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季節と共に、桔流の心も、少しずつ、その色合い変え始めようとしていた頃。
桔流は、毎年楽しみにしている早摘みワインの中から、普段のものよりワンランクばかり良いワインを仕入れた。
そんな早摘みワインと共に迎えた、とある週末の事。
桔流は、花厳の喜びそうな、――肉類を思わせる味わいの果実をメインとする、メティ料理の下ごしらえをしていた。
そんな桔流が、丁寧な下ごしらえを進めているのは、桔流の家ではなく、――花厳の家のキッチンであった。
― Drop.015『 WhiteCuracao〈Ⅱ〉』―
メティ科植物の果実の中でも、花厳が特に好んでいるのは、“ラミー梨”という品種のメティであった。
獣亜人族の祖先である獣族達のうち、肉食獣とされる獣族達は、主に、獣族の中の草食獣を主食としていた。
そして、肉食獣の祖先を持つ獣亜人族達の先祖もまた、獣族と同じように獣族を狩り、その肉を食していた。
しかし、獣亜人族達の文明が発展するにつれ、獣亜人族達が徐々に生態系の保護に意識を向け始めるようになると、彼らは、獣亜人族が獣族の肉を食す事自体を、法律で禁じていった。
その結果。
現代では、獣族の肉を食す獣亜人族は一人もおらず、その肉類の代用としては、品種改良により生まれた――、祖先や先祖達が食していた肉類の味や栄養素を持ち合わせる果実である“メティ科植物”が活躍しているのだった。
そのため、祖先が肉食獣である獣亜人族達の多くは、この果実を使用したメティ料理を好む傾向にあるのだが、無論、花厳も例に漏れず――であった。
そのような事から、桔流は、メティの中でも羊肉と似た味わいが楽しめる“ラミー梨”を用意した、というわけなのだが――、そんな花厳は、桔流が家に居ながらも、生憎と在宅ではない。
と云うのも、実は、その日。
花厳は、やや遅い時間帯までかかる仕事の予定が入っていたのだ。
それゆえ、花厳は、一時的に桔流に合鍵を渡す事を提案した。
そして、そのような流れから、結果として、家主が帰宅するまでの間に、桔流がディナーの用意を済ませる運びとなったのだった。
そうして、そんな桔流お手製のディナーが仕上がったところで、玄関ドアの開錠音が、家主の帰還を報せた。
桔流は、その音に、耳と尾をぴんと立てると、
(おお。我ながら、タイミングバッチリ)
と、満足げに笑んだ。
そんな桔流が、パタリパタリと玄関口に向かうと、そこでは花厳が丁寧に靴を脱いでいた。
桔流は、そこへ出迎えの言葉をかける。
「お疲れ様です。おかえりなさい」
花厳は、それに心底嬉しそうにして目を細めると、微笑んで言った。
「ただいま」
そして、それから自室に荷物を置き、足早に帰宅後のルーティンを済ませた花厳は、リビングに入るなり、テーブルに並べられた桔流の手料理を称賛した。
「わぁ。今日もまた、凄く美味しそうだね……」
それに笑むと、桔流は嬉しそうに言った。
「ふふ。お口に合うといいんですけど」
そんな桔流に、花厳は、今や二人の間ではお決まりとなっている言葉を贈った。
「もちろん合うさ。君のお手製だからね。――いつもの事だけど、口に合わない方が難しいよ」
桔流は、それに、酷く嬉しそうに笑った。
💎
二人がお決まりのやりとりを交わした後。
花厳が、手土産の上質なチーズやつまみ達を一旦冷蔵庫に入れ、席に着くと、桔流は言った。
「今日は、早摘みワインを用意してみたんですけど、――ちょっと奮発して、いつもより良いやつにしてみたんです。――これも、お口に合うといいんですが」
花厳はそれに、嬉しそうに言う。
「早摘みワインか。――そういえば、あまり飲んだ事なかったな。――桔流君が選んでくれた事もあるし、楽しみだよ」
桔流は、その花厳の言葉にまたひとつ嬉しそうに笑うと、桔流のグラスに、丁寧にワインを注いだ。
そのグラス上では、情熱的な深紅のドレスを舞わせる踊り子が、透き通った舞台をその身で満たしてゆく。
花厳は、その美しさを楽しみながら、そんな踊り子を舞わせている想い人の白く美しい指にも、ふと目をやる。
贅沢にも、今となっては度々と間近で味わう事ができるようになった、そのひと時は、花厳にとって、かけがえのないもののひとつになっていた。
「注ぐよ」
そして、桔流にとっても、それは同じだった。
