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すぐ上でやけに照れている若者が可愛らしくて、蓮はふと手を伸ばした。
薄茶色の髪に触れかけて、あわてて指先を引っ込める。
「ち、近いよ。風邪を伝染しちゃ大変だ。マスクマスク……」
書類の山のどこかに新品のマスクがあるはずとキョロキョロ周囲を見回した蓮の肩を、梗一郎がそっと押さえる。
「いいですよ。マスクなんてしたら、キスもできない」
「えっ?」
冗談はやめろよと笑い飛ばせばよかったのだろうか。
一瞬、真顔になって顔を強張らせたものだから、絡む視線に戸惑いが生じる。
「お、小野くん? もうだいじょ……」
もう大丈夫だから退いてくれないかという蓮の声は、不意に触れた熱に溶けて消えた。
唇に微かな感触。
「おのくん……?」
アレ? 今の何だろう。
口と口が当たって、触れるか触れないかくらいに唇が合わさって……。
──あっ、分かった。コレ、キスってやつだ。チュウ。接吻。くちづけ。ええっと……。
そこまで考えたところで、蓮はのしかかる青年の肩を押した。
ダメだよ、悪ノリしすぎだよ。今日びの若者の間ではこんな遊びが流行ってるのかい。
こういうのは好きな人とするものだよ。
今のは一瞬だからカウントなしで大丈夫だけど──軽くそう言うつもりだったのに、舌がもつれてうまく言葉がでない。
「こ、いうのは……好きなひとと……いまのは一瞬だから、カウント……」
目の前には端正な顔。
薄茶色の大きな瞳に、慌てふためいた自分が映っていることに蓮は狼狽える。
「僕は好きですよ、先生のこと」
「ええっ、何で?」
「何でって聞かれても……。それは、先生が思い出してくれるまで言いません」
抵抗を封じるように、梗一郎の手のひらが蓮の頬を包んだ。
「カウントできるくらい、してもいいですか」
「んっ……」
上唇を濡れたものがなぞったと思ったら、下唇をついばまれる。
とろりとした表情で、蓮は目を閉じた。
やわらかな感触が心地好いと思ってしまうのは、きっと熱がでているせいだ。
そこまで考えて、蓮は飛び起きた。
「痛っ」
梗一郎が額を押さえている。
「ご、ごめん。小野くん」
跳ねるような動きで上体を起こしたせいで、おでこがぶつかったのだ。
「で、でも、ダメだよ。伝染っちゃうよ、俺の風邪」
蓮は意外と石頭なのだ。
ぶつかった額を赤く染めて、梗一郎は涙目になっている。
いや、瞳が熱く潤んでいるのは痛いからじゃない。
ユカドンなんて軽口を叩いていたときからずっとだ。
「いいんです、僕に伝染してください」
整った顔がゆっくり近づく。
色素の薄い瞳に吸い込まれそうになるのを、蓮は唇をキュッと結んで堪えた。
「し、知ってるかい? 人に伝染したって風邪は治らないんだよ」
梗一郎の唇が少しだけ近付き、それから笑みの形に解かれた。
「……この状況で正論やめてください。知ってますよ、それくらい」
もうしません、ごめんなさい──そう言われ、蓮もホッとしたのだろう。
あからさまに表情を緩めた。
「あ、新たな学びだね。ユカドンが何たるか、俺は身をもって知ったよ。新しい。実に新しい学びの世界だ」
緊張をほぐすようにブツブツ言いだした蓮の唇に、梗一郎の指がそっと触れる。
「先生、黙って」
風邪は引きはじめが肝心ですからとの言葉に、コクコクと頷く蓮。
起き上がった梗一郎が、ふぅと大きく息をつく。
お世話係の本領発揮とばかりに、寝かされて布団をかけられた。
「スーパーに行って、レトルトのおかゆやスープを買ってきます。先生は寝ていてください」
コクコク。
頷くしかない蓮。
薄い布団に横たわり「いつもすまないねぇ」なんて言いかけたところで、枕元に梗一郎が膝をついた。
「行ってきます。すぐに戻りますから、何もせず大人しくしていてくださいね。それから──」
耳元に熱い吐息。
──先生、好きです。
耳朶をくすぐる甘い言葉に、蓮は我知らず笑みをこぼしていた。
それは、きっと熱のせいだ。