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《JAXA/ISAS 相模原キャンパス》
朝の会議室。
ホワイトボードの隅に、
<ASTRAEA-A サポートスケジュール>
と書かれた表が貼られている。
白鳥レイナが、
配られた紙を指先でトントンと揃えた。
「じゃあ、まず技術的なところから。
美星スペースガードセンターの昨夜分のデータ、
CNEOSとESAの解ともほぼ一致。
bプレーン上の誤差楕円も、
想定範囲内まで縮まってきたわ。」
若手職員が手を挙げる。
「つまり、“どこを狙うか”については、
だいぶ具体的に?」
「ええ。
あとはアストレアA側の設計チームと、
“どの衝突条件が一番現実的か”をすり合わせていく段階。」
そこまでは、いつもの技術打ち合わせだった。
空気が変わったのは、そのあとだ。
藤原危機管理監から預かった
“もう一つの資料”を、白鳥が机の上に置く。
「それと……
今日は少し、嫌な話もします。」
一枚目には、
世界地図と赤い丸がいくつか。
<ESAセンター・窓ガラス破損>
<JPL 公開講演でのトラブル>
<JAXA前 小競り合い>
若手が、息を呑む音がした。
「ニュースで見たやつ……ですか。」
「そう。
今のところ、日本では軽い押し問答程度。
ケガ人はいない。
でも、海外では“次の段階”に入りかけている。」
レイナは、
言葉を選びながら続けた。
「内閣官房と警察庁から、
職員と家族向けの注意喚起が来ています。
通勤ルートを固定しない、
帰宅時間をSNSに書かない、
自宅周辺で見慣れない車が止まっていたら——
すぐ警察に連絡すること。」
部屋の空気が、少し重くなる。
「……まるで
スパイ映画みたいですね。」
誰かが冗談めかして言った。
でも、その笑いはすぐに消える。
レイナは、少しだけ柔らかい声で言う。
「怖くないはず、ないわよね。
私だって怖い。」
「ただ、
それでもここに来て、
計算して、データ出して、
“人類の一手”を支えようとしているみんなを、
私は誇りに思ってる。」
それが、
この日の“決め台詞”だった。
《ドイツ・ダルムシュタット/ESA運用センター近くの路地》
仕事を終えたエンジニアの男が、
リュックを片肩に掛けて歩いていた。
日が落ちて、
路地はオレンジ色の街灯に染まっている。
角を曲がったとき、
前方に三人の影が立っているのが見えた。
フードを深く被った若者たち。
顔の下半分はマスクで隠れている。
一人が、
男の胸のロゴを指さした。
ESAのマーク。
「アストレアのやつだ。」
英語混じりのドイツ語。
男は反射的に足を止めた。
「違う、私は——
私はただの運用担当で、
決定権なんか——」
言い終わる前に、
肩を乱暴に掴まれる。
「宇宙を殴る準備をしてるんだろ。
ニュースで見た。
<地球防衛>?
笑わせるなよ。」
「やめろ。」
制止の声も虚しく、
押し出された体が壁にぶつかる。
鈍い痛みが走り、視界が揺れた。
誰かが、
手にしていた何かを振り上げる。
硬い感触が頬をかすめた。
(殴られる——)
とっさに腕で顔を庇う。
落ちたのは、
プラスチックのペットボトルだった。
中身は、
半分ほど水が入っているだけ。
だが勢いは十分だった。
喉の奥が、
かすかに血の味を覚える。
「アストレアを止めろ!
神の光に手を出すな!」
叫び声。
その向こうで、
誰かのスマホが光っている。
遠くから、
警察車両のサイレンが響いた。
若者たちは舌打ちし、
男のリュックを一度乱暴に掴んでから放り出すと、
路地の影に散っていった。
残された男は、
壁にもたれたまま、
しばらく立ち上がれなかった。
(オメガより先に、
人間の方が壊れていくのか……?)
