テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
1件
頑張れ、課長!
(冷めちゃう、よね……)
なにより、あれを残しておいて欲しいと言い置いて出たのは晴永自身だ。今頃、お腹を空かせているかもしれない。
こんな状況なのに……。
気にしてしまうのは、そんなことばかりだ。
「小笹?」
「あ……ごめん」
再度日下に呼びかけられて、我に返る。
「……本当に、あの人からは何も聞かされてないのか?」
感情を押し殺すみたいに……低く押さえた声。
晴永の名を出さず、〝あの人〟と称したところに、日下の言葉にできない苛立ちがにじんでいる気がした。
ただ、責める相手は瑠璃香ではないと分かっているんだろう。淡々と、事実を確かめるだけのような物言いが、常にストレートな言動をする日下らしくない。
もちろん、訳の分からない人事異動に戸惑っていると言うのもあるだろう。同期の中で一番渦中の人に近い瑠璃香に情報を求めたいのも分かる。だけどそれ以上に、目の前の二人が自分のことを心配してくれているのが痛いほど伝わってきた。
(何か……答えないと……)
そう思いはするけれど。――言えることなんて、何もない。
「……ごめんね。私もさっき、社内メールで初めて知ったの。二人と一緒……」
小さく、かぶりを振る。
それが、今の自分に言える全部だった。
***
玄関扉の閉まる音が、やけに大きく響いた。
「……ただいま」
返事はない。
分かっている。
夕餉の支度も済んでいるんだろう。玄関を開けると同時に、美味しそうなにおいが鼻孔を突いた。
だから、彼女がいるのは、分かっている――。
分かっているのに……『おかえりなさい』がもらえないことで、そのあとに続く言葉が出てこない。
リビングへ向かうと、灯りはついていた。
そうして、なまこのケージを見つめている瑠璃香の背中が視界に入った。
「……瑠璃香」
名前を呼ぶ。
瑠璃香の視線の先、ケージの中のなまこは小屋の中で眠っていて、姿は見えていなかった。なのに瑠璃香はじっとそこに立ち尽くしている。それだけで、彼女の心中が推し量れる気がして、晴永はグッと拳を握りしめた。
晴永の呼びかけに、瑠璃香はこちらを向いてくれない。華奢な背中が、目一杯晴永を拒絶しているように見えて、胸の奥がズキリと痛んだ。
「……瑠璃香、頼む。こっちを向いてくれ」
そっと彼女の細い肩に触れ、懇願するように呼び掛ければ、やっと瑠璃香が振り向いてくれた。
その表情に、少しだけ安堵する。
怒ってはいない。
けれど――。
いつも通りでも、ない。
「……遅かった……です、ね」
「ああ……悪い」
それ以上、続かない。もっと言わなければならないことがてんこ盛りなのに、話すべきことが多すぎて、どこから手を付けたらいいのか分からない。
沈黙が落ちる。
逃げ場のない、静かな空気だった。
(何、迷ってんだよ……俺)
(どこからでもいい。全部話さなきゃ、前に進めねぇだろ)
心の中で自分を鼓舞して、やっと口を開けた。
「……話が……ある」
短く告げて、じっと瑠璃香を見つめたら、彼女の目がわずかに揺れた。
「その言葉を……ずっと待ってました」
ぽつりとつぶやいて、瑠璃香が頷くのを見て、息を吸う。
そして――吐いた。
「俺、ずっと……お前に言ってなかったことがある」
言葉を選びながら、続ける。
「いや、違うな。……言えなかった、の方が正しいか」
自嘲気味に、口元が歪む。
#夢
凪川 彩絵