花厳がそうであるように、桔流も、グラスを満たしてゆく花厳の姿を見るのが好きだったのだ。
だからこそ、自身がグラスを満たした後に、花厳に声をかけられると、その度に自然と心が躍った。
そんな桔流が、その至福のひと時を堪能し終えた頃。
二人は、ひとつ上品に乾杯をすると、それからしばらく、談笑を楽しみながら、桔流の手料理とワインを十二分に味わった。
💎
そうして、その晩も、桔流と花厳が、その晩の幸福をたっぷりと味わいきろうとしていた頃。
時刻は、すっかりと日を跨いでいた。
その中、花厳は、ふと思い出したようにして、
「そうだ」
と、言うと、一度席を立った。
すっかりと満足感に浸っていた桔流は、それを不思議に思いつつも、黙したまま見守った。
すると、すぐにリビングへと戻ってきた花厳は、そのまま桔流の向かいの席へと戻った。
そんな花厳は、恐らくは自室から――、何かを持ってきたようだった。
花厳はそれを、トン――と、優しくテーブルに置く。
見ればそれは、光沢感のある、小ぶりな、――瑠璃色の紙袋だった。
その小ぶりな紙袋には、ブランド名と思しき〈B-tail Bless〉という銀色の文字が、上品に印字されている。
(――……〈B-tail Bless〉……)
それは、ファッションアイテムや化粧品のみならず、ジュエリーでも大変有名な大手ブランドの名である。
桔流は、そのブランド名が印字された瑠璃色の小ぶりな紙袋に――、確かに見覚えがあった。
それは、今から幾分か月日を遡った、とある夜の事――。
バーのメニューが、秋色に移り変わって久しい、とある秋の夜の事――。
その紙袋は、そんな、“あの夜”に見た――、桔流自身が幾度もその手で抱えた――、あの“瑠璃色”だ。
その、久しく目にする“瑠璃色”の上品な佇まいは、桔流の心地よい火照りを一瞬にして凍てつかせた。
しかし、当の花厳は花厳で、何かを考えているらしく、桔流の心が酷く凍てついてしまった事に気付いていないようであった。
そして、そんな桔流の心模様に最期まで気付く事ができなかった花厳は、目を伏せたまま、気まずそうに言葉を紡ぎ出した。
「桔流君。――その……こんなタイミングで……前置きもせずにで、申し訳ないんだけど……。――実は、俺」
「――なんだ」
しかし、そんな花厳の言葉が聞こえていないかのような様子で、花厳が言い終えるのを待たず、桔流は言った。
「――結局こうなんのか」
その桔流の声は、これまで花厳が聞いた事もないような――、酷く酷く冷たい声だった。
対する花厳は、その桔流の反応が予想外だったのか、驚き動揺した様子で桔流を見た。
「……え?」
しかし、そんな花厳に構わず、桔流は吐き捨てるような口調で続けた。
「結局、繰り返し。――だから嫌なんですよ。――好きとか、恋愛とか」
そんな桔流に動揺しながらも、なんとか状況を理解しようと、花厳は、桔流の名を呼ぼうとした。
「桔流く――」
しかし、
「帰ります」
それも、桔流に届く事はなかった。
そうして、散々と花厳の言葉を払いのけた桔流は、そう言って席を立つと、コートやカバンを乱暴に手にするなり、足早に玄関へ向かう。
花厳は、そんな桔流を引き留めようと、咄嗟に桔流の腕を掴んだ。
「桔流く――」
だが、
「もう十分ですから!!」
花厳は、その桔流の声を聞き、桔流の状態を完全に理解し、言葉を失った。
花厳に背を向けたまま張り上げられたその声は、確かに震えていた。
その中、花厳が言葉に窮していると、桔流はそのまま、その震えた声を掠れさせながら言った。
「もう……やめてください……。もう、いいですから……。――………………手、離してください」
「――………………ごめん」
「………………」
何に向けて紡がれたのかも分からないような謝罪の言葉と共に、花厳は、桔流から手を離した。
すると、桔流は、黙したまま、静かに花厳の家を後にした。
💎
静かに玄関ドアが閉まると、そこには、しんとした静寂が残った。
自分は一体、何に謝ったのか――。
彼は何故、怒り、悲しみ、泣いていたのか――。
――結局、繰り返し。――だから嫌なんですよ。――好きとか、恋愛とか。
彼は何故、そのような事を言ったのか――。
花厳には、そのすべてが分からなかった。
だが、今の花厳に、その真相を知る術はない。
ワケを尋ねられる唯一の想い人は、もうここには居ない。