《NASA/PDCO セキュリティブリーフィングルーム》
世界地図のESAの地点に、
新しい赤いピンが刺さる。
<ESA Engineer Assaulted / Minor Injury>
セキュリティ担当官が淡々と読み上げる。
「打撃はペットボトル一本。
骨折などはなし。
軽傷で済んだのは不幸中の幸いですが、
明らかな“個人狙い”です。」
アンナが眉を寄せる。
「“ロケットや建物”から、
“人間”に標的が移った——ってわけね。」
若いスタッフが口を挟む。
「ネット上ではもう、
“科学者が殴られた”って動画が拡散しています。
コメント欄は賛否入り乱れ。
<自業自得>なんて書き込みも。」
誰かが小さく舌打ちした。
セキュリティ担当官が、
モニターに別の資料を映す。
「我々としては、
アストレアA関係者の
個人情報保護を一段強化します。
各種SNSのプロフィールも、
できる限り匿名化を。」
アンナは、小さく笑った。
「“科学は開かれているべきだ”って言ってきたのに、
ここにきて“自分を隠せ”って言われるとはね。」
笑いは、
すぐに消えた。
「でも、やるわ。
オメガの軌道は計算できても、
殴りかかってくる人間の軌道までは読めないから。」
それは冗談めいていたが、
誰も笑わなかった。
《総理官邸・執務室》
夜の官邸。
窓の外に、
霞が関のライトが点々と続いている。
サクラは、
ESA職員襲撃の速報をまとめたレポートを読んでいた。
藤原危機管理監が、
静かに説明を添える。
「幸い、命に別状はありません。
しかし“科学者個人”が狙われた
最初のケースと見られています。」
中園広報官が続ける。
「国内のSNSでも、
“そのうち日本でも起きるんじゃないか”
という不安と、
“宗教側も科学側も落ち着け”という声が混ざっています。」
サクラは、
ペンの先で机をトントンと叩いた。
「……明日の会見で、
この件に触れましょう。」
「“アストレアAへの賛意”だけじゃなくて、
“科学者と宗教者、いかなる立場の人に対する暴力も
許さない”とはっきり言う。」
藤原が頷く。
「“どちら側”にも寄らない、
“ルールの話”としてですね。」
「ええ。
祈る自由も、
反対する自由も、
研究する自由も守る。」
サクラは、
少しだけ表情を和らげた。
「ただし“殴る自由”だけは、
この国には存在しないってことを、
ちゃんと確認しておきたい。」
その言葉に、
中園が小さく笑う。
「いいフレーズですね。
きれいに整えすぎると嘘っぽくなるので、
そのまま言いましょう。」
サクラは窓の外を見た。
(宇宙の岩と戦う前に、
人間同士が殴り合ってどうするのよ。)
心の声は、
まだ誰にも聞こえていない。
《黎明教団・東京本部・控室》
薄暗い部屋。
小さなモニターには、
<ESA職員、信者に襲われる>というニュース映像。
セラは、
腕を組んだまま黙って見ていた。
スタッフの一人が、おそるおそる口を開く。
「……セラ様の言葉を、
曲解した人たちだと思います。」
「“ロケットの前に立つ勇気も祈りだ”って——」
セラは、
目を閉じたまま言った。
「私は“暴力を肯定しなさい”とは言っていません。」
「分かっています。
でも、
“行動しない信仰は本物じゃない”と
受け取った人もいるかもしれません。」
セラは画面を見つめる目を開いた。
そこには、
血はほとんど映っていない。
ただ、
地面に座り込む男と、
その周りでざわつく人々。
「……報道は、
“科学者が殴られた”という物語を選ぶでしょう。」
「でも、
その前に人類がどれだけ地球を傷つけてきたかについては、
誰も長くは語らない。」
スタッフは黙っている。
セラは、
深く息を吐いた。
「次の配信で言います。
“暴力は望まない”と。」
「ただ——」
そこから先の言葉は、
しばらく出てこなかった。
(心のどこかで、
“それでも誰かが止めてくれれば”と
願っている自分がいる。)
それを認めたくなくて、
セラはゆっくりと目を閉じた。
この日、
オメガの軌道は、
昨日と同じように静かに進んでいた。
変わっていたのは、
地上の人間の心の軌道だけだった。
祈りと怒りの境界線は、
目に見えないところで
少しずつ、
牙の形を取り始めていた。
本作はフィクションであり、実在の団体・施設名は物語上の演出として登場します。実在の団体等が本作を推奨・保証するものではありません。
This is a work of fiction. Names of real organizations and facilities are used for realism only and do not imply endorsement.