳裏に浮かぶ。
「⋯⋯大切に
できる自信なんて⋯⋯ねぇよ」
自分の弱さが
胸に重く伸し掛っていた。
⸻
ソーレンは、逃げるように裏庭に出た。
朝から
悩み続けていた心を落ち着ける為に
煙草を一本取り出し、火を点ける。
吸い込んだ煙が肺を満たし
少しだけ気が紛れるような気がした。
「⋯⋯っ、クソ」
ぼんやりと空を見上げながら
再びレイチェルの事を考えてしまう。
普段なら
気にも留めないような
細かい感情が
今はやけに心を掻き乱している。
愛なんて、知るわけがねぇ。
俺は今まで
愛される資格なんてないって
思って生きてきたんだ。
それなのに——
「なんで⋯⋯
あんな顔させちまったんだよ」
レイチェルの小さな背中が
頭から離れてくれない。
「ふふ。
随分と、悩まれてるようですね?」
ふと
背後から聞こえた
柔らかな声に振り向くと
そこには時也が立っていた。
「あぁ⋯⋯クソ。
また、読まれたか」
「えぇ。
朝からレイチェルさんのことを
考えているのは
聞こえていましたよ」
時也はそう言いながら
懐から煙草を取り出し
火を点けた。
「ほんと、厄介な能力だな」
「⋯⋯貴方も
知っているでしょう?
心を読むことが
全て良い事ばかりではないと⋯⋯」
「まぁな⋯⋯」
二人で煙を燻らせながら
しばしの沈黙が流れる。
普段であれば
無言の時間など
気にならないソーレンだが
今日はどうにも落ち着かない。
時也が口を開いたのは
そんな雰囲気を
見透かしたかのようだった。
「僕も⋯⋯
最初からアリアさんを愛していたか
と問われたら⋯⋯
正直なところ
違ったのかもしれません」
「⋯⋯なんだよ、急に」
「まぁ、これは
少し前に
レイチェルさんに言われて
気付いたことですけどね」
時也は苦笑しながら
鳶色の瞳を細めて煙を吐き出した。
「僕は⋯⋯
アリアさんを
喪った妹の代わりに
していたのかもしれません」
「は?」
「妹が殺されて、僕は⋯⋯
何かを埋めたかったのでしょう。
アリアさんに惹かれたのは
彼女が僕と同じ
〝喪った者〟だったから⋯⋯
かもしれません」
ソーレンは、黙って話を聞いていた。
時也が自ら
自分の過去をこうして語るのは
珍しいことだった。
「当時の僕は
自分が生きる意味を
見失っていました。
青龍がいなければ⋯⋯
きっとそのまま消えていたでしょうね」
時也はふっと笑い、ソーレンを見た。
「だからこそ⋯⋯
僕にとってアリアさんは
生きる理由そのものでした」
「それって⋯⋯愛じゃねぇのか?」
「えぇ、今ではそうだと思います。
でも、最初は違ったのでしょう。
彼女に⋯⋯依存していたんです」
「依存、ねぇ⋯⋯」
「アリアさんがいなければ
自分の存在意義を見失う⋯⋯
それは愛とは呼べない
ただの執着でした」
ソーレンは黙って耳を傾けながら
煙を吸い込んだ。
自分の中に渦巻くモヤモヤが
少しだけ晴れていくような気がした。
愛の塊のような、この男が
ー初めは、愛ではなかったー
と言うのだから。
「つまりは、愛の始まりは⋯⋯
それぞれ、ということですよ」
時也は、ふっと笑って言葉を続けた。
「貴方は貴方の
その不器用な始まり方で良いのです。
愛を知らないから
愛せないとは限りません」
「⋯⋯⋯⋯」
「逆に
辛い環境を生きた貴方だからこそ
できる愛し方もあると思います。
だから⋯⋯
愛せないかもと
自信を失うことはありませんよ」
時也の優しい声が
ソーレンの胸にじんわりと染みていった。
「俺は⋯⋯
愛なんて、ろくに知らねぇ。
どうやって愛せばいいかも
わからねぇよ」
「それでも⋯⋯
今、貴方は悩んでいる。
それだけで十分じゃないですか」
「悩むのが、十分⋯⋯?」
「えぇ。
愛を知ろうと
感じようとしている証ですから」
時也は
静かに煙を吐き出しながら言った。
「大切にしたいと思っている。
彼女を守りたいと思っている。
それが、きっと愛の始まりです」
「⋯⋯⋯⋯」
「だから、焦ることはありませんよ。
貴方は貴方のペースで
愛を見つけてください」
ソーレンは黙って煙草を吸い
ゆっくりと吐き出した。
頭の中で
ぐちゃぐちゃに絡まっていたものが
少しずつ解れていく。
「⋯⋯俺
少しはマシに、できるかねぇ?」
「大丈夫です。
レイチェルさんは
きっと待っていてくれますよ」
時也のその言葉に
ソーレンはほんの少し微笑んだ。
「ったく。
⋯⋯お前の話は、いつも面倒くせぇな」
「ふふ。
負け犬みたいな貴方の顔は
気持ち悪かっただけですよ」
「⋯⋯⋯うるせぇ」
ソーレンは煙草を揉み消し
少しだけ
軽くなった胸を感じながら
立ち上がった。
「戻るわ。
サボってたら
レイチェルに文句言われそうだしな」
「えぇ、そうですね」
時也は微笑みながら頷き
その背中を見送った。
裏庭には
いつもの静寂が戻り
風が少しだけ優しく感じられた。