彼を、強引にでも引き止め、振り向かせて、ちゃんと理由を尋けば、それで済んだのかもしれない。
泣いている彼を抱きしめる事くらい容易だ。
慰める言葉も、いくらだって思い浮かぶ。
しかし、それができるのは――、それで彼を慰められるのは――、“自分ではない他の誰か”のせいで――彼が泣いている時だけだ。
だが、今回、彼を泣かせ悲しませたのは、紛れもない自分だ。
だから、離せと言われた彼の腕から、手を離した。
彼を傷つけた自分に、彼に触れる資格はない。
彼を傷つけた自分に、彼の時間を奪う資格も、ましてや、彼の心を奪う資格も――、ありはしないのだ。
「………………」
彼が作った、色とりどりの料理が盛り付けられていた食器達。
彼が奮発までして用意してくれた、早摘みのワイン。
そんな彼が、楽しげに笑いながら口をつけていたワイングラス。
わざわざ早くから家に来て、彼が料理を作ってくれていたキッチン。
彼が座っていた椅子。
彼が背を向けて泣いていた廊下。
彼が居なくなり、音を失った室内。
そのすべてが、酷く悲しげで、酷く寂しげで、酷く虚しい。
そんな酷く切ない空間で独り佇む花厳は、黙したまま、その金色の瞳で、桔流を呑みこんでいった扉を、ただ、眺めた。
💎
桔流は、早々に花厳のマンションから出ると、顔を隠すようにして手早くマフラーを纏う。
次いで、フードを深々と被ると、夜道を足早に進んだ。
幾年ぶりかに溢れてきた涙の止め方など、桔流は覚えていない。
そんな、厄介なほどに決壊した涙腺への対処法を必死に模索しながら、桔流は、なるべく人気の少ない道を選び、歩みを進めた。
そして、しばし腰を落ち着けられる場所を求め、
(――この時間だし。この公園なら……)
と、桔流が、慣れ親しんだ公園に足を踏み入れようとした瞬間。
その公園の入口まで聞こえるほどの大きな声で泣き喚く女性の声が聞こえた。
その女性の声の合間には、微かにだが、それを宥めるような男性の声も聞こえる。
桔流は、それに思わず舌打ちをする。
(――タイミング悪ぃんだよ……クソ……)
そして、心で悪態をつきながら即座に引き返すと、それからはとにかく顔を伏せて歩いた。
しかし、時刻は深夜。
(あんまり顔隠して歩いてたら、警察に職質されっかな……)
今の状態で夜道を歩き回るのは、目を腫らす桔流にとって、得策ではない。
そんな桔流は、落ち着ける場所を求め、足早に夜道を歩き回る中、未だ落ち着かぬ涙腺を窘め、
(赤の他人に、こんな情けねぇ顔見られるなんて御免だし……)
とひとつ思うと、意を決し、とある場所へと向かう事にした。
そして、どうにか目的地に到着すると、その足でその建物の裏手へと回った。
次いで、その裏手のとある場所で、扉にもたれるようにすると、桔流はその場で、ずるずるとしゃがみ込んだ。
そうしてしゃがみ込むと、桔流はマフラーを目元に押し付ける。
しかし、どれだけ強くやわらかなマフラーを押し付けても、決壊しきった涙腺は、ほろほろとするのをやめる事はなかった。
「――さいあく……」
それからしばらく奮闘したが、やわらかな布地が湿っていくだけで、涙腺の反抗期は留まるところを知らない。
そんな反抗期に根負けし、桔流はマフラーを手放すと、溜め息を吐いた。
「はあ……」
しかし、そんな溜め息も、上手く吐く事ができなかった。
寒さもあってか、その桔流の溜め息は、震える声を交えた、大変情けないものとなった。
そんな溜め息に、より一層情けなさを感じたせいで、また涙腺が我儘をこぼし出した。
だが、桔流にはもう、そんな涙腺に構ってやる気力はなかった。
桔流は、涙腺を好きにさせながら、ふと、その場所から見える、星々の隠れた、暗い夜空を見上げた。
(あーあ……。――そっかぁ……)
そして、そのまま後ろにもたれるようにすると、後頭部をごつりとぶつけ、背後の鉄扉にその身を預けた。
(俺……。もう。――ちゃんと、好きだったんだなぁ……)
桔流は、寒空の下。
ふ、と弱弱しく嘲笑すると、震える声で紡いだ。
「今更おっせぇんだよ。ばーか……」
そして、両膝を抱え、両腕でぎゅっと抱くと、ほろほろと溢れる雫で、膝を濡らした。
それからしばらくの間。
桔流は、ただただ、いじけた幼子のように身を縮こめ、声を殺し、延々と泣いた。
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