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朝の光が、カーテンの隙間から静かに差し込んでいた。
すちは目を覚ますと、腕の中のみことの温もりを確かめる。呼吸は穏やかで、寝顔は昔と変わらない。けれど、起きたときに“同じみこと”でいてくれる保証は、もうどこにもなかった。
そっと髪を撫でる。
「……おはよう、みこと」
小さく声をかけると、みことがゆっくり目を開いた。
「……ん……」
数秒、天井を見つめてから、すちの方を見る。
その目に、一瞬だけ走る戸惑い。
胸が、きゅっと締まる。
「……あの…………だれ……?」
やっぱりか、と心の奥で呟きながら、すちは微笑んだ。
「俺はすち」
「みことの恋人だよ」
みことはしばらくじっと見つめてから、なぜか少し安心したように微笑んだ。
「……恋人……」
「なんか……それ、いいね」
その言葉に、すちは喉の奥が熱くなる。
「うん、いいんだよ」
朝食を一緒にとる。
みことはスプーンの使い方を一瞬迷ったり、牛乳をコップに注ぐ事がわからなくなったりする。
それでも、すちは隣で一緒に動作をなぞる。
「こうだよ、ゆっくりでいいからね」
「……すち、やさしいね」
その一言が、胸に刺さるほど嬉しくて、苦しい。
「昔から?」
「昔からかなぁ…どうだろう」
嘘じゃない。
けれど、“昔”を一緒に覚えているのは、もう自分だけだった。
外に出る日は、必ず手をつなぐ。
信号の色、道の名前、帰り道。
少しずつ、世界がみことからこぼれ落ちていく。
それでも、手の温度だけは、ちゃんと伝わる。
「……ねえ、すち」
「俺さ、この手、好き」
「知ってる」
「……なんで知ってるの?」
すちは少し笑って答える。
「何回も言われたから」
みことは照れたように目を伏せた。
「……じゃあ、俺、また言うね」
「好き」
ある日の午後。
みことが一人でトイレに行ったまま、戻ってこなくなった。
嫌な予感がして、すちはすぐに向かう。
ドアの前で、しゃがみこんでいるみことを見つけた。
「……どうしたの?」
みことは泣きそうな顔で見上げる。
「ここ、どこかわからなくなった……」
自分の家のトイレで迷子になる。
現実が、静かに突きつけられる。
すちは何も言わず、手を差し出した。
「大丈夫」
「一緒に戻ろうね」
その手を握った瞬間、みことはほっと息をついた。
「……すちがいると、安心する……」
「理由はわかんないけど……」
「理由なんて、いらないよ」
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みことはノートを開いて、何かを読んで書いていた。
みことがずっと書いていた“記憶ノート”だ。
日付、今日したこと、すちの名前、二人の関係。 写真も貼ってある。
それでも、ページをめくるたびに、みことの手は少し震える。
「……ねえ、すち」
言葉を探すように、ペン先を止める。
「すち、そばにいる?」
すちは迷わず答えた。
「いる」
「ずっといる」
みことは安心したように、ゆっくり笑った。
「……よかった」
そして、ノートの片隅に、小さく書き足した。
『すちは、俺の居場所』
その文字を見たとき、すちは胸の奥がどうしようもなく痛くなった。
“居場所”を守る責任の重さ。 それでも、手放す気は一切なかった。
日々は穏やかで、残酷だった。
少しずつ、確実に、みことの“できないこと”は増えていく。
服の前後がわからない。 ボタンが留められない。 名前を書けなくなる日が来る。
そして――
ある日、すちは気づく。
みことが、自分の名前をノートに書けなくなっていた。
ペンを握ったまま、困った顔で止まっている。
「……あれ……」
「み、って どう書くんだっけ……」
すちは、胸が締めつけられるのを感じながら、そっと手を重ねた。
「一緒に書こう」
ゆっくり、指を添えて、なぞる。
それでも、みことの目に浮かぶ不安は消えなかった。
「……俺、だんだん、なくなってく……」
ぽつりとこぼれた言葉。
すちは、強く首を振った。
「なくならない」
「形が変わるだけ」
みことは小さく頷いたけれど、完全には信じきれない顔をしていた。
みことは、感情のコントロールがさらに難しくなり、理由もわからないまま泣き出したり、怖がったりすることが増えた。
「……こわい……」
「……わかんない……」
抱きしめると落ち着くけれど、離れると、また不安になる。
すちは、家を空ける時間を最小限にし、生活のすべてをみこと中心に組み替えていった。
仕事も在宅中心に切り替え、外出は必ず一緒。
友人との連絡も、少しずつ減っていった。
それでも、後悔はなかった。
ただ、夜だけは、すちの心が追いつかない。
みことが眠ったあと、一人でキッチンに立ち、静かに涙を流す。
「……みこと……」
呼んでも、返事はない。
“もう、あの頃のみことには、戻れない”
その現実を、夜の静けさが、容赦なく突きつけた。
そんなある夜。
すちが、いつものようにキッチンで涙を拭っていると、背後から、小さな声がした。
「……すち……?」
振り返る。
そこには、眠そうな目をしたみことが立っていた。
「……どうしたの……?」
「……なんで……泣いてるの……?」
その一言に、胸が詰まる。
みことは時々思い出したようにすちの名を呼ぶことがある。
すちは、慌てて笑顔を作ろうとした。
「泣いてないよ」
「目にゴミ入っただけ」
けれど、みことは、じっとすちの顔を見つめていた。
そして、ゆっくりと、すちの頬に手を伸ばす。
「……だいじょうぶ……」
「……俺、ここにいる……」
ぎこちない手つき。 でも、確かに“あの頃”のみことの優しさだった。
すちは、その手を包み込んで、とうとう堪えきれず、涙を落とした。
「……ありがとう……」
みことは、意味がよくわからないまま、それでも、安心したように微笑んだ。