テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
悠真は、深い泥の底にいた。
視界を落とし、思考の回転数を極限まで下げる「スリープモード」。これが学校における彼の生存戦略だ。
(……何も、考えない。僕は、ただの背景だ……)
周囲の喧騒は、遠くで鳴るノイズのようにしか聞こえない。はずだった。
だが、その静寂の結界を、特定の「視線」が強引にこじ開けてくる。
――警告。外部からの連続したスキャンを検知。
意識の隅で、オフにしていたはずの演算エンジンが勝手に唸りを上げそうになる。
悠真は重い瞼をわずかに持ち上げた。眼鏡の奥、霞む視界の先で、クラスの太陽――白石ソラが、手鏡を見るふりをして執拗にこちらを伺っている。
と、一瞬、視線がぶつかった。
(……っ。まずい、引きずり出される)
その瞬間、スイッチを入れていないはずの思考が、勝手に「最適解」を求めて加速しそうになる。ソラの瞳の揺れ、その唇の形、昨日とは明らかに違う戸惑いの色。
(ダメだ。今は、動くな。……落とせ、出力を落とせ……!)
悠真は奥歯を噛み締め、無理やり思考をシャットダウンした。再び机に突っ伏し、昨夜のログを再生する。再生…再生するだけ。
コンビニ。立ち読み。背後に立ち上った、ソラの香水の匂い。
あの時、オンモードだった悠真の空間把握能力は、背後に潜む「観測者」の正体を0.1秒で弾き出していた。
(……見られていた。いや、どこまで聞かれた?)
美月が甘えた声で呼んだこと。付き合っているとは言わなかったが、あの距離感、あの空気。
もし美月との関係がバレれば、この平穏な「背景」としての生活は崩壊するのでは?美月にも迷惑がかかるかもしれない。
(いや……今は、考えられない。考えるリソースがない。……寝ろ。寝るんだ……)
必死に自分に言い聞かせるが、ソラの視線が刺さるたびに、システムの温度が上がっていくのが分かった。
一方、ソラは爆発しそうなもどかしさを抱えていた。
一番後ろの窓際。そこには、今日も「背景」が転がっていた。
水瀬悠真は、机に突っ伏して微動だにしない。昨日、あのファミレスで冷徹なまでにフロアを支配していた男と同一人物だとは、到底思えない。
(……無理。寝顔すら昨日までと全然違って見えるんだけど)
ソラは自分の席で、手鏡を見るふりをして何度も後ろを盗み見ていた。
昨夜、コンビニの棚の影から見た、美月に甘えられて困っていた悠真。そして、あの美月が「私の知らない悠真くん」とすねていた事実。
(あいつ、あんなに地味なのに……あの美月先輩の、彼氏なの……?)
考えれば考えるほど、頭の中のパズルが噛み合わない。
「ねーねーソラ、聞いてる? 今日、帰りどっかカフェ寄らない?」
「あ……うん、いいよ。どこでも」
「えー、ソラが決めてよ。ソラのセンス一番信じてんだからさ」
いつもなら「しょうがないわね」と中心になって仕切るはずの会話が、今はひどく空虚に聞こえる。
取り巻きの女子たちが話しかけてくるたびに、ソラは「今は放っておいてよ」と叫びたい衝動に駆られた。
休み時間になるたび、ソラは悠真の元へ行こうと腰を浮かせる。
けれど、そのたびに誰かに呼び止められたり、あるいは悠真があまりにも「ただの石ころ」のように寝入っているせいで、話しかけるきっかけを完全に失ってしまう。
(なんなのよ、あいつ……。何であんなに完璧に寝てられるわけ!?)
ソラにとって、今の悠真は「解けない謎」そのものだった。
あんなに凄い仕事ぶりを見せつけられ、さらにマドンナとの秘密まで見せつけられた。それなのに、学校では挨拶ひとつ、視線ひとつ交わすことさえ許されない「不可侵領域」を保っている。
放課後、ついにチャンスが訪れた。
悠真がのっそりと起き上がり、誰とも目を合わせずに鞄を肩にかけた。
(今だ!)
ソラは「ちょっと忘れ物!」と取り巻きを振り払うように、教室を出た悠真の後を追った。
階段の踊り場。人気がなくなった瞬間を狙って、ソラは声を張り上げる。
「ちょっと! 待ちなさいよ、水瀬!」
悠真の足が止まった。
ゆっくりと振り返るその顔は、やはりいつもの覇気のない「地味メガネ」だ。
「……何か。白石さん」
敬語。昨日、店であんなに厳しく自分を指導した時と同じ、壁のある敬語。
けれど、その眼鏡の奥――泥のように濁り、何も映していなかった悠真の瞳が、見る見るうちにクリアな光を宿していくのをソラは肌で感じた。
(な、なによ……。今、一瞬で顔つきが変わった……?)
まるで、深い眠りについていた巨大なシステムが、一斉に電源を投入されたかのような静かな威圧感。
昨日見たコンビニでのこと、問い詰めたい。けれど、もしも「ただの勘違い」だと言われたら? あるいは、「部外者は黙ってろ」とあの冷徹な声で拒絶されたら?
カーストの頂点にいるはずのソラが、なぜか威圧感の増した1人の「背景」を前にして、ひどく臆病になっていた。
一方、悠真の内心は、過負荷でいまにも火を噴きそうな演算機そのものだった。
(……来るか。第1フェーズ、質問への回答拒否。第2フェーズ、はぐらかし……。いや、無理だ。この距離、この熱量……逃げ切れない)
その瞬間、悠真の意識の奥底で、重い鉄の扉がこじ開けられるような音が響いた。
――強制再起動(フォース・リブート)。
自らコントロールしていたはずのスイッチが、ソラの放つ圧倒的な「圧」に負け、勝手に『ON』へと切り替わる。視界が急速にクリアになり、教室のノイズが消え、ソラの心拍音さえ聞こえそうなほどの超高精度な認識能力が復旧していく。
自分の意思に反してシステムがフル稼働を始めたのは、いつ以来だろうか。
脳裏に、かつての光景がフラッシュバックする。
美月に初めて個人的な食事に誘われ、あの柔らかな声で「悠真くんのこと……好きかも」と告白された、あの夜。あの時も、悠真の演算エンジンは処理不能な熱量を抱えて暴走した。
だが、今はあの時とは違う。このバグを放置すれば、取り返しのつかない機密漏洩に繋がる。
(……思考を回せ。どうにかして、この状況を『最適化』しろ……!)
悠真は眼鏡のブリッジを、無意識に、けれど鋭く押し上げた。
「『何か』じゃないわよ! あんた、昨日……コンビニで……美月先輩と……ッ!」
意を決したソラの言葉が、ついに核心の領域へと踏み込んだ。